ヤミツキ
一度あの感触を味わったら、もう戻れない。
剣桃太郎が上がり込んだのは食事時だった。
イカをぶつ切りにして胆を和え、ホイル焼きにしたものと焼きナスという慎ましい肴で飲んでいた伊達の機嫌はドルよりも急降下していく。
免罪符のように手にしていた酒瓶を得意げに突き出して、
「美味いんだ、さあ、」
さあ、飲もう。そう言って、伊達組家事取締役筆頭仏頂面が持ってきた気泡の入った厚手のグラスにこんこんと淡い山吹の酒をついで、それから伊達へお義理の
酌を果たした。
外は雨があがったばかりでむっとする湿気と熱気が漂っている、風が細く通るたびに肌が冷やされていかにも晩夏の夜であった。
月はうす雲の向こうでぼやぼやと明るく透けていて、これで鹿でも鳴けばさぞいい夜だろう。
そんな雅をクソ食らえ、風を通すために庭へ面した障子を開け放っているために伊達は外をにわかに気にしだした。パパラッチなどと横文字にしても隠しきれな
い下劣な輩がいつあの塀の向こうから頭をもたげてフラッシュを焚くとも限らない。銃弾ならば箸ででも弾いても見せよう、だが焼きついたフラッシュは取戻し
が利かない。
自分はこれ以上ないほどのヤクザ者であるし、ましてや客であるこの剣桃太郎は政治家なのである。政治屋ではなく、政治家で、そして伊達が心より大事に思っ
ている親友なのである。
親友、その言葉に当の剣桃太郎は「……それだけか?」と例のフッフフ笑いで突っ込んでくるだろうがそれはそれ、伊達は自分のせいでこの親友の身代にキズを
つけたくないと思っている。そんなヤワでないとも思っているが、それでもキズは無いにこしたことはない。キズは男の勲章だと言えたあの頃よりも伊達は大
分、年を取っている。
雲がサッと払われて庭が照らされた、どこか間抜けに丸みを帯びた光の中にカメラのレンズの輝きが無いかと用心しながら伊達は桃が持ってきた酒を干す。
薄く色づいた酒はなまめかしい香りがして、そして力強い。伊達の好みを良く知った男がこれぞと選んだ一本に違いなかった。意識を酒に半分移して伊達が嘆息
する。
「美味いな」
「だろう。沖縄で見つけたのさ」
「沖縄?てめぇそんな所に行ってやがったのか」
「俺に何も言わずに、か?」
フッフフ、桃が学生時代となんら変わらない笑みを浮かべて、いびつに分厚いグラスを傾ける。そういえばあのグラス、沖縄ガラスだったなと伊達は部下のはか
らいかまぐれ当たりかを内心労いながら、
「うぬぼれるんじゃねぇ、遊んだんだか会議したんだかわかりゃしねえじゃねぇか」
冷たく言い捨てた。が、桃はますます笑みを深めて伊達の箸を勝手にに使って焼きなすを上向きにはふはふと食った。皮が見事な那須紺に艶があって、かけまわ
した生姜醤油でもってつるりと喉へと消えていく。飲み込むと同時に、
「テレビでもいい、ニュースでも…俺を探してるお前が嬉しいぜ」
恥ずかしげもなくそう言った。伊達はグムと嫌そうに顔を歪めて、何か言う代わりに酒を飲む。美味い酒だから理由が立った。
遠慮なくお互い酒を干す、元元桃と伊達との間柄には遠慮というものはない。時折細細と仏頂面が肴を足すほかはのんびりと長い時間をかけてのんだ。
昔のように数を量を競う飲み方はしなくなった、老けたのか、大人になったのか。
「……ああ、いい心持ちだ」
桃は言うなりどさりと伊達の目の前に腹を見せて寝転がった。このだらしのなさは学生時代となんら変わりない、今きっちりと撫で付けている髪の毛もむずむず
と跳ねて幼さを増している。
「おい、布団を敷かせるまで待て」
「俺はお前の膝枕がいい」
途端に伊達はぱんぱんと手のひらを打って、布団だ布団の用意をしろィとやけに口早に命じた。心得たもので襖の向こうで仏頂面が、
「布団は敷けていますが、先にお湯を使われたほうがいいかと存じます」
と低い声で促す。伊達は胡坐を解くと桃の寝そべったわき腹をつま先で小突いて、
「聞いたろ、風呂に入れ」
「………お前は?」
