粘膜同士はアウトアウト

バイオハザードだ、桃は静かに富樫の肩を引き戻す。富樫 は小さく頷いて、
「悔しいが、俺の出番はねぇようだぜ……な、伊達よう」
悔しいと言うわりにニヤけた顔で伊達をチラと見た。当然伊達は首を振る。
「俺はやらんぞ」
「伊達、お前がやさしい男なのはよくわかっている。あんな虎丸を放っておけねぇって気持ちも。だが、危険だぜ?」
富樫の肩を掴んだまま、桃は伊達を案じるように眉をひそめてみせた。うれいのかかった眼差しは健気、
「だから俺はやらんと言ってるだろうが」
「だがお前が虎丸のためにあえて危険に踏み込むなら止められやしねぇ、そういう男だもんな」
「だから」
「そういう優しいくせに人一倍意地悪いそぶりを見せるところが伊達、おまえらしいな。それじゃあ、俺達からもよろしく伝えておいてくれ」
「だ」

伊達が何かを言う前に、桃はやさしい顔で伊達の手に一抱えほどあるビニル袋を押し付けて、富樫を引きずるようにして去っていった。
歩き出してすぐにゲホゲホと富樫が軽く咳き込むと、桃は酷く心配そうにその肩を抱き、
「大丈夫さ富樫、きっと伊達は負けやしねぇ。辛いだろうが信じるんだ」
春の海のように優しいほほえみで富樫を説き伏せ、伊達へは力強く頷いてみせる。
「おい、桃!」
伊達の怒声は夜空へむなしく響き渡った、十一月のしまいのしまい、夜九時を回っては底冷えする寒さ。どこかで犬が伊達の大声に驚き、ギャンギャンと吠え立 てている。
押し付けられた大きなスーパーのビニル袋をチラと見て、伊達は大きなため息をつくと戦場へと脚を向けた。
一般人は知る由もないが、今日本で、いや世界でも有数の危険地帯へ伊達は赴こうとしている。
あたりを見渡し、伊達はビニル袋に入っていたマスクのパッケージをやぶき、二枚まとめて耳へと引っ掛けた。はるか前方数百メートル先、目指す戦地はある。 今は敵影はない、
けれど、既に敵の気配はある。既に富樫は身体で感じていたようであった、伊達は慎重にマスクを鼻と口をしっかりふさぐように装着し、
「………行くか」

出陣。



男塾を卒業したもので、虎丸を知らないものはいないだろう。賑やかで、明るくお茶らけて影というもののない、怪力の。
そしてそれより有名なのが屁で、彼の屁に飛ばされて骨を折った人間も少なくない。
そんな虎丸の身上はとにかく丈夫な身体で、
『虎丸に腐っているものの毒見をさせるな、あれは特別製の胃だ』
と影慶に言わしめ、
『そんならあいつには腐ったものを食べさせればいい』
とセンクウは事も無げに言い、
『毒キノコとか、毒蛇でもよさそうだな』
面白がった卍丸がニヤニヤと呟き、
『ともあれ、飯が唯一の楽しみのような奴だ。あまりかわいそうな事をするなよ』
なんとか羅刹が取りまとめる。
多少それたが、ともかく風邪ひとつ引かず、どんなに怪我をしようが飯をわりわりと食えばたちどころに元気になってしまう男なのだ。
虎丸龍次はそうした頑丈な男だった。

異変に最初に気づいたのは富樫だった、寄せ鍋でも食いにいかねぇかと誘った富樫へ、
『ワシなんか、だるいんじゃ。今日はやめとくぜ』
そう鼻声で虎丸は答えた。富樫は珍しい事もあるもんだと思ったが、なにぶん給料日前だった事から、
(見栄でもはってんのか、しょうもねぇ)
そう思って大して気にもしなかった。

そして三日ほど経って、富樫は自分が給料が入ったものだから浮かれ調子で、
「よう、すき焼きでも食いに行くかよ」
と電話をかけたのだった。
しかし電話の向こうでは何かガサガサと音がするばかりで一向に返事が無い。
(なんじゃ、おかしいな)
富樫が思っていると受話器から細細と切れた、紙をこすり合わせるような声がした。
「……メシ……くえん……」
それだけ富樫の耳へ届いたかと思うと、とたんに破裂するような音が十ほど続いた。それがセキであると富樫が気づくのにはしばらく時間がかかる。
それほどに虎丸という男とセキが結びつかなかった。

