別れまで後少し
出会った時からわかってる、
かないっこねぇんだ。
だけどよ見てろよいつの日か。
富樫は卒業と同時に塾長の元へ通いの秘書見習いになった。毎日覚える事だらけで忙しい、塾長はあの通り礼儀作法をやかましくする方ではないが、富樫が少し
でも道理に外れた行いをすると愛情タップリの鉄拳制裁をくれる。
もともと頭の作りがうまくない、網目の大きなザルのような富樫は覚えてはまた忘れ、忘れては覚えとを繰り返していた。
手帳にメモを取る事だけはなんとか覚えたのだけれど、その字が読めない。何て書いたんだったっけかと思っているうちに次に覚える事がやってくる。
詰め込みすぎて、頭が割れそうになるなんて、富樫は自分の身にまさかそんなことが起こるとは思ってもみなかった。
しかしあっという間に日日は過ぎていく。
ちょうど働き出して三ヶ月、ようやく自分が働いたのだと実感が出来るようになった。今までは目の前の物事へかじりついては丸呑みしただけだったから、よう
やく今自分が抱えてかぶりつこうとしているものが何なのかを眺められるだけのゆとりが生まれた。
そのタイミングを見極めに見極めていたかのように、桃が尋ねてくるようになった。親友である虎丸などは所属が富樫と違って企業なので、まだまだ自由が利か
ない。その点桃は一年勉強を極めてから東大を狙うというので、多少時間に融通が利くようだった。
融通が利くが、それを相手に強いない。
そこがいかにも桃らしいと、富樫は気づかない。
「いつだって桃って野郎は、いきなしなんじゃ」
うすらトボけた事すら言っている。
それが、ある七月の始めだった。
久しぶりに命の洗濯でもせいともらった休暇で、富樫は朝から本当の洗濯をしていた。本当なら昼過ぎまで寝ていたかったところだが、オウオウとうるさい選挙
演説カーのせいで目が覚め、覚めたからには目の前の現実である腐海のごとくの部屋を見過ごす事はできなくなった。
全ての洗濯物をズラリと狭いアパートに干し終えた、風呂の掃除を終えた頃には昼前になっていて、富樫は初夏の汗を裸の上半身にかく。
短くした後ろ髪のせいで、うなじに当たる毛先がまだ慣れない。
ああ、いつの間にか夏なんだな。
そう思ったと同時に、アパートのドアがドンドンと叩かれる。
新聞か、宗教か、それとも募金か、
ドアを開けるなり富樫は男塾仕込みの大声を上げた。
「なぁーんっも、いらねぇぞ!!」
開け放たれたドアの向こうで、見慣れぬさっぱりとした白いシャツとグレーのスラックス姿だが、紛れも無く自分が最も全てを預けている男が立っていた。
「……なに、いらねぇって?フッフフ御挨拶じゃねぇか、お前が好きだと思って買って来たってのに」
手にしたラムネの瓶が入った袋をカサリと言わせて、桃が肩をすくめる。
「ああ、俺が居れば何もいらねぇってそういう事か?まったく嬉しい事を言ってくれるぜ」
「バッ、バッ、バ」
バァロォ!!富樫が怒鳴る前に桃は富樫の口をサッと手で塞いだ。何しろオンボロアパートで、生活音は筒抜け。
親友の富樫が御近所に迷惑をかけるようなマネを、桃はさせたくなかった。
「勉強ばっかりしてたら、いつの間にか夏になってて驚いたぜ」
持ってきたラムネを飲みながら桃は笑った。富樫からしてみれば、
(おめぇがそんな事、あっかよ)
と思っていたが、久しぶりに訪ねてくれたのが嬉しくもあって、
「で、どうなんだよ」
ラムネの中でビー玉を転がしながら、チビチビと富樫もラムネを飲む。ゲェフ、と遠慮なくゲップをして桃に睨まれた。
「どう、って?」
「どうって言や、はかどりだよ」
トントンとちゃぶ台を突いた。床板が腐って、今にも踏み抜けそうなベランダでシーツがバサバサと揺れている。
柔軟材なんて上等なものはしらない富樫、けれど干したばかりのシーツは見るからに気持ちが良さそうだった。
桃は富樫の問いに軽く頷く。
「まあまあさ」
「ケッ、おめぇのまあまあは自信たっぷりでいけねぇや」
「やるべきことをやっているまでだ。俺ばかりモタモタしてたら笑われちまうからな」
「ヘヘッ、いっぺんおめぇが浪人して落ち込んでるところ見てみてぇがよ」
「なんだと?」
桃のかっきりと太く男らしい眉が聞き捨てならぬと持ち上がる、ラムネの瓶をちゃぶ台に置くなり、
「そらっ」
富樫へプロレスをしかけた。富樫がラムネの瓶を置く間もあらばこそ、サッと応戦して二人もつれ合いながらアパートの狭い床の上を転がった。
下からドン!と突き上げられるまでそれを続け、会っていなかった日日を埋めあった。
二人で転がった床からは、シーツと洗濯物が翻るベランダが見える。午後の太陽に透けて清潔そうにはためいていた。
大の字に転がった桃はまぶしそうに目を細める、ちょうど視線の先に太陽の光を弾く、ラムネの瓶があった。
「富樫、聞いてくれ」
「あ?」
富樫は鼻をほじり、丸めて飛ばそうとしてやめた。掃除をしたばかりだ、一応据え置いていたクズカゴへ手を伸ばして捨てる。
「聞いてくれ」
寝転んだままの桃の横顔を、富樫は驚きを含んだ眼差しで見やる。
桃が何かをこうして聞いて欲しいと主張することは珍しい。いつだって先立つのは行動で、理由に主張は後からついてくるものだったから。
何かあるのだ、察した富樫は神妙に言葉を待つ。
「……おう」
「来年東大に入って、四年。主席で卒業したら、ハーバード大学へ行く。ここにも四年かかるな」
「………」
「主席で帰ってくる。四年さ、この間日本に帰ってこないつもりだ」
「……ずいぶんと、大きく出たじゃねぇか」
最初から東大に落ちる事など考えてすら居ない。主席で卒業する事すら、確たる未来として桃は語った。
さすがにとんでもねぇと呆れ返って、富樫は額に手をやった。目指す学帽は無かった。学帽はといえば部屋の壁にかけてある。
「きっと寂しいだろうな」
「ヘッ、今から言ってりゃ世話ねえや」
「お前がさ」
ああ?
