しおからい冷や汁

動悸が息切れが、めまいがする。
ぐるんぐるん回って上だか下だか、それとも目覚めているんだか眠っているんだか。
ああもしかしたら俺は寝ちまってるかもしれねぇや。
だってここはどうにも暗ェんだ。
なんにも見えやしねえよ。
ああもしかしたら俺は寝ちまってるかもしれねぇや。
だってここに何も無ぇ。
手を伸ばしたってなんにもありゃしねぇ。







夏。
盆。
盆くらいはな、
盆くらいには、
そう照れ隠しにか口々にそう言い訳をしながら、塾生の多くは実家へと帰って行った。
富樫は残っている。
富樫に実家はない。
家族と呼べるものもない。
富樫は残り、一人晩飯の用意をしていた。
誰も作ってはくれないので、自分のためだけに、自分で晩飯の用意をしていた。

「へッ、静かでせいせいすらぁ」
憎まれ口を叩きながら、台所のあちこちを探る。
この際だ、帰ってきた奴らが怒るほど贅沢をしてやろうとムキになって食材を探し回った。犬の嗅覚さながら、あちこちに塾生達が隠していた秘蔵の食料が発掘される。
赤石、とラベルに書かれている酒。
雷電のつけた梅干。
誰のものか、こちこちに硬くなったまんじゅう。
収穫が遅れたためにヘチマほどもあるキュウリ。
これまたバカでかい茄子。
月光手製味噌。
伊達赤石連合釣果鯵の干物。
泥だらけの茗荷がざくざく。
ぐずぐずにこわれた豆腐。
雑草の中に見つけた紫蘇。
しけったいりゴマ。
食材のほかにも、松尾が別れ際にくれたチョコレート。虎丸が貸してくれたビニ本。抜くならこれだと卍丸がくれたやわらか保湿ティッシュ。飛燕が差し出した小袋、おそらく中身は飛燕の写真なので未開封であった。
囲まれている。
富樫はかつてないほど沢山のものに囲まれながら、夕暮れを迎えた。

動き回って汗をかいた、様様なところへ鼻面突っ込んだので埃まみれにもなった。
先に風呂じゃと、張り切って新品の手ぬぐいを掴んで意気揚々、風呂場へと進軍した。
普段狭苦しく感じるが、一人貸しきりとなれば広く思われる湯船に身体を沈め、ゆっくりと風呂を使う。
いつも芋洗いの、くつろぐ間も無く泥汚れを大雑把に落とす風呂ではなく、ゆっくりと肩まで浸かって調子外れの鼻歌を歌って風呂を使う。
存分に手足を伸ばした。湯船の端につかまってバタ足をした。背泳ぎしてマラを水面上に出し、やしの木とつまらないギャグをやった。
誰も笑わない。
富樫も笑わない。
誰も笑わないので、湯船を上がった。身体を洗うことにした。
石鹸を直に身体へとこすりつけるのではなく、手ぬぐいに包んでふわふわとケーキ作りが出来そうにあわ立てて、身体を洗った。
誰も急かすものはいない。いつもならオイてめぇ風呂ン中で屁こきやがったな、そりゃあヘチマじゃねぇワシのマラじゃ、早く出ろよてめぇらのダシが出るだろうが、オイ、コラ、オウ、何じゃ、やんのか、オイ、最後は時間が無くなって、泡を身体にくっつけたまま風呂場を飛び出す。
富樫はこんもりと盛り上がった泡をゆっくりと手ぬぐいごと首筋から胸へと滑らせた。泡が茶色に染まる。
垢太郎が一人くらい出来そうな汚れをこそげ落とし、髪の毛を同じく石鹸でじゃきじゃき洗った。中々泡立たない。
というのも汚れがはなはだしいからであった。脂分が多い地肌に石鹸の泡が負けて、たちまちしぼんでいく。
やっきになって石鹸を追加するとようやく泡が吹き返してきた。地肌がギチギチと突っ張っていく。
泡を湯で流す。残り湯量を気にせずじゃんじゃん流す。湯水のようにと流す。随分とさっぱりしていた。
ふう。
ほぐれきった身体のため息が、予想していた以上に風呂場の天井にこーんと響いた。それ以外に音が無かったので、突き抜けるように響いた。
富樫が何も言わないので、風呂場は静かである。


