肝心なのを忘れてた
あまねく心を焦がすパッショーネ。
くるくる回る垂直落下のジュッテーム。それは衝動堪え難く。
今まさに、桃は子供のようにさっと手を伸ばして富樫の髪の毛を捕まえると、唇同士をぶっつけた。春末の燕よりもなお素早くすぐに唇は離れていく。
「オイ!!」
富樫は怒鳴り、手加減なしにギュウと桃の首を締め上げてわめいた。
「フッフフ、悪い」
ちいとも悪いと思っていないと聞いただけでわかるセリフをいけしゃあしゃあと吐く桃の面目掛けて富樫は黙って硬い硬い頭を突き出した。頭突きである、桃の頬骨にごつんと音を立てて衝突した。石より硬い富樫の石頭を本気でぶつければ桃の鼻筋も無事では済まない、富樫だって子供ではない、いくら怒ったとしても手加減のできる大人である。その手加減が桃には嬉しかった、子牛が生えたての角でもって突き掛かってきた程度の、ほほえましいものである。
なんだ照れてるのか、こら、痛い、痛いぜ富樫。フッフフ。
桃は痛くもかゆくもない、苦さ一つも無いあまやかな笑顔のまま付き合ってられねぇやとそそくさ背中を丸めた富樫を引き止めた。
「悪いって言ってるだろ、な、もう一回やって見せてくれ」
「………」
富樫の視線は湿っている。疑いとケーベツで湿っている。桃は手の平の一振りでそれを取り払った。
「すまん。謝る」
たった一言、それから真っ直ぐに相手の目を見て、な?と答えを求める。富樫はいつだってこれでしかたねぇなと言ってくれる男であった。学習しないかわりに、先入観を持たない男。それがいいのか悪いのかそれはまた別のことである。
富樫が機嫌を損ねるのも無理は無かった。今日という日は富樫が卒業して塾長秘書兼露払いの毎日に体力気力ともにすり減らしていたところ、やっと隙間をこじ開けるようにして手に入れた休みである。溜まった洗濯物を塾時代と違って誰も片付けてはくれないし、誰も飯を出してはくれない。やることをすませたら今日は目がとろっけるまで寝ちまおうかと楽しみにしていたその早朝である。前日は、どうせ休みだからと遅くまで飲んでいた。一人でである。大飯ぐらいの大酒のみの虎丸と居酒屋に行ったらそれこそ諭吉が飛んでいく、ビールではなく発泡酒をリカーショップで買い込み、チーちくとから揚げをツマミに一人遅くまで飲んでいた。塾時代にはありえない一人住まいの寂しさに多少戸惑ったがもう慣れた、慣れなければならなかった。桃や虎丸、それから塾生達にどうだオマエらちゃんとやってるかよと無駄な電話をかけて無性に声を聞きたく思う。だが、それはあまりになさけない話なので富樫は思いとどまる。卒業の際、寂しくなったからって電話なんぞ女々しくかけてくるんじゃあねぇぞと一際大声で、泣きむせぶ椿山や松尾を笑ったのもこの富樫源次本人であった。一人に慣れねば、ならねばなるまいと一人息巻いて電話線を引っこ抜いての篭城酒宴。
写りの悪いテレビを眺め、初めて自分で稼いだ金で買った酒だったというのにじゃぶじゃぶと流し込むようにしてたちまち飲み干してしまった。一人で好き勝手に歌詞も揃っていない歌を歌って、仕事の文句を白い陶磁器に向けて振り撒き酒を畳にこぼし、畜生誰か誰でもいいや俺の文句を聞きやがれとうつむき、飲むだけ飲んだら万年床のじめじめ布団に包まって寝た。鼻の奥がツンとしたが、それはかび臭さのせいだ。そうだとも、富樫は自己完結して無理矢理に意識を遮断する。夢を見なかったが、心地よくは無かった。
ジャーン!と朝もはよから黒電話がけたたましく富樫の耳を打った。悪酔いした頭を打ち抜き、頭痛を起こす。富樫は呼び出しか!と布団を跳ねた。しかし、
「俺ァ、昨日電話線引っこ抜いたよなぁ」
気のせいか、と再び布団の端を合わせて身体を横たえる。しかし電話は鳴り止まない、どうやら近所の電話を聞き違えたのではなく本当に自分のボロ電話が自分を呼び続けているようである。富樫は舌打ちと舌打ちと文句を連れて起き上がった。途端に吐き気、頭痛、不快な気分で一杯である。
いくらゴミみたいな値段で買い上げた電話とはいえ、何もないのになることはないだろうと思い受話器を取る。それでも気になって電話線を手繰る。
「富樫です」
初め、電話を引いた初めも初め、おうなんじゃいと出たら不運にも塾長で、電話口であの怒鳴り声を上げられてからは受話器を離してきちんと丁寧に名乗ることにしていた。それでも起き抜けの不機嫌さよ、声は取り繕いもしなかった。一般人なら怯える、塾生なら相変わらずじゃと笑う、先輩ならこら富樫と咎める、
『お前が丁寧に話すの、初めて聞いたな』