(……メシ、)
(食えん、だって?)
二つの単語が並ぶだけで、なんと不気味で奇妙で、ありえない響きか。
十秒きっかり、富樫は悩んだ。
重病、導き出した単語に脳が驚きの熱を持つ。
「と、虎丸てめぇ、どっか悪いんか!!」
受話器へ向かって大声を放つと、ヒュウヒュウゼヒゼヒと不穏な息遣い。受話器を握る手のひらにヌルと汗が浮かんだ。

「……わがらん…あだま、あぢぃ…メシ、くえん……」
そして再びの咳込み。腹の音らしいゴゴゴゴという地響きのような音。
咳、
熱発、
食欲不振、

これら三つを総括した結果、富樫が電話したのは警察であった。

「だ、だ、第三清水荘の周りの住民皆避難させろォ!!年寄りやガキが死んじまうぞ!!!」

言葉の選び方はどうあれ、富樫の行動は男塾的に見れば正しい。迅速な処置を褒められてもいいぐらいだ。
けれど一般的に見れば何を言っておるんじゃこのボケと言う悲しい現実、富樫は切れた電話にひとしきり悪態をついた後、桃へ急ぎ電話したのであった。

持つべきものは、頼りになる親友。



そしてその頼りになる親友が導き出した結果、誰かに薬を持たせて虎丸の様子を見に行かせるという事になった。
選ばれたのは虎丸の親友(伊達はかたくなに否定するけれども)である伊達臣人。
彼へ桃が買い込んできた薬やら食糧やらの入った袋を持たせ、送り出した桃は傍らの富樫が咳き込む背中をさすりながら、
「伊達…生きて帰って来いよ、お前にこのあたりの住民の生死がかかってるんだ」
恐るべきバイオハザード、その防止は一人の伊達男へ託されたのだった。

澄んだ夜空に、桃は伊達の顔を星座で浮かべる。伊達がその光景を見れば縁起でもねぇと怒ったに違いが無い。





肌がチリチリと危険な雰囲気を感じていた。伊達は虎丸のアパートの部屋の手前で軽い躊躇、しかし振り切るようにしてドアを開け放つ。手には薄手のゴム手袋 を装着している。やりすぎだとは伊達は感じなかった、なにせ近隣で謎の風邪が動物を中心に発生しており、やはり動物に近いと思われる富樫も近くまで来たと ころでいきなり咳き込んでいた。破壊力は抜群のようで改めて伊達は気を引き締める。
「………邪魔するぜ」
息をなるべく吸い込まないようにしながら、伊達は小さく呟いて上がりこむ。
よどんだ空気にマスクから覗く目元をしかめ、靴を仕方なく脱ぎ捨てると奥へと踏み込んだ。いつも流しに食べた皿や器が積みあがっていたのだったが、今は何 も無い、カラカラに乾いたシンクが寒寒しい。

「虎丸、」
伊達が呼びかける。もぞ、と薄暗い部屋の奥で何かが動いた。いる、察した伊達はスーパーのビニル袋からスポーツ飲料のペットボトルをその動いていたあたり へ下手で投げた。
ボゴン、と鈍い音。
「うう」
小さなうめき声が伊達の耳へ届く。その声がひどくしわがれていても虎丸のものであることを確認し、蛍光灯から下がる紐を一度で捕まえてあかりをつけた。

部屋は脱ぎ捨てた服が散らばり、片隅にこんもりと膨らんだ布団からは見覚えのある尻尾のような後ろ髪がはみ出している。
伊達はそれを躊躇無く掴んで引っ張った。軽い頭がゴロンと布団からはみ出す。
「う…なに、すんじゃ、富樫ィ…」
目の開けられないでいる虎丸だったが、伊達は遠慮なくその頭を張り飛ばした。
「誰が富樫だ」
低く凄みのある声でそう言うと、腫れ上がった瞼がボテボテと開き、混乱していた視線が伊達へ落ち着く。
「……お、伊達、久しぶりじゃのお」
またもや伊達は虎丸の頭を張り飛ばした。
「何をネボケてやがる」
「い……っつ……ァハ、伊達、おめぇ病人になんちゅうムゴい…」

伊達に頭を抱えられた虎丸は酷くやつれた顔でそう言った。頬がげっそりとヘラでそぎ落とされたように薄くなっており、目がグッと引っ込んで見える。
その様子に伊達は苛立ちを隠しきれない。
「……誰が病人だ、ただの風邪だ。熱はあるのか。薬は。飯の一つも食えばたちまちいつもどおりだろうが」
矢継ぎ早にたずねる伊達へ、虎丸は濡れたまつげをシバシバと打つ。
「……ヘッヘ、飯なんか、いらん…」


その一言に、伊達は胸が締め付けられるような思いをした。
常に飯、飯とやかましい男が。
寝ぼけて伊達の二の腕へ噛み付いた男が。
伊達が飯を残しているのを見てはモッタイナイと大騒ぎした男が。

