真夏、髪結いの亭主

夏より冬のが楽だと常々富樫は思っていた。
上等なコートもマフラーも持っているわけではないし、靴下を履くわけでもない。
だけれど風呂に入ってまだあったかいうちに布団へもぐりこめば、いくら煎餅布団とはいえそれなりあたたかい。
朝方遅刻するとわかっていてもそこは抜け出すことかなわない極楽である。
だが夏はどうだ。
いくらフンドシ一丁になろうが汗が止まることは無い。もともと暑がりの富樫は無駄に暑い暑いとがなっては水分をその分消費しており、しおしおに干からびてしまうのも時間の問題に思われる。
この日も真夏日であった。
温暖化の影響か、人の体温とそう変わらない温度。窓を開けても骨の飛び出た団扇でばたくたあおいでも、ただ熱気の塊がぶち当たってくるだけで涼しさは皆無である。
「くっそ、あっちィな…」
畳の上でマグロのようにごろごろと転げまわる。じっとして無駄に動かぬようにしていたほうが涼しくはあるのだが、自分の体温で畳が温まってしまうので定期的に転がるようにしていた。
まったく暑い、富樫は仰向けになってふうふうと荒い息をついた。
汗が目に入りそうだったので、腕でぐいと拭う。
その間ふさがれた視界がまた開けるまでほんの一瞬だった、が、
「汗臭い、富樫」
近寄る気配も、部屋に入ってきたらしい足音も何もなしに富樫のすぐ横に飛燕が本当にいつのまにかすいと立っていて見下ろしていた。
富樫は驚いておうと吠え、がばりと起き上がった。踏まれるかもしれないと思ってのことである。
だいたい誰に対しても丁寧で優しい飛燕だが、自分を相棒だと言ってくれるようになってからは自分に対してだけ少々扱いが邪険になりつつあった。
「風呂くらい入りなさい、雑巾のような臭いがする」
「風呂くらい入っとるわい!!」
飛燕はおや、という顔をした。飛燕は富樫と違って褌(履いているかどうかは知らない。聞いてみても『この助平』と冷たくあしらわれるだけである)一丁でいるわけではない、きちんと学ランを身に着け、中にシャツまで着込んでいる。それでいてちいとも暑苦しさがないのがなんとも不思議に思われた。
「そう、それにしても見苦しいな褌一丁で。目のやり場に困る」
困る、といいながら飛燕は眼をそらさない。へッと富樫は歯をむき出しにして笑った。
「悪かったな見苦しくってよ。そんで、なんじゃ用か」
「ああ。あんまり暑そうだったからこれをと思って」
これを、と飛燕が差し出したのは華奢な一本の箸だった。一膳ではなく一本で、朱漆に塗られ頭には黒い小さな鈴と銀の房飾りがついていた。
受け取った箸一本を手に、富樫は飛燕の顔とそれを間抜けに見比べる。
こりゃあなんじゃい、これでうまいものでも食えってことかよ。一本でか。オイ。
いぶかしげな顔の富樫に、飛燕はもう一本同じ箸を手の平の上で転がして見せた。もともと富樫が持っているものと一対、あわせて一膳のものらしい。
「これは、箸だ」
「見りゃあわかるわい」
これをね、と言い置き、飛燕は自分のさらさらと流れる桜髪に挿した。
箸の飾りを摘むとぐるりとひねり、髪の毛ごと捻る。もう一ひねり、ぐるり。
富樫が口を挟むまもなく、それこそあっという間に飛燕の髪の毛は結いあがっていた。