早々に風呂を上がった。
髭を剃り忘れた。
不思議である、風呂を使うまでは今日こそ髭を左右対称バッチリ完璧に整えてやるぜと意気込んで、新しい剃刀を用意していたというのに。
本当は不思議でもなんでもなかった。
だが、理由を認識したくなかったのでさぁて飯にすっかなと殊更に明るい声を出す。
夕暮れから、夜のはじまりへ。




どでかいあたり鉢にあたり木をテレビのある和室へと運ぶ。焼いてある鯵の干物といりゴマ、味噌を適当に放り込んでゆりころぐりころとテレビを見ながらのんびりとあたる。お盆だからであるが、ある番組ある番組手抜きに見えてしまう。映画、特番、ホラー、戦争、アニメ、戦争、特番。
あたり鉢をはさんで固定する足をちょいと伸ばして、チャンネルを変えていく。いちいち手を使わないですむと思ったのだが、やはり手は止まっている。
映画にした。
なつかしいアニメ映画である。
姉妹が森の大きな妖精に出会う、誰もが良く知るアニメであった。
おねぇちゃんの馬鹿ぁあ、と妹が叫んだ。
ずりり、あたり木が止まる。
首をめぐらして時計を見る。夜の七時になろうかというあたりであった。
あたり鉢を離すと、丸まっていた背中を伸ばして校庭へと転がり出た。

空の端がほんの少しだけ白橙を残している。その反対の端はもうしっかり紫で星だって散らばっていた。
ほぼ夜である。
富樫は手に掴んでいたワラをぼそりと校庭に投げ出すと、マッチでもって火をつけた。
ぱっと燃え上がりはせず、ワラ一本一本がひそひそぱちんと赤くかがやきくねくねと身を捩った。
目にツンとくる煙が細く昇り始め、風向きもあって富樫から遠ざかっていく。
煙は夜に白く流れていく、富樫はじっと見ていた。
じっといつまでも見ていそうな雰囲気だったが、ワラが燃え尽きるとしばらくして煙も絶えた。あの焼け銅線のような赤はすっかり消えて、ぼろぼろと黒くくすぶっている。
チッ、忌々しげに富樫は舌打ちをして、燃えカスを靴底で踏みにじると寮へと戻った。
ヒマだからやっただけだ。
おう、ヒマだったから。
腹が減ったから戻るぜ俺は。
腹が減ったから戻るんだ。
富樫は誰に言うでもなくぶつぶつと独り言を連れて、またあたり鉢とだけ向き合った。ずりころ、ずりころ、ゆりころ、ずり。



アジゴマ味噌を冷たい出汁で割って、グズグズ豆腐をブチこんで量を増やした。
適当に薄切りのキュウリを浮かべ、千切りの紫蘇を散らし、茗荷を混ぜた。
見た目は立派だが、味見はしていない。
作ったこともない料理である。むかしむかしに横であの不器用ながら良く動く指が作っているところを流し見ただけであった。
見よう見まねである。
ちょっとした縁側のある和室、その窓端に腰を下ろした。
テレビを消す。虫すら無愛想に鳴いていないのに腹が立った。畜生、虫のくせに澄ましかえりやがってよう。ヘン。
でっかい丼に冷や飯をよそい、冷や汁をジャブジャブかけて食べる。
氷を奮発したため、キンキン冷たい。
と、いただきますを言いそびれたことに気づく。
普段誰かしらがいただきますと号令をかけてくれるか、隣の奴にならっていただきますをしていたので、つい忘れてしまっていた。
後ろめたいというほどの大げさなことではないが、かきこむようにして冷や汁をすする。
酷くしょっぱかった。
あの指、自分を叱り殴る無骨な拳の一端なのに、料理を作るときには驚くほど細やかなあの指。
あの指はどれほど味噌をいれたっけか。
どうしても思い出せなかった。

