取り出したオペラ石は白輝

それは耳にゴッサマァが詰まったのだ、
雷電はそう説明した。
秋には良くある事でござるよ、静かに言う雷電の瞳には好奇の色。
生来好奇心と知識欲が旺盛な男は顎をさすりさすり、桃へ静かに呼びかけた。
「剣殿、」
桃は困ったように首を傾ぐ。







短い悲鳴が上がった。
悲鳴や怒号が上がるのはここ男塾には良くある事だったが、その出所は特に珍しい人物だった。
「……桃?」
剣桃太郎、一号生筆頭。
剣を抜けば強きを挫き、
声を上げれば弱きを助く。
男気を宿しそれを遺憾なく奮う、正真正銘の男。
三号生筆頭のように強さはしばしば畏怖の対象になりやすいが、この男は違う。
「桃!」
桃、
そう親しみを込めて呼ばれる独特の雰囲気を持った男だった。
人は誰しも壁を隔てて暮らしていると言うが、この桃という男に限ってはそれが無いらしい。
呼ばれて桃はおう、と男らしく返事をするのが常だ。優しいがヘラヘラとしたところのないすっきりとした顔で微笑むのが常だ。
だが今その桃は困ったように首を傾いで、
「……松尾?」
やけに語尾を上げて聞き返した。
そして桃はハッと酷く驚いた顔を見せる。自分の声にかっきりと男らしい眉を寄せて数回咳き込んだ。
「どしたんじゃぁ、桃ォ」
近寄った松尾が桃の肩に手をかけて覗く。桃は真っ青になっている、しきりに首をブンブンと振ってみたり、鼻を摘んで頬を膨らませてみたり。
およそ剣桃太郎という男には似つかわしくないような滑稽さに、松尾はいよいよ心配になった。
松尾だけではない、教室でマンガを読んだりふざけていたりバカ話に花を咲かせていたりした塾生達がわらわらと窓際の桃の席へと群がっていく。
取り囲まれた桃はまず、安心させるように皆へと軽く肩をすくめて笑って見せ、囲まれた輪を抜けて黒板へと迫る。
黒板には鬼ヒゲが力任せに握ったせいで折れた短いチョークがたくさん溝に転がっていた、ピンク色のものはない、皆白い。
ピンクのチョークは甘いというバカなウワサを聞いた虎丸が全て粉にして牛乳に混ぜて飲んでしまった。
結果はと言えば、虎丸に限っては無害。今も腹を減らしてニワトリを追っかけている。

桃は白いチョークで指先を汚しながらそれを一つ摘むと、大きく黒板へ書きつけた。
鉛筆で書くのとなんらかわらない角のキッキッとしたいい字で書き付ける。

『何も聞こえない』

最後に大きくピリオドを打って、忌忌しそうに鼻を鳴らした。
誰も何も言わない、桃が冗談を言っているようにはとても聞こえない。
「も、桃…」
誰も何も言わない、言えない。
幾たびもの危機にあたったとはいえ、こんなに突発なのは初めてに近かった。
初めてに近い、これに近しい事を彼らは一度経験している。
あれは春先だったろうか、桃が仙女の桃を食べて羽化登仙しかけた時だ。
そういった事だろうか、ためらい、まよい、戸惑っている。
だがそんな塾生の中で秀麻呂は迅速だった。桃の元へ歩み寄ると、桃の腕を掴んだ。
小さく桃が頷く、
「わあ!!」
秀麻呂はいきなり腹から大声を上げた、教室に居るその場の誰もがビクリと肩を跳ねる。
しかし桃は秀麻呂がジツと睨むのをただ困ったように待っているがまま。
どうやら本当に聞こえて居ないようだと判断した秀麻呂はハァーア、と桃がさっきしたように肩をすくめた。
その仕草は秀麻呂には似合っている。
「田沢ァ、雷電呼んで来てー」
ゆったりとため息混じりに田沢に頼む。田沢は胸を叩いて請け負った。
「オウッ」
田沢が駆け出しかけて、教室の扉を開けて、
「ついでに便所も行ってくる」
短く堂堂と宣言すると、呑気にペタペタとカカトの潰れた上履きで歩いていく。