剣桃太郎、親友にして戦友、悪友はおかしそうに吐息の混ざる独特の笑い声で富樫の耳をくすぐった。ちょうど指先が電話線を手繰りきる。当然きちんとジャックに電話線はつないであった。酔った拍子に引き抜くならまだしも、酔って電話線をつなぐなんて考えづらいが結果ここにこうしてつないである。富樫は盛大に顔をしかめた。戯言は聞き流した。
「桃かよ、なんじゃこんな朝っぱらから」
朝っぱら、それは本当の意味の早朝である。日が昇ってまもない有明けで月がまだ西の空の端っこにひっかかっているのが窓から見えた。新聞受けに新聞が入ったかどうかという時刻。時計を見るなり気分は落下していく。
『フッフフ、悪いな起こして。その、至急来てもらいたいんだ、今すぐ』
「今すぐゥ!?」
『ああ、すまん。どうしてもウチに来てもらえないか?頼む』
声がひっくり返って、富樫も体ごとひっくり返りそうになる。しかし桃の声は真剣そのものに聞こえて、富樫はふざけんなと突き放すことができなかった。
男塾というある意味温室育ちの塾生達には外の世界で協力してくれるような人間はほとんどいない、こういう助けを求められた時には出張ってやるのが友情ひいては男気というものではないのかと富樫は真面目に考えて、聞き返す。頼む、富樫から桃へしたことは多かったが、桃の口から聞くことは少なかった単語である。富樫は受話器を首と肩との間に挟みながらさっとトランクスに足を突っ込んだ。さすがにスーツで出勤するのにフンドシという訳にはいかないのでトランクスを履く様にしていた。履いたのはおそらく昨日酔って脱ぎ捨てたトランクス。二日連続のトランクスはさすがに気分のいいものではなかったが、誰に嗅がせるわけでもなしと切り捨てる。同じく脱ぎ捨てられていたスーツのスラックスに足を通す。塾を出て、服を買う面倒さを富樫は嫌というほど知った。同じ型同じ色の黒スーツを三着、着まわしている。このローテーションは一見着たきり雀に見えなくもないが、どちらかを汚したからといって総クリーニング行きにしないで済むというまことに男らしい利点があった。富樫としては頭を使っているといえる。
「わぁったよ、チッ、そんなら朝飯くれぇは用意しとけや」
『ああ、本当に助かる。すまん、富樫』
富樫は口をとんがらせて受話器に向かってがなった。酒のもやもやはすっかり吐き出され済み、富樫エンジンは起動を開始、いつだってカタパルト噴射で出陣できる準備が整っている。珍しく桃をからかうように、似合わないセリフを吐いた。
「おう、桃よう。そういう時ゃスマンよりアリガトウだろうがよ」
一拍、桃が間をあけた。ああ、声でなくため息が受話器を通り抜けてくる。顔を見なくても桃の微笑が見えるようであった。
『ありがとよ、富樫』
電話を置くなりワイシャツに腕を通した。見栄を張って、皺の無いクリーニングより返ってきたばかりの真白いものを身につける。手際よくとは言いがたい手つきでカフスのボタンを留め、鮮やかに黄色のネクタイを襟首に回す。と、
「いや、ネクタイはいらねぇやな」
ついクセで締めかけたネクタイを引き抜き、面倒だとスラックスのポケットに突っ込んだ。カギと薄いサイフだけ持って、築三十年アパートを飛び出す。ペンキの剥げた鉄階段を一段飛ばしで駆け下りた。
富樫は休日だというのにスーツに身をつつみ、朝靄を切り裂いて剣桃太郎の元へと走り出した。もちろん電車は乗り継いで。
遠路はるばる、というわけではないが休日の朝からどんな緊急事態かと血相変えて飛び込んできた親友に、
「ネクタイが結べなくって困っていたんだ。このままじゃ仕事にいけない」
は無いだろうと富樫はかいた汗すら惜しくなった。友のため、と空いた総武線の座席に座りもしないでドア前から動かず一旦停止にいらついていた自分が本当に馬鹿だと思えてくる。ネイル乾かなくってサンダル履けないから迎えに来て!という甘ったれギャルと大差ないように思えた。迎えに来て、と言われたことはなかったけれど。
「すまん、本当に、どうしても、どうしてもできないんだ」
桃は真面目にそう言った。桃の首には既に何度も挑戦を試みたらしい薄青の趣味のいいネクタイがよれよれと引っかかっている。富樫はため息をついた。
「て・め・え」
「仕方ないだろう、ネクタイには締め方なんて書いてやしねぇ」
開き直った桃は富樫の正面に立った。胸を張って立つ。富樫はまだひかない汗をはたはた手団扇であおっていたが、あ?と口を開けて睨んだ。
「頼む」
頼む、というのは結局、結び方を教えろ、ではなく結んでくれ俺はお前が結ぶのを見て覚えるから――そういうことである。富樫はまた血圧を上げそうになったが、ここへ来た目的ではあったので膝を折ってかがみ、決して器用ではない指先で桃の首から下がるネクタイを締め始めた。