「俺も入る」
「……一緒にか、」
ぐわ、伊達の額に青筋が浮かんだ。ガキじゃねぇんだぞと思わずしかりつけそうになって、
「つべこべ抜かすな、とっとと行け」
もう一度、今度は大分強く桃のわき腹を蹴飛ばした。桃はううんとつまらなそうに起き上がってあくびをし、浮腫んだ顔でのろのろと風呂場へと案内されていっ
た。
後に残されたのは伊達一人。と、
「靴下ぐらい風呂場で脱ぎやがれ、ったくガキみてぇな野郎だ」
黒い、日本のサラリーマンを象徴するような黒い靴下が丸まってつくねられていた。
「ああ、伊達、いい湯だったな」
ほどなくして桃が清清しい声をかけながら伊達が待つ和室へと現れた。
「も、桃テメェどういうつもりだ!!」
天下無双の伊達臣人が座布団から飛び上がるほどに仰天している、仰天してなおの男前であることはわざわざ明記するまでも無い事。
「どういうつもり…?風呂へ入ったらすることなんて一つだろう」
「俺はまだだ、近寄るんじゃねぇ」
「どうしてだ?夜なんだから構わないだろう」
桃が首を傾げた。伊達は桃の身体の局所つまり股間を指差して――
「パンツぐらい履け!!ブラブラさせてんじゃねぇ!!!」
生まれたままの姿の桃へ激昂したのであった。
「見えやしないさ、日本のお父さんとはこうした格好でよく家をうろついてる」
「てめぇが一般の日本のお父さんならな!…馬鹿野郎、仏頂面ァ!!」
部下を呼びつけると真っ青になったしかし普段とさして表情の変化の見られない仏頂面が駆け込んでくる。
「桃様!困ります!お風呂上がられたらお声をおかけ下さいと申し上げましたでしょうに!」
「フッフフ神経質だな」
「黙ってろ馬鹿、仏頂面、客の着替えも用意しねぇとはどういう事だ」
腕組みをして睨まれて、仏頂面はさらに青ざめて冷や汗をかく。普段から回転のよいとは言えない舌がもつれてわけのわからないことになっている。
「う、うう、その、ソノ」
「例のもの持ってきてくれたか?面倒だから自分で取りに行こうとしたら伊達が見慣れてるだろうにこうも恥らうものだから」
困ったものだな、と仏頂面へ笑いかける桃。恐縮しきりの仏頂面。恥らってやしねぇと伊達。
「は、はい、お持ちしました……どうぞ」
どうぞ、差し出されたのは――紛れも無い桃のパンツであった。受け取るなりその場で脚を通した桃は心地良さそうに目を細めて、
「……ああ、良く冷えてる」
と感想を漏らした。伊達は目を一度見開くと説明を部下へと視線で求める。
「その…桃様がどうしてもパンツは冷やして欲しいと」
「………ああ?」
「ああそうだ。伊達お前も今度やってみろよ、やみつきになるから」
ははは、桃は快活に笑ってパンツ一枚でも堂堂たる体躯を捩って笑った。
と、伊達は桃の背後つまり開け放たれた障子の奥、庭で何かが輝いたのを見咎めた。
獣の耳がヂシャッ、という鈍い音を聞きつける。有名人ならば恐れるあの、一瞬を切り取るあの音が響く。
「!!!」
その途端伊達は傍らの槍を反射的に持ち、太ももも露な姿に素足のまま庭へ飛び降りるとそのまま塀を素晴らしい跳躍力で飛び越えていった。
「待ちやがれぇえええええ!!!!」
伊達の脳裏には既に三面記事の見出し『深夜の密会!総理とヤクザが全裸破廉恥なオ突き合い』が浮かんでいる。
真っ青になって着物を振り乱しながら伊達は夜闇へ消えていった。
「………桃様、先にお休み下さい」
洗い上がりの髪の毛をぽりぽりと掻きながら桃は頷く。
「ああ、悪いな主人より先に。……そうだ、その代わりあいつの布団を俺が暖めておこう」
「は、それでしたら組長の寝室へ」
晩夏である。
晩夏である。
風は少し冷えたとしてもまだ夏である。
汗みずくになって戻ってきた伊達組組長が風呂を使い、障子を開け、ため息と共に自分の慣れ親しんだ布団を捲り上げた時に、
闇月の夜更け、再びの悪夢勃発。
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