首をひねり、すっかり後れ毛を残してあらわになった首筋を見せながら、飛燕はどうですと尋ねた。
富樫が良く見えるようにと、膝をついてしゃがむ。
「どうですって言われてもよ」
「少しは涼しげに見えるだろう」
確かに涼しげであった。普段白い白いと思って見ていた飛燕の肌だが、首筋はいつも髪の毛で隠れているせいで更に青いほどである。後れ毛が一房、ゆり落ちている首が驚くほど細い。富樫は思わずその首へ手を伸ばした。指先で触れてみるとそこはしっとりとしていて、汗で湿っている。ああなんだこいつだって汗をかくんだと富樫は当たり前のことに驚く。指を滑らせた。
と、飛燕が首をすくめて身をよじった。
「くすぐったい富樫、もう」
その、「もう」に富樫は慌てて手を離す。顔面に血液が集まってきて日焼けして分かりづらいものの赤くなっていく。
「お、おう。確かに涼しそうだがよ、これどうしろってんだよ」
飛燕が振り向いた。微笑んでいる。富樫が慌てているのを楽しんでいるようにも見えた。
「風邪を引いたりして熱が出たときに首筋に脇の下をまず冷やすだろう。あれと同じで髪の毛を結い上げるだけで大分涼しさが違う」
そう説明しながら、飛燕は富樫の手の平の上に乗ったままの箸を取り上げた。肩に手をかけると後ろを向くように促した。
「お、おい飛燕」
「元々日本や中国では食べる時に使う箸だけれど、欧米ではこうして髪の毛を結い上げるようにして使うことが流行りで」
涼しい声で説明を続けながらちょうど子供が父親の肩たたきをするときのように飛燕は膝立ちで富樫の後ろに立つ。父と子といえばほほえましいが、切腹の介錯のようにも見えないことはなかった。
暑い暑いと言うわりに最後まで外さなかった兄の形見である学帽を取り上げた。
富樫が嫌そうに顔をしかめた。右手を上げてひらひらと払うように振った。
「まさかよ、そんなネェちゃんみたいな頭にしようってんじゃねぇだろうな。俺はそんなのゴメンだぜ。笑われちまう」
「馬鹿」
「あん?」
「今言っただろう、流行っているって。渋谷新宿池袋、代々木原宿白金台行って御覧なさい。若者は皆やっているから」
ただし簪のようにしているのは女だけだが。とは言わなかった。ゴムで結ぶのは男でも居るがそれは飛燕の好みで無い、なぜなら結いクセが付いてしまって見た目が悪いからである。
「本当かァ?なんか嘘くせぇな」
後ろに立つ飛燕の目がつりあがった。富樫は見えないながらもその気配が冷えたことで悟る。涼しくはなったが居心地のいいものではない。
富樫は従うことにした。これが虎丸ならぶん殴るし、桃なら勘弁してくれと言う。だが飛燕はどこか怒らせたらいけないような気がしている。
そんな富樫の逡巡などお構いなし、大人しくなった相手に満足そうに飛燕は櫛を三本取り出して並べた。
歯の少ないプラスチックの櫛。
ツゲの、細かい彫刻の入った上品な平櫛。
上等な狸の毛がびっしりと植わっているブラシ。
飛燕はまず安っぽいプラスチックの櫛を手にした。
頭の天辺に櫛を入れ、一気に下ろす。

ブチブチブチブチッ!
勢い良く富樫の逃頭皮から毛根ごと髪の毛がひっこ抜けた。十本単位でひっこ抜けた。
「うごあああッ!!」
富樫の悲鳴よりも髪の毛が立てた音に驚いて飛燕は手を櫛から離してしまった。手を離したというのに、櫛は髪の毛にかたくなに噛み付いてぶらさがったままである。しかたなしに飛燕はとかすのを諦め、そっと櫛を抜いた。髪の毛が大量に絡みついている。
あまりに痛々しいので櫛を見ないようにして、抜けてしまった戦死者達を外すとちり紙を一枚箱から富樫に取らせ、その上に弔った。
死者が出るのは戦の常だが、あまりに多くの犠牲を出してしまった…飛燕は自分が相手の戦力を見誤ったためだと悔いて、そして再びに武器を手に立つ。
「い、いてぇじゃねぇか!!」
「ああ悪い。あんまりもつれて絡まってるから…気をつける」
ブヂン!
「がッ」
ビビッビビ、ブツン!
「ぐぇッ!」
バブチ!
「ぎゃ!!」
「もう少しだから富樫、もう少し。ほら、痛かったら右手を上げて」
富樫は右手を即座に上げた。それは歯医者じゃねぇのかとも思ったが、とりあえず主張は済んでいるので言わなかった。
「もう少しだから」
バツーン!!
「ぐぇーーーーーッ!!」
飛燕がもし歯医者だったら、きっと右手を上げた瞬間に歯を引っこ抜くに違いねぇ――富樫のそれは何気ない空想であった。
しかし将来、ピンク色の外科医となって目の前に現れた飛燕にこの時のことが思い出されることになる。今は知るよしもないが。


