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卒業ブルー

モクジ

――そんな顔をさせるつもりじゃなかった。
桃は即座に後悔し、手渡そうとして取り出した手帳の1ページを手の平に握りつぶす。






男塾卒業間際になって、松尾が田沢を連れて校庭の桜の大木の根元に寝転がる桃の隣に走り寄り、桃、桃、と少し高い声で呼んだ。
うすら眼を開けて見ればそこには、大人気のリボンをつけた猫の描かれた『ふぁんし~』な手帳の1ページだった。
これはなんだ?と目で問えば、
「こりゃあアドレス帳じゃ、これに桃の住所書いてくれ」
「アドレス帳」
また教官に見つかったらどやされそうなものを持ってきたな、と桃は松尾のまぁるい輪郭の顔を見上げた。横に眼を滑らせると後ろに立つ田沢がわかっとる内緒じゃと人差し指を口に当てた。なるほど田沢がガードしていれば教官にバレずに事を進められるだろう。
桃はよいせと起きると学ランについていた芝生を適当に手で払い落としてから、松尾のアドレス帳を一枚とこれまた『ふぁんし~』なネズミのペンを受け取った。
そういえばここ男塾で鉛筆と筆とダンビラ以外を握るのも久しぶりだと思いつつ、その『ふぁんし~』なセットと松尾の顔を交互に見比べた。
「そんな顔しなくてもいいじゃろ、椿山と半分ずっこしたんじゃ……書いてくれんのか」
視線に気づいて松尾は顔を赤らめた。それ見たことか自分で買いにいかんからだと田沢は茶化す。
「フッフフ、そう怒るなって。…書くさ」
膝を立て、そこへアドレス帳を載せると足場の悪さに苦戦しつつペンを走らせる。
手帳にさらさらとリズムよく、まず剣桃太郎と記す。続けて住所、さらに連絡先。
書き付けながら目を上げて、
「そういやこれ、全員に書いてもらうのは大変だろう。少し俺も手伝おう」
と尋ねた。一人ひとりに当たるのはさぞ手間が掛かるだろう。後で回収するとしても紛失する輩が何人も出てくるのは容易に予想がついた。側で書いてくれるのを待つしかない。そうすれば更に時間がかかる。
桃の申し出に松尾は礼を言うより早く、何故か田沢のわき腹を肘でもってつっついた。なんだ?という顔で見れば、
「桃なら絶対、手伝うって言ってくれると思ってたんじゃ。田沢がそんなお人よしおるかって言うもんで」
「べ、別に桃を疑ったわけじゃねぇ!ただこんな面倒ごと付き合うなんてモノズキがおるかって」
慌てだした田沢は普段のネギを刻むようなリズムいい話しぶりはどこへかしどろもどろになり、松尾を笑わせる。
桃も笑った。
「そりゃあ確かにモノズキだな。……お前も含めて」
指差された田沢はウッと言葉を詰まらせた。
松尾からアドレス帳を受け取り、桃は桜の木の下から出て行った。
卒業間近の桜はいつも通りざわざわもさりと、威勢よく咲いている。
それを少し、桃はさみしいような気持ちに襲われると一度だけ振り返り、それからすぐに背を向けた。逃げるように、歩き出す。





