その日の夕刊は二部
だってわたし、あなたのお荷物になりたくないのよ。
彼女は涙を浮かべてぼくに別れを告げる。
美しい風景が流れてゆく。
「押忍!おはようございます!!」
障子を開け放ち、富樫はまず腹の底から挨拶をした。太い声である、朝一から細い声しか出せぬようであれば、その日一日景気が悪いと考えている。
「………」
地響きのような、雷のような、発展途上の工場のような。
ともかく腹へと響くやかましい音が和室の中に満ちていた。時折それこそノコギリのようなガリガリとした音も上がる。
「………」
眉間には既に年齢による皺が出来上がっていたが、それが谷間を作って深まる。
ギュウ、と寄って、肉の薄い頬が震えた。
轟音は引き続き富樫の耳を襲う、耳を塞いでも腹へと響き続けるために効果が無い事は分かっていた。
「お は よ う ご ざ い ま す!!」
言うなり富樫は部屋の真ん中に盛り上がっている山へと突進した。
イビキは――先ほどから富樫だけではなく屋敷全体を震わしそうな轟音は人が発しているイビキであった――イビキは尚も揺るがない、小山つまり布団から鳴り
響いていた。
突進した富樫は掛け布団を剥いだ、縁側へと投げ捨てる。そうでもしないと再びあの太い腕が取り戻そうと伸びてきてしまう。
「おらァッ!!」
差し込んだ朝一番の穢れない陽光に、テカテカと巨大に輝くものがある。恐るべき大きさと硬さを誇る頭部。その下に小さく潰れているもの、それが富樫の狙い
だった。
腕をサッと差し込んで、テコの原理で頭をゴロリと転がした。その隙に枕を引っ張り出す。
同じく、縁側へと投げた。
残るは敷布団だけ、ここまでくれば毎朝の事、大山鳴動してくださる。そう富樫は踏んでいた。
が、
「甘い!!」
いきなり伸びてきた太い腕、たくましく骨太の、健康そうに毛の生えたそれに富樫の腕は掴まれた。富樫とてカルシウムは常人と比べて充実している、腕も太い
と自負していた。が、その富樫の腕は今や子供のそれのように軽軽と掴まれて、
「ぬん!!」
「おわあああああッ!!!」
投げられた。枕を投げるように軽軽と、富樫の身体は宙を舞った。丁度狙ったかのように先ほど富樫が投げた布団の上に尻から落ちていく。
ドズン、と痛そうな音。厚手ではない布団では全ては守りきれなかった様子で、富樫は痛みにギャアと悲鳴を漏らした。
「ワッハハハハハ!軟弱者め!!そんなことでどうする!!」
馬鹿でかい、非常識な、とよく言われる笑い声が富樫へふってきた。痛みに目をしかめながら見上げるとそこには今の今まで寝ていたとは到底思えないような健
やかな目覚めの――
アッ、富樫が慌てて耳を塞いだ。
「わしが男塾塾長、江田島平八である―――っ!!!!」
全身これ健やか、元気凛凛の江田島平八が縁側に登場していた。
時刻丁度朝六時、この大声を毎朝の目覚まし代わりにしている家も少なくない。
にわかに朝が活気付いた。
鱈の切り身に、蕪の圧したもの、味噌汁は大根。
富樫の用意したそんな質素な朝食を塾長は黙黙と食べる。いつも朝食には言葉を発しない、富樫は朝飯を共に食べず、後で台所で食べる。
別段決められたわけではないが、なんとなくそうなっていた。
そのかわり昼食はグッとくだけて、ヤキソバだとかタンメンだとかそうしたものを二人揃ってテレビを見ながら食べたりもする。
テレビの音の無い江田島平八の朝に、音らしいものと言えば箸を動かす音、隣の家の慌しい朝の様子、それから、
「おかわり」
の声のみ。
が、その日塾長は富樫へ、
「テレビをつけてもよいぞ」
と言った。富樫は一瞬リモコンへ手を伸ばしかける。
が、
「いいえ」
やけにキッパリと晴れた、昔を簡単に思い出させる後ろになにもないただ今ばかりといった笑みを浮かべて見せた。
「そうか」
塾長はそれきり何も言わず、富樫は飯をよそって手渡した。
朝は普段どおりの顔をして、過ぎ行く。
昼飯には生姜をタップリつかった生姜焼きを出した。塾長はこれが気に入りで、飯を何倍も何杯も食べる。夜に出しても良かったのだが、夜のメニューは既に決
めてあったので富樫は昼に出す事にした。
「うむ、うまい」
厚切りの、火の通ってちぢれた肉からからめた生姜ダレが飯にしみこむ。そこへキャベツの千切りとをまとめてワシワシと口に詰め込むのだった。