一人きりの冷や汁なので、キュウリはほとんど余った。戯れにか箸をそのキュウリに突き刺した。
ごろりと倒れた。二本だけ刺された箸でバランスが取れるはずもねぇとわかってはいたがむっとした。
ふん、丼を下に下ろすと一膳の塗りのはげた箸を取ってきて、合わせて四本ぐさりぐさりと突き刺す。
ワリバシがありゃあいいんだけど、と思ったが、ここ男塾に非エコな、使い捨てなんて非経済的な代物はないのである。
四本の端を刺されたキュウリをそっと掴み、縁側に立てる。
ふらふらしながらも、やけに足の長い馬はそれでも立った。

おい立ったぜ、よう、
誰かに見せたくなったが、誰も居ない。
その上使っていた箸をキュウリに刺してしまっている、とたんに飯が面倒になった。

こんなしょっぺえ冷や汁、食えるもんかよ。
もっとあの冷や汁はもっとうまくってよ、もっと、もっと。




うめぇか、源次。
うめぇよ兄ちゃん。
そうか。
ああ。



「ちゃんと作り方聞いとくんだったぜ」
ごろりと富樫はキュウリの横に寝そべった。その馬は頭が無いみたいで、少し不気味である。
残った冷や汁に一匹、蝿がたかろうとしていたので追い払った。
食う気はないが、蝿にたからせると思うとなんとも惜しかった。














「ああ、冷や汁か」
まーた月を背負ってやがる。格好つけやがって。
テメェ里帰りはどうしたんだよオイ。
いつだって唐突なんだこの二枚目は、富樫は胸のうちで悪態をつく。千両役者かってんだ、ちぇ、いつだってオイシイところを持ってくんだからな。
見られたくない時と、見て欲しい時、両方に必ずこの男はいる。いなくたって現れる。
富樫は目元を拭った。
「ちいとしょっぱいがな、よう、食うか」
「ああ、うまそうだ」

新しい丼を、と立ち上がろうとしたところで止められる。それでいいと、富樫が残した冷や汁を指差した。
「やめとけって、もうぬるいし氷もとけちまったから」
「しょっぱいんだろう?ちょうどいいさ」
話を聞かねぇったらないぜ、と富樫。さっさと水滴が外側にびっしり浮いた丼を持ち上げて箸を探す。
「富樫、箸をくれ」
「箸ィ?そんならそこに……」
あ、と桃の口が半端に開いた。
キュウリの馬に桃の目が留まる。富樫は慌てた。
「い、今持って来てやらぁ」
どたどたと和室を出て行きかける、桃はまた富樫、と呼んだ。
なんじゃ、と答える声は少しだけ普段より低かった。
富樫、と呼ぶのは静かな声であった。

「だからなんじゃ、桃よう」
「まんども焚いたし、御馬もある。今頃居るんじゃないか」
富樫は黙った。落ち着かなげに柱を上下にさする。
桃は窓の外を親指で示した。うすらぼんやりの月が雲の隙間から顔を覗けている。
明るい夜であった。

「……そうかもしれねぇな」
桃は縁側を叩いた。酒を飲む仕草をして笑う。笑う。


「今日はここで一晩しゃべるとしよう。酒でも飲んでな」
言葉が喉の奥にひっからまってしまい、富樫は詰まる。うぐ、と詰まる。
とんでもなく恥ずかしいことを言い出しそうな口をひんまげて、桃を見る。桃は笑っている。いつも通りに笑っている。
「じゃあ、そうすっか」
「ああ」
「酒持ってくらぁ」
「頼む」
出て行きかけて、また、振り向いた。
今度は呼び止められてではない、富樫から振り向いた。
「桃よう」
「うん?」
律儀に冷や汁の丼を手にしたまま、行儀良く桃は待っている。
富樫は早口に述べた。
「ありがとよ」
桃はなんてことないという顔で、早く箸をくれと富樫を急かした。富樫は今度こそ台所へとかけていく。









再び箸をつける頃冷や汁はちょうどいい塩梅になっており、桃はうまいなと大層喜んでおかわりを三度した。
後日、二人揃って茄子の牛をつくり、送り火を焚く。

暑い、記録的に暑い盆のことであった。






モクジ
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