多大な被害を頭皮に受けながらも飛燕の第一次攻撃を富樫はなんとか耐え切った。傍らに置かれたちり紙の上には戦死者が無残に積みあがっている。
富樫は奥歯を砕きそうなほどかみ締めて我慢していたが、一時止まった手にここぞと怒鳴った。
「俺がハゲたらどうしてくれるんじゃ!オウ!」
「わたしが責任持って面倒見よう」
しれっと言い放つ飛燕は、既に次の武器ならぬ櫛を手にしていた。富樫はフンと鼻から息を吐き出す。
飛燕が自分のためにわざわざそこまでやってくれている点を酌んで、富樫は文句を垂れるだけに止めたのであった。飛燕は嬉しそうにふふっと笑い首をかしげた。
ちりり、と飛燕の髪の毛を止める箸についた鈴が揺れ音を立てる。
「へッ、てめぇはアデランスかってんだ」
「ふふ、もう痛くはないからいいだろう」
平櫛を滑らせる。先程のようにブチブチ抜けはしないが、それでもまだ残るもつれに何度もひっかかっては櫛が止まる。そのたびにもつれを摘み、指先でひとつひとつ飛燕はほぐしていった。その甲斐甲斐しい努力の成果か次第に富樫の、あのワサワサと盛り上がって今にもトトロが出てきそうであった髪の毛が落ち着いていき、てんでばらばらの方向へ跳ね飛んでいた真っ黒で硬い髪の毛達が同じ方向へと揃っていく。
個性の強い変人たちばかりのクラスが熱血担任の指導で、紆余曲折を経て一丸となって合唱コンクールを勝ち抜く姿にも似ていた。
「おっ、男前になったじゃねぇか」
「ああ、随分きれいになった」
戦死者の山はこの際無視して、富樫は久しぶりに視界へと入ってきた前髪を摘んだ。思いのほか伸びている。
弾んだ声で飛燕は言った。指でここと、ここ。そう示す。
「つむじが二つある。だからこんなにクセがついていたんだ」
「そうかよ」
自分でも知らなかったことだった。頭なぞ人に覗いてもらわなきゃわからないものである。
だが、富樫は随分昔に今と同じ事を言われたことを思い出した。

『おう源次ィ、オメェの頭つむじが二つあるな』
『兄ちゃん、坊主は嫌じゃ』
『贅沢言うんじゃねぇ、そのうち兄ちゃんが床屋行かせてやるから』
『わかった。……我慢する』
『そんじゃ動くんじゃねぇぞ。バリカン使うからな』

あれも暑い日じゃなかったっけか。富樫の目が遠くなる。
さすがに飛燕は目ざとかった。どうかしたのか富樫、尋ねる声が優しかった。
「頭の右っぱしに、傷があんだろ」
「傷…?ああ、これ」
飛燕の指先が言われたところにある傷をなぞった。そこだけ髪の毛が生えていない、三日月形の傷。むろん古傷で触れられても痛みは無い。
「これがどうかしたのか」
「おう、昔な。床屋行く金が無くってよ、兄ちゃんがバリカンで刈ってくれてたのはいいんだがな…下手糞だったんだ」
ははは、と富樫は笑ったが、飛燕は笑わない。微笑んだだけである。飛燕は黙ってブラシを手に取った。

