こんなに臭いの白髪染め!

俺は昔からどうも、男が女の事を惚れさせるのに、
「オトしてやる」
と言うのが嫌いだった。
落とすってのは少なくとも下降しているんだから、いい言葉じゃないだろう。
少なくとも好きにさせることにふさわしい気はしなかった。


「おい、桃!」

とても驚いた。
富樫が、さっき軽いいさかいを起こして険悪になった男が。
とても驚いた。
そして、とても嬉しくなった。
そうしてすっかり、俺はオチたんだ。
『恋はするのではない、落ちるものだ』




「畜生どうも気に入らねぇ」
ペッと自分を見るなり校庭へツバを吐き、教官に早速しごかれた男。
面白いな、と思って見ていると目の前へ脚を突き出された。
「通ってみな」
どうやら俺は試されているようだ。だけど生憎俺は無益な戦いは好きじゃない。
スルリと避けて、背後に回る。
「まあまあ、カッカするな」
「畜生どうも気に入らねぇ」


富樫はそう俺を睨んだ筈だ。
どこにだって居る、何か虫の居所が気に食わなかったんだろう。
そういえば今が盛りの桜だが、一向に散る気配はない。もちろん風が強く吹けばチラチラ舞うが、もう大分あったかいからもっとざんざん落ちてきてもよさそう なものなのに。
ここはそういう、常春なんだろうか。男だらけで独自の教育っていうぐらいだから、そういう世界だと考えてもよさそうだ。
なんにせよ俺を楽しませてくれるといい。
俺も全てを持って自分を磨くから。


「おら、集団下校だってよ、行くぞ桃!」


そう遠くから富樫は呼んだ。広い校庭で俺と富樫の間にはちょうどプールが入りそうな距離があった。
だけども富樫の声は馬鹿でかく、俺の耳に飛び込んできた。桃、と。
俺は一瞬何がなんだかわからなくって、首を傾げてしまう。

「え?」
富樫はズケズケとこちらへ走ってくると、
「聞こえねぇのかよ桃!集団下校だってんだよ!!」
ぶわっと髪の毛を逆立てんばかりにしてどなった。さっき、俺のことをどうも気に食わないとか、そういう事を抜かしてたじゃねぇか。
わからねぇ奴だぜ。
だけど俺は自分でもびっくりするほどどきどきしてしまっていた。
だって、さっき初対面で、絡まれて、それも気に食わねぇって言われて、
そんな男が俺の手を今掴んでどやしつけながらも引っ張っている。
不思議だ。

「おい桃、てめぇそのダンビラ、使えるんだろうな」
「まあな」

それも、俺を桃と呼ぶ。確かに桃と。
俺の名前は剣桃太郎。さっき壇上で名乗ったから知ってたって不思議じゃねぇ。
周りの野郎達も、富樫が俺を桃と呼んだのを皮切りにぱらぱらと俺を桃、桃と呼び出した。
悪い気分じゃねぇ、さっきまで異分子だった俺が今もうすんなりと滑り込んで、富樫と肩を並べている。
まだまだ俺を値踏みしたような目付きだが、何もういくばくかで俺を認めさせてやる。
認めさせてやる、
そんな気持ちになったのにも驚く。
俺は今まで人の目なんか気にした事はなかった、評価は後からついてくる。
だけど今俺は、何故だかこの富樫って野郎に俺を認めさせてやりたくなった。
すげえな桃と言わせてみたくなった。
富樫の目を俺にずっと留めて置かせたくなった。

「トロトロしてんじゃねぇぞ、置いてくからな」
「フッフフお前がな」
「ケェ」

やっぱり俺のことが気に食わないんだろうか、短い舌打ちをして俺をおっぽり出すと他の奴らにハッパをかけにいってしまった。
面倒見がいいんだか、悪いんだか。
まあいいじきにわかるだろう。これからずっと一緒なんだ。