バラ肉の脂身があまく、隠し味に入れたウスターソースのすっぱさがまた飯を呼ぶ。
富樫もワシワシと食べている、黒いスーツの上着は脱いで、やけに頭だけを突き出すようにして食べていた。
これは白いワイシャツへ零さないようで、みっともないが背に腹は変えられぬ。
と、塾長がまた言った。
「テレビをつけてもよいぞ」
富樫はまたもキッパリとした、少し賊ッ気に俗ッ気があるものの十分に男前な顔で、
「いいえ」
と答える。
「………そうか、」
塾長はニヤリとした。が、それ以上何も言わなかった。
夕刊がそろそろ運ばれてくるという時刻になって、富樫は取り込んでいた洗濯物を放り出して玄関先に飛んでいく。
まだか、
まだか、
まだかよクソったれめ、
オイ、まだかってんだよ、
富樫がヤキモキしていると、背後からヌッと太い腕が現れた。
その手には富樫が待ち焦がれていた夕刊がある、富樫は目を丸くして振り返った。ニヤニヤと面白そうに大きな顎を擦りながら塾長が鼻を鳴らした。
「さっき駅で買って来た」
もう後十分かそこらすれば配られるというのに。
「……へえ、そりゃまた、なんだって」
逸る気持ちを抑え隠して、富樫は知らぬ風で尋ねる。ますます塾長はおかしそうに、肩を揺すって笑い出した。
「ワッハハハハッ!!!バカモン、わしが何も知らぬと思うてか。今日は桃の奴の選挙じゃろうに」
「…………」
チェッ、富樫が舌打ちをした。普段何も知らんという顔をしている割に、こういう大事なところはきちんと詰めている。
そうしたところがたまらなく男らしくて好きなのだが、今度ばかりは富樫のため息交じりとなった。
「………で、どうだったんですか」
「フフフ知りたいか」
「……………別に」
塾長は目を細めた。かわいい秘書の精一杯の強がりに、イケズ心がムクムクと膨らんでくる。
「ああ、落選じゃ」
「な、何―――ッ!!!!?」
とたんに富樫が塾長の着物の合わせを掴んで飛びついてきた。大きな胸でそれを受け止めた塾長は片目をギョロリと大きくして、勿体をたっぷりつけた後で、
「………桃の対抗馬がナ、」
真っ白になった富樫の顔ときたら、それはそれはコッケイで。
ワッハハハハハハハハッ!!!晩酌にはまだ早いというのに響き渡った大笑い。近隣住民は時計を慌てて確認する。
どうせ桃の野郎が当選するんじゃ、朝から晩まで桃のあの自信タップリの顔みせられちゃあたまんねぇからテレビもつけなかったってのに。そろそろ結果が出た
からって、いきなりテレビつけたら怪しまれっから夕刊待ってたってのによう。
それもこれも塾長ときたらぜーんぶお見通しでいやあがる。チェッチェッ、オマケに今日桃がきっと報告に来るだろうと思ってすき焼きの準備してたのも、
「ふふふん」
なんていかにもワカッテマスって顔をしやあがる。
チェッ、塾長ときたらよう。
富樫は面白くない。一度ぐらいは桃がシオシオに萎れるところが見てみたいと思うのだったが、反して絶対に当選するだろうと思ってしまう自分にガッカリして
しまうのだ。
富樫の奴、泣かせおる。
塾長は夕刊をバサリと投げ出した。先ほど台所にガスコンロの用意があったのも確認済みである。
あやつ、ワシが選挙速報を見てもよいと言ったのを断りおった。
深い腕組み、裾をチョイと跳ね上げた胡坐をかき、フフフフと腹の底から笑いを転がす。
それもこれも、自分という運の悪い男が見れば桃のツキを落とすと思ってであろう。
フフフまことに奥ゆかしい、いじらしいマネをするではないか。愛い奴よ。
ワッハハハハハッ、台所ですき焼き用のシラタキを切っていた富樫は不審げに奥の間へ顔を向けた。が、中は見えない。首を傾げて焼き豆腐を切った。
富樫の知らないところで曲解され、それがまた桃に伝わる事になる。
祝賀会会場となった江田島平八邸の夜は遅くまで騒ぎとなった。当初の目的から次第にズレ、騒ぐ事が目的となりつつある部屋の隅。
酒の染みた紅い瞼の、色っぽく滲んだ目じりの男前が含み笑いで顎を取る。
「フッフフお前、えらくかわいい真似をするんだってな」
「な、な、何を言い出すんじゃてめぇは!」
顎を取られたら、即座に負け。祝いになるのだから大変に結構なことだった。
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