まずは教室へ向かおうかとしたところで、校舎の影に隠れるようにして見知った人物がトレーニングをしているのを見つけ早速近づいた。
「J」
寡黙な青い目の友人を呼び止めると、木から落ちてくる木の葉を一枚一枚打ち抜くトレーニングの手を休めて振り向く。涼しい顔をしてはいたが、筋肉が肩に集中して盛り上がっているあたりには玉の汗が浮かんでいた。
「桃か」
どうした、と尋ねられると桃は手にしていたアドレス帳の束から一枚を引き抜いて差し出した。Jは硬く握っていた拳を解いてそれを受け取る。汗の臭いをさせないよう気にしてか、わざわざ風下に回りこんでくれるあたりがJらしかった。
「これは何だ?」
「アドレス帳だ。これに名前と住所や連絡先を書いて欲しい」
うん?と首をかしげて怪訝そうにその『ふぁんし~』なネコを見るJに、桃は説明を追加する。
「もうすぐ卒業で、皆別々の道に行くことになるだろう」
Ah.ため息交じりのその声は確かに日本人の発音ではなかった。Jはつい今の今まで相手にしていたクヌギの木を振り向く。ニュー・ブロウを生み出す相手としていつもこいつに拳を向けていたな、と感慨に耽る。卒業。そんな単語はJにとっても桃にとってもやすやすとは耳に馴染まなかった。
「卒業か……お前はどうするんだ」
「俺は大学へ行く。Jは」
「国に…一度は帰ろうと思う」
「そうか」
さみしくなるな、とはお互いに言わない。
ただ顔を見合わせて、うんとかああ、と何の意味も無い頷きあいをしただけである。今書くと言ってからJは背中を向けた。
手の平にアドレス帳をのせてペンを手にしたはいいが、どうにも手間取っている様子のJに桃はそっと肩越しにのぞきこんでみる。


『NAME:ツ”セシワ・V〒”Tソワ”』

「…………」
「……………」

Jの頬が赤い。頬の辺りが強張っているのを見て、桃は笑っていいものか励ましていいものかしばらく迷った。ええと。ええと。桃の目がその珍妙な文字の羅列を睨んだ。ええと。
生真面目な練習好きの友人は、普段より大分小さく控えめな声で、
「この『ツ”』が『ジ』だ」
と律儀に説明を始める。桃はあんまりJが真面目に説明するものだから、ついつられて真面目に聞き入ってしまう。
「ああ、なるほどな」
「それで『セ』が『ャ』、『シ』が『ッ』」
「わかった『ワ』が『ク』なんだろう」
Jはほっとしたようにそうだと頷いた。桃は肩を叩く。
「J」
「なんだ」
「英語で書いてくれ。俺が和訳を書いておこう」

Jは眉をひょいと跳ね上げ、それから消え入るような声でありがとうと言った。
確実に背中へと迫り、今にも肩に手をかけてきそうな卒業から逃れるように、桃はJのアドレス帳を手に逃れ逃れた。





「よおーッ、桃ォ!」
卒業ではなく虎丸が、後ろからではなく前からぶっつかってきた。桃は考えごともあってよろける。虎丸の厚く熱い手の平が肩をすぐに支えてくれる。
まったくこいつはどこもかしこも大きいったらないぜ。桃はそれとわからぬよう苦笑した。虎丸はいつだって大きくて大きくて大きい。
「わはははッ!なんじゃあだらしがないのう!飯食ってんのか?」
「フッ…虎丸よりは少ないがな、食ってるよ。それよりどうした」
支えてくれていた手の平が背中に回ってきて、肩を抱きこまれる。急に詰まった距離に、間近く迫る虎丸の濃い茶色の目がぐるりと踊った。米糠のにおいがする。そういえば虎丸はその怪力を活かして塾生の食べる麦シャリに含まれる米の精米をしているのだったと思い出した。
「おうッ、ちょっくら面倒だけどよ。これ書いてくれや」
これ。
虎丸の手にあったのは、国民的大人気の赤いリボン猫の書かれた『ふぁんし~』なアドレス帳。体重はリンゴ三個ぶん。
まさしく今自分が手にしているアドレス帳と同じものであった。
「虎丸、これは…」
「べ、べッつに俺の趣味じゃねぇぞ!田沢と松尾が手伝えちゅうもんだから」
な、なんだよぉ、虎丸は桃の顔に動揺し組んでいた肩を離した。
笑っている。それも母親がするように慈愛のこもった、丸い笑いである。
ああ、ああ。
ああここにもお人よしのモノズキがいるぜ――
「フッ、別になんでもないぜ。だがこれは悪いが俺も持っていてな…」
束を取り出して虎丸に見せる。虎丸は驚いたようだったが、やっぱりな、おめぇは俺らの大将だぜと上機嫌で頷いた。
「ほんじゃ俺も別を探すとすっから、おめぇも頑張れよ」
じゃなッ、と虎丸は駆けて行った。