その男が、飯なんかなどと言う。切ないような思いに伊達は駆られ、虎丸の頭を下ろしてスーパーの袋を手繰り寄せる。
中をガサガサやれば薬やら、スポーツ飲料やら。
その中にレトルトのお粥のパウチがあるのを見つけ、伊達は立ち上がる。
「喜べ虎丸、てめぇは案外バカでもなかったらしいぜ。なにしろ冬風邪だ」
フン、傷の走る頬で笑ってやると、布団に仰向けになった虎丸がへにゃへにゃと力なく笑ったのが伊達にわかった。
「すまんのう、おカヨ。ゲホゲホ」
「………バーカ、」
それだけ口が回れば十分だ。ようやく伊達は少し安堵を覚える。出来上がった粥を持っていってやる際に、あまりに虎丸が期待した目付きで伊達を見るので、
「おとっつぁん、おカユができたぜ」
言ってやると虎丸は子供のように真っ赤な顔で喜んだ。



レトルトの粥を無理にも食べさせると、伊達は錠剤をいくつか手のひらへと出した。
「成人男性二錠…よし、虎丸、口を開けろ」
虎丸は口を開けない。
「………薬は飲まん」
「アホウ、何のために俺が飯まで作って食わせてやったと思ってるんだ。飯を食わなきゃ薬がのめねぇっていうからだぞ」
「……でも、いらん」
口をプーッと尖らせて虎丸はいらんいらんとダダをこねた。これはどうも薬が嫌いどうのの話と違うな、と伊達にもうすうすわかってくる。
「何が気に食わねぇ、」
面倒くさそうにため息混じりにたずねると、虎丸が太い眉をシナシナと下げて、
「ワシ、今日誕生日なの…」
哀れっぽく言って見せた。ハ、と伊達が不意を突かれて何も言えないで居ると伊達がこしらえてやった氷枕をゴロゴロいわせつつ虎丸が頭を動かした。
布団のそばに腰を下ろしていた伊達は煙草吸いたさに動かしていた指を虎丸に取られて身構える。
「だ、だからどうした」
知らなかった、わけではない。
今の今まで忘れていた。
いや、ほんの昨日までは覚えていた。
桃に虎丸が大変なんだと言われるまで、覚えていた。大事に覚えていたと言ってもいい、おめでとうの一言ぐらい誰かの言葉にまぎれるぐらい小さな声でいって やってもいいと思っていた。
だが、今は駄目だ。

「ワシ、誰にも祝ってもらえてないんじゃ…ウウ、シクシク」
ウウ、シクシクが無ければさすがの伊達も鬼ではない、
「俺が祝ってやるぜ」
と胸を熱くさせて言っただろう。けれど最後のうそ無きが余計も余計、伊達にその手を振り払われてしまった。
「伊達ェ〜ワシのケーキは、すき焼きは…」
「やかましい、寝てろ……フン、富樫や桃もてめぇの誕生日だって張り切ってたからな、今頃用意した飯食らってよろしくやってるんじゃねぇのか」
意地悪のムシがまた、むらむらと。
絶望!という顔の虎丸は布団から手を伸ばして伊達のひざを揺さぶった。

「わ、わ、ワシのすき焼き…!!」
「うるせぇ、てめぇを倒すような風邪が居る部屋に来た俺の気持ちにもなってみやがれ」

ツレなくされて虎丸はしょんぼりするかと伊達は思ったが、虎丸は目を丸くしたまま伊達の顔を見つめている。
多少の居心地の悪さを覚えた伊達は、

「……なんだよ、」
低い声でツン!と睨む。
「………ありがとうな、伊達。おめぇ、おめぇはわざわざワシを心配して、来てくれたんじゃもんな」
熱で真っ赤な顔をほころばせて、虎丸はにっこりと笑った。あの突き抜けるような大声の笑いでも、喉ちんこを見せるほどの馬鹿笑いでもなく、にこりと笑う虎 丸に伊達は言葉を失った。

そうじゃねぇ、
俺だって別に来たくはなかった、
桃が言うから、
無理やりに、
別に、俺は―――


どの言葉も、伊達は駄目だと断じた。水の注がれていたコップを手にすると口を覆っていたマスクをかなぐり捨てて、

「―――てめぇごときの風邪に、この伊達臣人が負けるかよ」

グイ、と水を口に含む。
錠剤は、二つだ。








後日伊達が原因不明の風邪に倒れたと聞き、
「よし、俺の出番だ。……そう心配するな富樫、だが、もしも俺が帰れなかったら――」
桃がハチマキをしめて颯爽と起つ。
モクジ
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