「おい、富樫!」
「なんじゃ桃、行くぞ」
「見てろ」

俺はそう言い残すなり先陣を切って走り出す。後ろからアワ食った富樫の慌てふためく声。

「オイ!一人で先に行くんじゃねぇ!……おい、松尾田沢、行くぞ!逃げるんじゃねぇ椿山!」

慌しい足音が俺を追いかけてくる。
そうだそれでいい、俺を見てろよ。ずっと。







ごろんと布団に仰向けになって、ああ背中にびっしょりと汗をかいてたんだと富樫は気づいた。
男塾にあったあの薄っぺらでやたらと綿が飛び出た、垢がテカテカしていた布団を思い出す。桃と自分の分と二組布団が敷かれたが、今桃も富樫も桃の布団に密 集している。
富樫は腰の辺りに押し込まれていた枕を軽いブリッヂで取り出して、頭の下へとあてがった。腰を浮かせると鈍く疲れが痛みと変じた。年のせいか、疲れはすぐ に腰へと集まりやすいようである。
隣で息を静かに整え終えていた桃がところで、といきなり切り出した。
「ところで、俺がいつお前にオチたか言ったか」
「あん?知らねぇな」
とろとろと富樫の瞼は暗がりのなかで上下している。この年になって夜に激しい重労働はこたえるのだ。
自発的な運動ではない、半ば強いられた労働の疲れに既に富樫は眠気で満ちている。
桃の家は身分からいえば随分と質素な昭和の日本家屋で、障子を透かして月明かりが部屋の明度を上げていた。
ほんのりと明るみを増した、むき出しの桃の肩のあたりの皮膚は塾生時代となんら変わりが無く照りがあるようで、富樫は内心この男は年を忘れてんじゃねぇか と毒づいている。最近富樫、白髪が多い、この間ついに眉の中へ白髪を見つけてしまった。
そんな年に、あんまり無理させるんじゃねぇよ。柄にも無く富樫は自分を年寄り扱いしてみる。されたら怒るくせに。
「そうだったか、あれは入塾式の――」
「桃俺もう眠いんじゃ。悪ィが話はまた今度」
桃が富樫の肩を掴む、いきなり接近した顔に富樫は眠気を忘れてパッチリと目を見開いた。
「そうは行くか、お前には責任を取ってもらわないといけねえ」
「せ、責任って…」
桃は布団に身を起こし、ほの青い燐光のような月光に自分の輪郭を際立たせながら微笑んだ。ちょうど右から光が漂って、右目に輝きを宿す。反対に左目は闇へ と窪んだ。
「そうとも、お前が俺を桃と呼んだりするから」
「ああ?」
言われてもいまいちピンと来ない様子で、富樫は首を捻った。洗い上がりの一見黒黒とした髪の毛は、学生時代のようにワサワサとした鳥の巣にはならず一定の 短さで落ち着いている。
「お前覚えてねぇのか、お前、初日から俺を桃って呼んだんだぜ?」
「ンなのァ、皆呼んでたじゃねぇか」
「呼んだのはお前が最初さ」
桃は富樫の頭に手を伸ばし、額の皺へと触れた。桃の指先は皮膚が分厚く硬くなっており、富樫の額に白いひっかきあとが付く。
一度富樫が眉をしかめると指が退いたが、その後もう一度伸びてきて前髪を遊ばせている。
「ツ」
「すまん。……でもな富樫、確かにあの時だったんだ」
優しい眼差しで桃は富樫を見下ろしている。富樫は自分を見下ろす桃へ、ハアと小さなため息をついた。
「それじゃ、偶然じゃねぇか。俺らァがこうしてんのもよ」
「そう…だな」
改めて桃は頷き、富樫を呆れさせる。こんな腐れ縁というには太すぎる、今までもこれからもずっと脈脈と続くであろう関係の発端が、たんなる偶然とは。

「でもそうなんだ、―――は、すべからく落ちるものだからな」
「ああ?」

くしゃりと桃が笑った。学生時代よくした、あのイタズラっぽい笑み。目尻に確かな年齢の皺が出来て、口元にも昔は無かった笑い皺が刻まれる。

「そういやさっき後ろから見てて気づいたんだが…お前後頭部に結構白髪があるな」
「…そ、そうか?やべぇなぁ、後ろは見えねぇもんなぁ…そういうてめぇも最近額がやばそうじゃねぇか」
「フッフフそれは困ったな」

まるで困っていないような調子だから、富樫も腹が立つ。桃がオタオタしているところを一度ぐらい見てみたかったと今更考えている。
お前が死んだ時、少しはそうだったよと誰も富樫へは教えはしなかった。


「どうだ富樫、俺も最近白髪が増えた。明日白髪染めを買ってきて染めねぇか」
何かステキな思い付きをしたように、桃が目をきらきらと輝かせている。
吐息が触れるほどに近づかれてたじろぎながらも、富樫はぼやくようにして応じた。
「そりゃいいな、俺ァビゲンだとかああいうのな、どうもあれに抵抗があってよ。中中踏み切れなかったんじゃ」
「そうか。それじゃ明日朝一で買いに行こう」
「おう」
「じゃ、寝るか」
「おう」

軽く唇同士がかさりと触れ合った。
おやすみ。
二人足並み揃えて行儀良く、眠りへすとんと落ちてゆく。
モクジ
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