なんだか、ほんの少し気分が晴れたようだ。
桃はそれでも後ろを振り向かないように追いつかれないように、足早に歩き去った。
卒業は追ってきているか。
虎丸は追ってきていない。
夕暮れが追ってきている。















あらかたアドレス帳の白紙が無くなる頃には、日も暮れかけていた。
寮の調理場の換気扇から出ているのだろう蒸気からはあたたかい飯の匂いがする。校庭には人の姿が無くなっており、気づけば一人きりになっていた。
書き込み済みのアドレス帳をぱらぱらめくりながら、あてもなくしかし立ち止まらずに塾内を廻る。気づけば屋根に上がろうとハシゴに手をかけていた。
どうだここまでは追ってこられまいと、そういうつもりではなかった。だが、なんとなく空だけを見上げたいような気分ではあった。
春のまだ冷たい宵の口。学ランの襟元を掻き合わせると屋根の上にあがった。


桃は息を飲んだ。
先回りされていたわけではない。
待ち構えていたわけでもない。
別れ難くはあった。
「富樫」
富樫がごろりと、屋根瓦の上に伸びている。寝てはいないようだが脚を下に向けてぐでんと伸びている。
「桃か」
呼べば顔だけがこちらを向いた。いつもの威勢のよさがない。富樫といえばそれはそれは活きのいい男である。まな板の上の鯉は絶体絶命であるが、まな板の上の富樫も絶対絶命である。一緒ではないかと思われるが違う、鯉はおとなしく食われることが前提だが、富樫は抗って抗って暴れに暴れ、結局起死回生で帰ってくる。まな板の上の富樫。少しいいなと桃は思った。
「どうしたんだこんなところで。もうすぐ飯だぜ?」
自分も屋根へと上がっておいて何を、とも思ったが口に出した後であった。もちろん富樫も突っ込んでくる。
「お前もじゃねぇか。俺ァちょっと、夜空をだな」
顔に似合わないことを言う。桃は笑った。
「笑うなよ。いいだろ俺が空見ようが星ィ見ようが」
「ああ、笑わねぇよ」
言いながら桃は手にしたアドレス帳の存在を思い出した。富樫にはまだ書いてもらってはいない。
一枚白紙のアドレス帳を差し出して、
「これを書いてくれるか」
と言った。


曇った。
空ではない。空も東京特有の濁り空ではあったが違う。
富樫の顔が曇る。
どうしてだ?なにかあったのか富樫、俺のせいか、富樫。尋ねようとしたが喉が絡んでしまう。
「連絡先をどうしたモンかと思ってよ」
富樫はぽつりと言った。ごろりと寝転がるようにして立つ。桃に背中を向け、後ろ手に腕を組んで立つ。
その手に桃は、自分が持っていてまさに今差し出していたアドレス帳と同じものがあるのを見つけた。
迂闊であった。桃は後悔を覚える。それはやはり苦いものであった。
虎丸のことである、一番の相棒である富樫に渡さない訳が無い。
そして、富樫のことだ。その場で自分には住所が無いなどといって虎丸に気を使わせたくなかったのだろう。
兄を失った富樫は天涯孤独である。転がるようにして身一つで男塾へと入塾したのだった。
自分の鈍感さに怒りを覚えた。それもやはり苦い。
「すまねぇ、富樫」
あれこれ言い訳をするのは富樫に余計にすまない。一言だけ桃は詫びた。背を向けているため富樫の顔は見えない。
すっかり夜になった空と、富樫の黒い学帽黒い髪、黒い学ランの切れ目がぼやけて見えた。ゆるゆる溶け出して行きそうで、桃は呼び止める。
「いいって。俺は桃達の連絡先を覚えとくからよ。俺から連絡するわ」
富樫の声は平淡なものだった。それがますます桃には気に入らない。なぁ富樫、富樫、こっちを向けよ。
家が無くってもお前は富樫で、俺は俺だ。こっちを向けよ。泣いてやしないだろうな、確かめてやるからこっちを向けよ。向けったら。
富樫は後ろ手にしていた手をアドレス帳を掴んだまま前にして、ごしゃごしゃと何か物騒な物音を立てる。もしやアドレス帳を丸めているのだろうか。桃はあせった。
「伊達はどうするんだろうな」
話題を変えるのは逃げをうつようで嫌ではあったがこの際仕方が無かった。無理矢理に変える。
富樫はますます溶けて行ったように見えた。見えるのは首筋と、耳、それに組んだ手にアドレス帳。
振り向かずに富樫は言った。
「ああ、確か虎丸ン所に転がりこむってよ。なんでも虎丸が一緒に来いと泣いて頼んだとか」
それは間違いだ。桃は知っていたが黙っていた。経緯は間違っていても最終的な答えが一致するので、正解に違いは無い。
ふと。
うちに来いよと一言言おうかと桃は思った。それはいいのか、わるいのか、判断が片付く前に富樫は口を開く。
「桃、悪いがよ…」
言う前から断られた?桃は愕然として富樫を見た。いつの間にか振り向いて自分を見ている。目が赤いのに桃は気づかない。
「……なんだ富樫」
アドレス帳が突き出された。反射的に受け取る。
それに思わず眼を落とすと、でかでかと、

