残暑
日本の夏は驚きの連続である。
搾れば滴りそうな高度の湿気、
毎日じとじとと鬱陶しい雨が続き、
白熱する目もくらむような太陽、
そして、
ワッ、と日本人の発音とは歴然として違う短い叫び声に松尾は声を上げた。
七月の初め、登校途中の事である。
声の主は時折忘れかけるほど日本に馴染んだ留学生、Jのものである。
ちょうど隣を並んで歩いていた松尾がきゃっと飛び上がって驚く、普段ならばすまんと謝るだろうJはきょときょとと動物じみた仕草で辺りを見渡していた。
「ど、どうしたんじゃJ」
松尾が尋ねて初めてJが視線をはるか高いところから松尾へと下ろす。松尾が思わず噴出したくなるほどその尖ったまなじりの視線が泳いでいた。
「気にならないのか」
「あ〜ん?」
何がじゃろ、松尾はそれでも律儀にJが気にしそうなものを探すべく辺りを見渡した。
朝の六時半、日差しはようやくかっかと熱し始めたばかりでまだ涼やかなあたりである。梅雨も明けたばかりなので暑さの切っ先もまだ鈍い。
辺りを見渡してもいつも通りのさびれた通りばかりであったので、
「何がじゃ、J」
と聞き返す。Jは小さく呟いた、それは母国語で「俺にしか聞こえないのか」などと言う意味だったが松尾には無論わかりようもない。
Jの叫びを聞きつけなかった桃や富樫、それから秀麻呂に田沢椿山達はだいぶ先に行ってしまって二十メートルは離れてしまっている。
急かす意味でもって松尾が軽く足踏みをすると、Jも鈍い足取りで歩き出す。
「お前には聞こえないのか」
言われて松尾は歩きながら耳を澄ます。
あたりの家がそろそろ朝の支度を済ませる音、
ボケ爺さんが目一杯大きくしたテレビの音、
エサをねだる犬の声、
それから走りのセミが一匹わしゃわしゃわしゃわしゃと鳴いている。
どれも驚くような事は無い。
「何がじゃ、わしゃなぁ〜んにも」
「このジャンジャンやかましいのは何だ」
「は、」
「さっきからジャンジャン鳴いてるだろ、こんなもの昨日までは無かった」
「ああ!セミか!!」
ようやく合点が言って今度は松尾が大声を上げた。その大声に前を行く桃達も振り返って立ち止まる。
「そうか…Jはセミを見るのは初めてか」
「ああ、こんなやかましいモン。虫なのか」
「フッフフ今からやかましいなんて言ってたら大変だぜ?」
「?」
その言葉の意味をJが理解するのはもうほんの少し先。
じゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわ…
じーじじじじじじじじじじじ、
じゃわじゃわじゃわじゃわ…
じゃわじゃわじゃわじゃわじゃわ…
ジジジジジジジジ、
わーんわーんわわわわわーん、
四方八方から押し寄せてくる音の洪水に飲まれそうだ。Jは汗だくの上半身を軽く振るう。
朝のトレーニングが好きな理由は澄み切った空気と静寂の中で自らの感覚を研ぎ澄ます事が出来るからで、こんな音の洪水の中ではたまらない。
「………」
母国語でうるさい、とJが呟く。うるさい、よりも口汚い言い方であった。
頭上の太陽はまだ準備中でさほど熱くないというのに、蝉達ときたらさっさと大合唱を始めている。
パンチを一発ふるう度に蝉達がわめくので頭がくらくらとしてくる。Jは集中力があるほうだったが、初めての蝉の声にギブアップ気味であった。
じゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわ…
じーじじじじじじじじじじじ、
じゃわじゃわじゃわじゃわ…
じゃわじゃわじゃわじゃわじゃわ…
ジジジジジジジジ、
わーんわーんわわわわわーん、
「うるさい」
じゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわじゃわ…
じーじじじじじじじじじじじ、
じゃわじゃわじゃわじゃわ…
じゃわじゃわじゃわじゃわじゃわ…
ジジジジジジジジ、
わーんわーんわわわわわーん、
「うるさい」
四方八方から責め立てられているようだ。笑われているようだ。気づけば空の太陽も大きく膨れ上がって熱されている。
Jは眩暈を覚える。
瞬間、かっとなった。かっとなって拳を振るうなどあってはならないことだったが、Jはもたれかかっていたイチョウの樹を殴りつけていた。