毎日こんな生活をしていると、緊急事態にも慣れてきているのだ。
既に日常の顔を見せつつある教室内に、桃は少しだけチェッとつまらなそうな顔をした。



外で虎丸がわんわんと吠えている。
きっと犬と何かくだらないものを賭けて争っている。






「むぅっ、これは…」
一拍、間が空いた。
最近では一番雷電を競っても中中言えないと、誰もがあきらめたため空いた一拍だった。
誰もがシマッタ、と思った中で一番に声を張り上げたのは椿山だった。
「教えて、雷電!」
らいでん、の声が小学生のように甲高く食堂へと響き渡る。それにしても皆ヒマなのか、夕食まで大分あるというのに皆食堂へぞろ集合している。
夕食までだいぶ、というよりはまだ午後の授業が残っている時間。鬼ヒゲは今おそらくは新たにボギリボギリとチョークをへし折っているだろう。
「うむ、これは剣殿の耳へゴッサマァが詰まっているのでござるよ」
「ご…」
ゴッサマァ、
雷電は食堂のメニューを馬之助が書くために置いてあった小さな黒板へすらすらとカタカナで書きつけた。筆で書いたような流麗な筆運びで、Jがフウムと感心 したように頷く。
「ごっさまぁ、ってのはなんじゃい。耳アカじゃねぇのかよ」
舌打ち交じりに富樫が問うた。机に広げられていたオッズと投票の一覧、富樫の名前は一番人気の『耳垢』のところに書いてあった。
これで数え三百円の損だと富樫は理不尽に腹を立てている。
大体何を言いたいのかを察した桃は酷くショックだという顔で富樫の横顔を見つめたが、面のカワに視線は弾かれて床へと落ちた。
「む…耳垢とは全く異質な、そう、クモの巣――」
「クモの巣ゥ!?」
その場にいたほとんどの塾生がオッズ表へ殺到した、耳垢、ふとん綿、パン、髪の毛、そのどれとも違う、ゴッサマァとは?
桃は耳が聞こえない筈でいたが、しかし確かに心の耳とも言うべきところが短い舌打ちを聞いた気がした。
その出所が伊達である事を知った時の桃は、喩えようの無いほど情けない顔をしていた。
伊達の名前は二番人気のふとん綿へ書かれている、自信に満ち溢れた筆圧の強い文字。
桃の視線はまたも伊達の傷の走る頬に叩き落とされた。
「そう、ゴッサマァとは糸を引きながら風に乗って空中を渡るクモの群れ。その糸が日に当たって輝く様をゴッサマァと言うのでござるよ。そのクモの糸は草む らや人の髪の毛にふわふわとわだかまり、手のひらで数度揉めば消えるような儚いもの。しかしまれに耳にそのゴッサマァの糸を詰まらせる事もあると聞き申 す」
速記というわけではないが筆の早い秀麻呂が紙に雷電の言う事を素早く書き付けて教えてやると深く頷いた。
「たしかに きのうは さくらのきのしたで ひるねをしていた」
ゆっくりと確かめ確かめ言葉を桃は繋げた、耳が聞こえないだけで声を出すのも一苦労。
「むっ、やはり…昨日は西よりの風が吹いてござった。ゴッサマァはイギリスの果てから吹くと聞き申す。おそらくは…」
「そんで、桃どうなるんじゃ、このまんまか」
オッズ表をクシャリと握りつぶした虎丸が大きく伸びをした。腹が減ったらしく鼻をヒクリヒクリさせている。
「いや、さきほどオリーブの油を少し垂らしておいた。文書によればこれで、翌朝には全て溶け消えるそうでござる」

「そんなら、心配いらねぇな。行こうぜー」
賭けは胴元の田沢が総取り、ウヒヒヒヤッタゼ、桃そっちのけで喜ぶ田沢と分け前を寄越せと松尾、いつもの面面がサラサラと砂を崩すようにして食堂を後にし ていく。
「富樫、剣殿を部屋まで頼むでござるよ」
「エー、俺かよ…」
そのいかにも面倒くさそうな声といったら、いや、桃には見えない、
だがその様子というか顔というか雰囲気と言うか、

桃は酷く切ない気持ちで、富樫の手に引かれる事を拒んだ。
無言で手を断ると一人部屋へと戻る。
「お?いらねぇか、そっか」
富樫はまるで気づいた風もなく、ジャアナと聞こえないのを忘れたように普通に分かれた。
チェッ、
桃は寂しい。




元より目が見えていないわけじゃない、耳が聞こえないだけだ。
言い聞かせながらもいつもと勝手が違って、部屋までの道のりは桃を消耗させた。
部屋に戻るなり桃は布団を一人ひいて眠る事にする。
けれど、普段親しくしている眠りもこんな時には訪れない、
チェッ、
桃は寂しい。
