小剣つまり細い方の先端を短くし、巾広の大剣を狭い小剣上に重ねて右手人指と親指でつまむ。その時、小剣に有る斜めの継ぎ目でクロスさせて長さの目安を測る。その摘んでいる右指を離さずに左手で大剣をネクタイ裏手から右側に廻し一周させ、摘んでいる右手の指の上を軽く廻して大剣を再び入れられる袋を作る。大剣を襟の下の生地のV字部分に通し、左側の大剣を裏手からクロス上部を通す。先程作った隙間に大剣をユックリ通す。
最後に結び目を引っ張り上げて、完成。これが全工程である。
やり方は分かっていても自分のではなく、人のタイを締めるというのは富樫にとっては初めてのことであった。あせりも手伝って結びなおすうちに桃のネクタイはくしゃくしゃになってしまった。
「す、すまねぇ桃」
「いや、俺こそ。だけどやっぱり皺がつくと結び目が綺麗に出ないもんだな」
その通りである。何度も結びなおしたネクタイは柔らかくなってしまって結び目のハリを保てなくなってしまうのであった。替えのネクタイはあるか、と聞こうとして富樫は静止する、するりと自分のポケットに手を突っ込んだ。安物ではあるがハリはある、黄色のネクタイ。
「それ、富樫のだろう」
「安モンだけどな、後で返せよ」
殊更ぶっきらぼうに言って、桃の首の後ろに腕をまわしてネクタイをしゅっと渡した。衣擦れの音、この音が富樫は割りと好きである。
そして、顔が近づいたところを見計らったように桃は自分の唇をぶっつけてきたのであった。
冒頭に戻る。
パッショーネの赴くまま促すまま、行動に移す。
パッショーネに流されてはいけないよ、賢人は言った。
それはそれは無理というもの、ジュッテームに溺れる人は笑う。
何よりそれはジュッテーム、それは何の罪でもなし、ただジュッテームのなせる業。
「次やったら張りッ倒すからな」
富樫はごっすんと釘を刺しておいて床にしゃがませると、自分は桃の背後に回った。桃は大人しくしている。後ろからおぶさりかかるようにして、胸に垂れたネクタイを手にした。
自分がいつもやっているようにネクタイを締めるにはこうするしかなかったのである。富樫は桃の頬の横から顔を突き出して四苦八苦。
「富樫」
「あんだよ」
ええと、こっちのデッカイ方をこの隙間に。そんでこの時にここに膨らみを持たせて、富樫は一つ一つ呟きながらネクタイを締めていく。
「富樫、くすぐったいな」
「………ガマンしろぃ」
富樫は急激に恥ずかしくなった。最後はヤッツケ、手早く締めたせいでネクタイの結び目は標準より多少小さく絞られている。が、十分であった。
すぐに身体を離すとよっしゃ、と背中を叩いた。マッサージが終わったという合図のようでもある。桃はスラックスの膝を気にしながら立ち上がった。
ほっとしたのか、顔から力が抜けている。
「これでいいだろ、覚えたかよ。今度は呼んだって来てやんねぇからな」
「大丈夫だ。ありがとう」
すっきりと晴れた桃の顔空を見ていたら、急に眠気が戻ってきた。富樫はぐああ、と雄たけびのようなあくびを遠慮なしにする。
「そうだ富樫、俺はもう行くけど約束の飯は用意してあるから」
まさか本当に用意するとは思っても見なかった富樫、そうだったこいつは変に義理がてぇんだったと頭を掻いた。そんなことすっかり忘れてしまっていたともいえず視線をずらす。桃は鞄を手に既に出発体勢である。
「わ、悪いな」
玄関にしゃがんで革靴に足を突っ込む。紐のある靴で、着脱が面倒そうであった。
ドアを開けて、桃が忘れ物でも思い出したのか振り返った。富樫は身を乗り出す。どうかしたのか、靴履いちまったんだし言ってくれりゃあ取るぜと身構える。
「肝心なのを忘れてた」
いよいよ富樫、なんじゃと声を硬くする。
「……それじゃ、行ってきます」
笑顔は照れ八割の他二割。
律儀にも、普段一人暮らしだというのに桃は富樫に向けて行って来ますと言った。富樫も富樫で自然に見送りの言葉が出る。
「おう、行ってこいや」
笑顔は照れ八割の他二割。
その時の桃の嬉しそうな顔と言ったら!富樫のつかえのとれたさっぱり顔と言ったら!
やっぱりなぁ、やっぱりだ。
富樫は桃の用意した飯を茶碗によそい、それから、ちょっと出勤が不便になるけれどこのアパートに空きはねぇか今度桃に聞いてみようかと考えた。
普段桃が使っている箸で茶碗で飯を食いながら、
やっぱりなぁ、やっぱりだ。
そう呟いて笑って、塩鮭をほお張った。
Copyright (c) 2007 1010 All rights reserved.