じゅうん、
哀れっぽい声を上げて、Jの頭上より黒い塊が二三落ちてくる。素早く避けるとそれは地面にひっくり返って転がり落ち、
じじじじ、
じじじじじっじ、
じっじじじじ、
羽根を震わせてじいじいと喚く。蝉であった。
落ちて尚途切れ途切れに泣き喚く蝉に、Jはある非道な行いをした。靴で思い切りその蝉を踏み潰したのである。
その日Jは一日苛苛とした不快感を抱えて過ごす事になった。
悪い事は重なるもので、その日桃からセミが七年地中に居て、短い生を謳歌する生き物なのだと聞いたのであった。
深い後悔と、重い嫌悪感。
空はますます青くなり、太陽はいよいよ燃えていた。
ことごとく、とはまさにこうだ。
Jはぐるりにトレーニングに使っているイチョウ公園を見渡した。
ことごとく蝉が樹から落ち、皺の入った腹を見せて死んでいる。中には死に切れず、じいじいと苦しそうに羽根を震わせているものもいたがほとんどは死んでい
た。
まだ樹にしがみつけているものたちは、眼下に広がるはらからの屍骸を知ってか知らずか相変わらずやかましく喚いている。
Jは一息ついて木陰のベンチへと向かい、腰を下ろしかける。
そのベンチに何か茶色いものがしがみついている、目を凝らすと何か虫のようであった。が、何かわからない。
しばらく汗も拭わずに呆けていると、
「なぁに抜け殻見とるんじゃ」
振り向くと松尾が居た。笑って水の入ったヤカンを下げている。ヤカンに入っているのは冷たい井戸水のようで、ありがたいことに細かな水滴がびっしりとつい
ていた。
「ヌケガラ」
ヤカンを受け取り、直に口をつけてごくごくと水を飲む。松尾は頷いてその茶色い虫を取り上げてJへと見せる。たしかに背中がぱっくりと割れて、中身が無
い。
「そうじゃ、蝉は地面から出てきてこうやって抜け殻脱いで飛ぶんじゃ」
そうか、Jはベンチへ腰を下ろす。下ろした視線の先にも蝉は死んでいた。
頭上では切望の声を上げている、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か居ませんか、そう聞こえる。
松尾も隣に腰を下ろす。二人の間にはヤカン。
「セミは…うるさいな」
「まあのう、ワシャ嫌いじゃないけどのう。Jもそのうち慣れるじゃろ」
「………七年も土の中に居て、寂しくてたまらんって声をしている」
「うん?」
誰か、誰か、誰かいませんか、ここにいます、ここです、誰か、誰か、
その年初めての声を上げたあの蝉は絶望したろうか。まだ誰もが土の中かもしれない事態に絶望したろうか。
その弱弱しさが受け付けない。
Jがうすらぼんやりと意識を遊ばせていると、
「ありゃ祭りの声じゃから」
松尾は不思議な事を言う。
「七年ガマンしとったんじゃ、そりゃあもう大騒ぎじゃろう。わーっしょい、わーっしょいって。それで女の子ナンパしてな」
あっさましいのォ、松尾が朗らかに笑う。急にJは重く沈んでいた胃が軽くなったような気がした。
「寂しいか辛いか知らんが、ワシらにゃわからんよって」
「………」
「でもワシがセミなら、わっしょいするぜ」
「………そうだな」
松尾なら、そうだろう。
Jの視線が和らいだ。きつく締まっていた頬もほどけて微笑みらしきものへ変じる。
松尾なら、田沢なら、男塾塾生ならみんな短かろうが生をまっとうするだろう。Jは深く頷いた。
「それにナ、昨日テレビで見たんじゃけどな。最近わかったらしいんじゃがあいつら実は一ヶ月以上生きるそうじゃ」
「……え?」
「ナ、わからんもんなんじゃ。あいつらの考えることなんて全部は」
「そうか」
「そうじゃ…にしてもあっつぃのぉ」
松尾がヤカンに口をつけてごくごくと水を飲む。蝉は尚も鳴いている。
Jは手にした抜け殻を軽く放ると、それをパンチで遠くまで弾き飛ばした。放物線を描いてきらきらと遠く、遠く。
オオ、ビュウチフル!松尾が下手糞な英語で賞賛するものだからJは顔を引き締めなくてはならなかった。
暦の上では残暑。
残り少ない祭の日日を、
燃え盛る命の炎を、
平気の平左で、蝉は鳴く。
Copyright (c) 2008 1010 All
rights reserved.