桃の飯まで食べ終えた富樫は、さすがに飛燕を初めとする良識派に咎められた。
「べ、別に忘れてたってワケじゃねぇや…」
声は次第と小さくなっていく。仕方なく小さな握り飯をこしらえて部屋へと戻る事にした。粗塩をギュッギュとまぶしたブサイクなオニギリである。
釜底をさらったのでおこげが混じっていた。
ドアを開ける、靴を脱ごうと座ったところで桃へ富樫は声をかけた。
「おい、桃、飯食わんか」
桃は布団に起き上がったまま富樫を振り返った。
きょとんとしている桃へ、富樫は握り飯と沢庵の乗った皿を掲げて見せる。
「飯じゃ飯、聞こえねぇのか…って、ああ、聞こえてんだったな」
ノスノスと畳を踏みつけて富樫は桃の側に行くと、腰を下ろした。桃へ皿を差し出すと、
「わざわざもってきてくれたのか。ありがとうな」
丁寧に調子のおかしな声で礼を言われた。こうしてねぎらわれると桃の分まで豚抜き豚汁をおかわりした自分が恥ずかしくなってくる。
だが相手は耳が聞こえないのだ、そう思うと悪戯心がムクムクとわいてきた。
「悪ィな、おめぇの豚汁もカエルフライも、俺が食っちまったんじゃ」
「おまえがつくった おにぎり うまいよ」
子供のような桃の言葉に、王様の耳をやろうと富樫は決める。
「……あのな、桃よう、おめぇのジャンプに味噌汁零したの、ありゃ、俺じゃ」
「おこげのおにぎり なんて なつかしい な おまえも すきか」
もぐもぐとおにぎりを口に運ぶ桃、富樫はここぞとばかりに悪事を暴露していく。
到底許せぬようなものも、それから過去だいぶ経って古い悪事も様様にあった。
しかし桃はただおにぎりを頬張り、それを持って来てくれた富樫へ笑顔を見せ続ける。
一見なごやかな食事の時間が終わった。
おにぎりを食べ終えた桃は、皿をよけてごっそうさん、とやはり調子の狂った声で言って、

「こつでんどうを しよう」
と、富樫に持ちかける。
「コツデンドウ」
「骨伝導さ」
やけにハッキリと言い放つなり桃は富樫の耳をガシリと掴んだ、掴んだまま脳天へ頭突きをぶちかます。


「グェ――ッ!!!」
自慢の石頭を抱えて富樫はゴロゴロと転がった。そこへ桃が更に頭突きを追い討ちで仕掛けてくる。

ゴヅン、ゴッ、ボグン、
一方的な頭突きによる暴虐は嵐のように富樫を襲う。やけに力の入った、かつて江戸川を薪でもってメタクソにした時と同じような桃の頭突きに富樫はのたうち ながら悲鳴を上げる。


嫌な音をしばらく響かせていたが、桃がグチャグチャになった布団に富樫を組み伏せたところで頭突きを止める。ジツと見下ろしていたが、やがておもむろに桃 が富樫の前髪を跳ね上げて額をヒタリと合わせた。
「ウグ…も、もも…」
「ああ、聞こえる…」

桃が嬉しそうに声を漏らした。富樫が布団の上で海老のようにビクリと動く、桃は熱を見るときのように額同士を合わせたまま離れない。
それどころか影のように富樫の体の上にピッタリとのしかかったままで、富樫は酷く息苦しい思いをした。

「き、聞こえンのか…」
「ああ、骨伝導さ。こうやって額をあわせて、俺はお前の声を聞いている」
「……そ、そうかよ…よぁったナ」
「ああ。……ところで富樫、」









「俺な、食堂でオリーブ油を注がれてから、左耳は今ほとんど聞こえるのさ」

にこやかに、なんでもないように桃は述べた。
富樫はサッと青ざめた。「フカシこいてやがったのか、」言いかけた声は素早く桃にふさがれる。
骨伝導ならぬ唇伝導があれば伝わったろうが、生憎それはない。
全ての声を密着した体同士で通じながら、その晩富樫は何度も詫びる羽目になる。
ひいひいと酷く責め立てられて富樫、あらためて一号生筆頭の恐ろしさを知ることになった。
最終的に桃は、オペラ石のように凝った白く輝くゴッサマァを富樫が膝枕の耳掻きで取り出す事で手打ちとしてやることにした。
モクジ
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