富樫がガバリと起き上がる。桃の顔を覗き込むと、右手をひらひらと振られた。
「ツバが飛ぶから、口を閉じろ」
言われてウウウと唸りながら、それでも富樫は口を閉ざした。
閉じた唇へ桃が人差し指を宛がい、切切とした掠れ声で続ける。
「四年間もおまえを置いていくのは、気が引ける」
「バ、」
「だからツバが飛ぶったら」
桃は腕を伸ばして富樫の頭を掻き抱いた。桃の胸に押し付ける。
ふと、桃は何か痛みを抱えているのではないかと富樫は思った。富樫を置いていく自分に痛みを覚えているようだった。
そう思うと、富樫の胸に萌えたのは怒りだった。
(いつだって自分が、いつだって俺を置いていくと思っていやぁがる)
胸をどんとついて、富樫は桃を睨み下ろした。桃の体臭が鼻のあたりにまだ残っている。風呂にも入らずに勉強していたらしい。
桃のアパートは富樫のここ以上にオンボロで、風呂すらついていない。本当に寝るだけの部屋だった、それで特段不自由していないあたりが桃らしいと誰かが
言っていた。
「俺な、来月から塾長の家に住み込みするんじゃ」
「―――え?」
曇る桃の顔、それを見て、富樫は更に胸を張った。対等でありたかった。並んだラムネの瓶。
桃は自分をいつまでも手の内身の内にある、あのラムネ瓶のビー玉のようなものだと思っているのだろうか。
思うと悲しかった。
「見習いの間は、塾生とは会わねぇ。甘え癖がつくからってんでな」
「―――そうか、そりゃ、虎丸達が寂しがるだろうな」
あくまで自分は寂しくないと言うつもりか、富樫は声を荒げる。
「な、桃。置いてくのァ俺じゃ。俺ァこうしてもう立派かどうかわからんが働いてる。おめぇと違ってな。そんで次へ進もうとしてる。な、桃――」
富樫は唇を舐めてから、一息に言い切る。蓋をこじ開けろ、飛び出せ、ビー玉のように。
瓶の中にあればきれいなまま大事にいられるだろう、けれど外で何かにぶつかり転がり傷だらけになりたい。
「桃、俺に置いていかれねぇようにせいぜいがんばれや。待っててやんねぇぞ」
ニッと歯を剥いて笑うと、桃はうんと子供のように頷いた。そして起き上がると、
「お前のそういうところが大好きさ」
照れも恥ずかしげもなくそう言い切って、富樫を正面から抱きしめた。ぽんぽんと背中をあやすように桃が軽く叩く間、富樫は桃がしたいようにさせてやってい
た。
桃、剣桃太郎という男が非常に寂しがりで子供のようなところがあることを、富樫は知っている。
知っているといっても教えられたのではなく感づいた。
誰より秀でた力に頭脳、相手を思いやる強い心を持ちながら、自分の事にとんと疎い男だった。
だからきっとアメリカなんかに行って、行ってから酷く寂しい思いをするに違いが無いのだ。
富樫は自分も手を回して、桃の背中を叩いてやった。
「ん、俺もな、おめぇのその自信満々なところが嫌いでもねぇよ」
「前に、俺のこういうところが嫌いだって言ったじゃねぇか」
苦笑、富樫の目尻に走る皺。右目は傷に遮られていびつに皺がよれた。
「くだらねぇこと覚えてんだな」
「お前のことさ」
くだらなくなど無い、そう言うのだろうか。どこかで俺を軽んじてるんじゃないのか。
湧いた疑問は、富樫の胸にしまわれる。どうでもいい事だった。
だから富樫から折れてやる。
なんてったって俺のが兄貴だもの、根拠の無い自信を富樫は持っていた。
「アメリカだろうがアフリカだろうがどこだっていいがよ、手紙の一つぐれぇよこせよ?おめぇって奴は今日みてぇに、いつだって音信不通なんだからよ」
救いはまず戸惑いとなって桃の眉間に皺と現れ、次いで微笑みへと変じる。
「……ああ、書くさ。お前が寂しがるだろうから」
この意地っ張り、富樫は自分をまるで棚に上げて桃の額へ軽い頭突きをかます。桃が大げさに痛いと言うので、
「うるせぇくせぇぞ、風呂ォ入れ」
「そしたらお前が布団をひいててくれるのか?」
「あ?まだ寝るにゃ早ェよ」
「いや、せっかく布団も干したんだ勿体無い。畳がこすれるぐらい、ガマンをしてくれるな?」
「…………うん?」
桃は満面の笑みで右目を器用にパチリとつむってみせ、狭いなりに掃除のすんだ風呂へと消えていった。
机の上のラムネの飲み残しからしゅうしゅうと炭酸が刻一刻と気を失っていく。
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