さり、
さり、
さり、

髪の毛の表面をブラシが通る。

「兄ちゃんは自分で自分の頭やるもんだから後ろが滅茶苦茶で、なんかの模様みてぇだったぜ」

さり、
さり、
さり、

ブラシが通りすぎた先、真っ黒な髪の毛は強いほどに艶を持ってうねった。

「一度俺が兄ちゃんやってやるよってバリカン握ったんだけどな、俺はもっと下手糞だった」

さり、
さり、
さり、

飛燕はブラシを置いた。箸を手にし、髪の毛を掴んで持ち上げた。
鈴がりんと控えめに鳴る。

「結局兄ちゃんの後ろドタマにでっかいハゲこしらえて怒られたな」
「さみしいか」

飛燕の問いかけは富樫を呼び戻した。
遠かった目が戻ってきて、一度また遠くなって、それからまた戻ってきた。

「いんや」
返答は短かく簡潔だったが、富樫らしい答えだった。
0か1か、○か×か、はいかいいえか、富樫はいつだって簡潔で、それが飛燕には少し眩しい。
「本当に?」
だからこそもう一度聞く。ささやくように小さな声はもしかしたら意地悪く聞こえるかもしれない、いや意地悪く言ったのか。
嫉妬しているのだ、飛燕は苦笑した。
お前がいるから寂しくないよと言って欲しかったのだ。
だって富樫は0か1、そうだろう富樫、さっきさみしくないって言ったろう。
飛燕は髪の毛の束をねじり上げた。思ったよりも力が入ってしまったようで、手の平から髪の毛が弾けてこぼれてしまい失敗。もう一度髪の毛をすくい上げるところからやり直しだ。
「……本当だって」
0と1の男のくせに、今0.5が雑じっている。
ねじり上げた髪の毛を高くにまとめ、箸を挿す。勢いのいい髪の一房が跳ねたがまあいいだろうとそのままにして、
「うそつき」
含み笑いで責めた。

「う、嘘じゃねぇや」

富樫は顔を赤くして首を振った。ちりん、と箸の先の鈴がからかうように鳴る。房飾りが射し込む日光に銀色の光を弾いた。
うそつき、
飛燕はもう一度言って、後ろから富樫の背中にえいとかぶさった。富樫は前屈の姿勢で硬い背中をバキボキと派手に鳴らして呻く。
ちりん、
りん、
飛燕のと、富樫の、それぞれの鈴が鳴った。

「さみしいくせに」
「うるせぇ」

いいですよ富樫の馬鹿野郎、わたしがしっかりこうしてやる。
こうしてへばりついてうっとうしく抱きついて、こうしてやる。
富樫め、この甲斐性なし。甲斐性なしのトウヘンボク。
このわたしがこうしているっていうのに、さみしいだなんて贅沢ものめ、えい、このやろう。

富樫は重い重い暑いと文句を言ったが、本気で嫌がっては居ない。だから飛燕はなおも汗臭い背中にへばりつく。

「だから暑いって言ってんだろテメェは、耳開いてんだろが」
「ああ勿論開いてる。おまえの声がよく聞こえる」

飛燕は時折富樫を『おまえ』と呼ぶ。本来ぞんざいな響きをもつはずの呼び方だが、何故だかそれがいつも以上に親しみがこめられているように感じられて、富樫は嫌ではなかった。好きだと言ってもよかったがそれはさすがに気恥ずかしい。


「涼しくなっただろう、富樫」
言われて初めて富樫、首筋がすっかりさっぱりしていることに気づく。一筋風が首筋を通り過ぎて行ったが、これが風なのか飛燕の息なのかわかりかねるところだった。
「おう」
良かった、と笑う飛燕の顔があんまり子供のようなのでとうとう富樫は飛燕を背中からはがすことを諦めた。ちぇ、なんだよカワイイ顔しやがって。
「これからもそうしてみるといい、涼しいから」
「俺は不器用だって知ってんだろ」
「わたしがやるよ、フフ」
「なんだよ機嫌がいいな、おまえが機嫌よさげだと怖いくらいだぜ」
「ふん、」




いつか、いつかでいい。
いつかこのいい年こいた、でっかい図体のブラコンがさみしくなくなるといい。
すぐにとはいわないから、さみしくなくなるといい。
飛燕はなおも、富樫の汗臭い背中におんぶおばけをして悪口を言った。



その後、『飛燕がとうとう富樫に鈴付けやがった』『奴は本気だ』
と青い顔で一号生達がささやきあったが、これは日頃の行いというものである。
ともあれ、富樫の体感温度は少し、下がった。
夏はまだこれから、八月も初めの頃であった。
モクジ
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