王様の憂鬱

困った事になった。
ひそかに困った事になった。






「先生、ぼくもうすっかり嫌になってしまいました」
本を読み出してから一時間、雷電が本からフッと顔を上げたと同時にぶつけられた一言。
「どうされたのだ、館長殿」
子供相手であってもあくまで丁重な物腰の雷電は、この私設図書館の館長にとって尊敬の的である。
二つきりのテーブルに広げていた幾冊もの武道についての書物や、宿題を避けて頬杖をつき、うらめしげに重たいため息を漏らす。
「先生、ぼくもうすっかり嫌になってしまいました」
繰り返して恨み言を言う私設図書館館長へ、雷電は重ねて尋ねる。
「どうされたのだ、館長殿。訳を言っては下さらぬか」
年で言えば十ほども違う子供への言葉とは思えぬ丁寧さ、しかし決して慇懃無礼なのではなく、小規模とはいえある種の本を素晴らしい濃度で収納している図書 館の館長という敬意を持って接している。
「先生、たとえば先生は未来をどうお考えですか」
「未来、」
「そうです、ぼくや先生の目の前に広がる未来についてです」
ふむ、と雷電は額へ手をやった。大往生と刺青の入った額が眉を持ち上げる事によって生じた皺に歪められる。
「拙者の未来でござるか。むう…」
「ぼくはその未来にすっかり嫌気をさしてしまっているんです」
「未来とはわからぬものでござるよ、館長殿。将来の事をそう悲観することもなかろう」
「それが、その未来がついそこまで来ているのです」

ふーむ、雷電は何やらむつかしい顔をして顎を擦った。もっともだいたいが学者のように気難しい顔をしているのだが。

「なにやら面倒事の様子。一度茶でも淹れてゆっくりと話すがよろしかろう」

館長はたちまち顔を笑顔にすると、ぱたぱたと子供らしい俊敏さで母屋へと駆けて行った。
その楽しげな走り方に、もしや勉強をさぼる口実だったろうかと雷電は疑いにかられる。

不意に薄暗くなる図書館の中、見上げた天窓には灰色の雲が広がっていた。
雪雲のように重たい色をした雲が、日の光を遮っている。




「ぼくは今五年生なんです」
館長は緑色のパチパチへ息を吹きかけながら、そうため息混じりに切り出した。
雷電も読みかけていた【天下一舞踏会その戦歴】を閉じて、同じく緑色のパチパチを啜る。
緑色のパチパチとは何か南国のフルーツの香りのする熱い飲み物で、口に含むと香り玉が弾ける仕組みだ。
「六年生のヤマサキさんから聞いたんですが、ぼくのこの家は、学区でいうと光秀中学校にあたるそうです」
ちょうどあちらの、と言って館長は東の窓を指差した。石造りで頑丈なせいか、外はまるで別世界のようである。
「ヤマサキさんがどうかしたのでござるか」
「ヤマサキさん自体はとってもいい人なんですが、その光秀中学校というのが…」
「む」
「学校指定の制服なんです!」
ドン!と館長は机を叩いた。ドン!とパチパチの入ったカップが揺れる。
雷電は目をきもち丸くしてその絶望した声に胸を傷めた。
「制服でござるか、して、それが…」
「それが、じゃないですよ先生!ぼく、あんな制服いやだ!!」

いやだぁ!
石造りの図書館へ館長の威厳も国王の尊厳もへったくれもない悲鳴が響き渡った。




「ぼく、今未来にぜつぼうしているんです」
「フッ、館長殿…御安心めされい、未来とはいかようにもなるものでござる」
「…………」
館長はすっかりしょげ返って、冷めたパチパチを自棄酒のようにあおった。
ふむ、と雷電は少し考えてから。
「未来とは道でござる。よいかな、館長殿」
「……はい、」
よいかな、そのおだやかな声が館長はたまらなく好きだった。居丈高なところや、いやらしいところがちっともなくってステキだと思っていた。
真似ようにも真似られぬ、その声が大好きだった。
「だがその道は幾重にも分かれており、拙者や館長殿はそのどれもを選ぶことが出来る」
「けど、」
雷電は小さく頷いた。
「さよう、道によっては選び進むことが困難な道もあるのでござる。けれど、」

けれど、
「けれど、選んではならぬ道は、決して無いのでござるよ」
「………」
「館長殿が選びたい道を選んでいいのでござるよ。もちろん、誰かが別の道を選ばせようとするやも知れぬ。けれど、一旦は入った道を正していくこともでき申 す」
「………正す、ですか」
イマイチわからない様子で館長は口を半開きにし、雷電の顔を真剣に見ている。
「うむ、道とは本来交わるものでござる。つまり、どこか不本意な道を進んだとしても、最終的には思った道へ進むことが出来るのでござる」
「……む、なんだか、わかったような」
「いつもより角を一つ手前で曲がったとて、家に帰る事が出来る。いつ角を曲がるか、どこで曲がるか、それだけの違いでござる。目指す方向がしっかりあるの ならば、それで大丈夫でござるよ」

なんだか、館長はなんだか納得した。なんとかなりそうな、何がなんとかなるのかハッキリとはわからないままだが大きく頷いた。

「好きな道を選ぶがよろしかろう。ただし、困難な道にはそれ相応の障害がつきものであることはよいかな?」
「はい!ところで先生、先生が選びたい道って、どんなものですか」
雷電はついつい館長のまっすぐな眼差しに口を滑らせた。
「拙者は本を読むのが好きなので、一度その本を書く側に回ってみたいと思い申す」
「へえ!先生、どんなものを書かれるんですか!」
「童話でござるよ。もっとも、ま」

まだ頭の中で考えているだけ、そう言い掛けたが、館長は椅子から立ち上がって目を輝かせた。

「すごい!先生、すてきです!ぼく、読んでみたいなあ!」
「い、いや……」
「先生、是非次にいらした時にそれをお持ちください。ぼく、楽しみに待っていますから!」

ああ、楽しみだなあ!
館長はさきほどまですっかり嫌になったという未来を楽しみに、手を叩いて大喜び。
反対に雷電は額にたらたらと汗を滲ませている。





困った事になった。
大変に困った事になった。


「Jすまぬが…拙者の書いたこの物語を読んではくれぬか。お前にしか頼めぬのだ」
雷電がお前と呼ぶ数少ない相手、その相手であるJは困ったように眉を下げた。
「できればそうしたい…だが、すまん雷電。お前の字はその、上手過ぎて…」
「なんと!?」
毛筆による墨痕濡濡とした筆運び。外国人であるJはもとより、日本人ですら解読は難しそうである。
「そ、それでは恥ずかしながら、拙者が読み上げ申す」
「ああ、そうしてくれ」
「……ゴホン。タ、タイトル『だておみにゃん』」「雷電それは色色といけない」
「だ、伊達殿の事でござるか」「彦根的にいけない」



それから書店にて世界童話大全を読み漁る雷電の姿が目撃されている。
久しぶりに来日したJは雷電のために資料を集め、まめまめしく執筆作業を助ける羽目になった。
モクジ
Copyright (c) 2008 1010 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-