『NAME:富樫 源次  
住所:男塾

とだけ、汚くトメハネが強い特徴的な右上がりの文字で書かれている。つい今しがた書かれたようで、文字に指が触れると鉛筆のそれが黒く擦れた。
ばっと顔を上げる。
俺に?松尾にじゃなく虎丸にじゃなく、俺に?
「持っとけや」
ぶっきらぼうに言う富樫は目が赤い。赤いまま、笑っている。
物言いたげな桃の視線に気づき、いつもと同じように舌をこんがらかせながらまくし立てた。

「……こんなモン書こうかどうしようか迷ったんだがな。ちッ、てめぇがあんまりフヌケた顔してっからこれをやる。俺の家は、ここ男塾だぜ。いつでも会える、心配すんな」
だから会いたいなら会いに来りゃいい。な。



そうだろ、富樫は吼えた。
悪ィかよ、富樫は拗ねた。
クセェこと言っちまった、富樫は照れた。
なんだよ何とか言えよ、富樫はそっぽを向いた。






「……ああ、そうだな…」
桃は頷いた。
全く富樫だ。
富樫でありすぎる。
富樫に道を用意しようなどと思わないことだ。
富樫はいつどこにどうあったって富樫だ。自分がどこでも自分である以上に揺るがない。


「富樫!!」

もう、夜に溶け出しそうには見えなかった。よく見れば夜と富樫はこんなにも違う。
嬉しくなった。
卒業が追いついてきたって、何も変わりはしないのだとわかり嬉しくなった。
後ろを向いた富樫の耳が赤いのを、富樫は気づかない。
後ろを向いた富樫の耳が赤いのを、桃は気づく。
桃の顔も赤い、富樫は気づかない。
桃の顔も赤い、桃は気づかないふりをした。





富樫、そう呼んでその背中を突き飛ばした。
飛びついても良かったが、なんとなく照れくさいような気がした。
が。







「あ」
「あ」











桃は完璧だ完璧だと言われてはいたが、少々ぼんやりとした面もあった。
カップめんに湯を入れて忘れたり、石鹸を流さずに風呂をあがったり。

屋根の上であるということを忘れて、際に居る富樫の背中を突き飛ばしたり。










「う、うおおおおおおおおおおおおッ!!!」
「と、富樫ッ!!!」


ドズン、と鈍い音が庭から響いてきた。桃、慌ててハシゴから下へと降りる。
「な、何すんじゃい!!!殺す気か!!!」










右手左足骨折、アバラにヒビ。
富樫は驚異的な回復力で、卒業式に完治を間に合わせた。





かくして、松尾のアドレス帳は集まった。
実は富樫と同じく住所欄を男塾にしていたものは何名かいたが、それもこのゴンタクレ達のこと、考えてみれば当然のことである。
松尾田沢コンビの決死の徹夜ガリバン刷り作業により、塾生アドレス帳は印刷されてそれぞれの手に渡された。
だが、富樫のものだけ松尾田沢に戻ってきたものは、何故だかコピーだったという。


モクジ
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