幻色の街で

まばゆ過ぎる、
強過ぎる、
美しすぎる、

拒絶の理由が今ならわかる。






少年は共の男にうんざりしていた。自分から見てはるか年上、祖父を少し若くしたぐらいの年嵩であるにも関わらず自分にへりくだる男が嫌いだった。
知りたくも無いような事をさも自分のためのように訳知り顔で幾度も言うくせに、本当に聞きたいような事にはそれは自分には答えられませぬと口を噤む。
老獪という単語の、ずるく悪賢い、こすいところを集めたような男が嫌いだった。
どこへ行くにもついてきて、ずっと粘る視線を向けてくる。
男が時折自分の母へ見せる眼差しが大嫌いだった、それは身分の低いものへ対する嫌らしい軽蔑。自分の家ははるか昔からこの大豪院の家に仕えてきた血筋だと いう驕り。
しかしそれ以上に、母へ向けるあの粘つくような視線に肌が焼けそうになるほどの嫌悪を覚える。
娘ほどに離れた年の女だ。だが大豪院の本家にある女は母と、それから手伝いの者だけ。手伝いの女も六十に近い。
おんな、と呼べるのは母だけであった。加えて幼い邪鬼にはまだ顕著に現れていた頬のすべらかさを与えた、美しい女だった。
病弱で自分から起き上がる事もかなわぬような母、その母を寝台に起こしてやる時に露骨なほど腰に回る腕。顔を近づけ母の香りを嗅ぎまわっているのが大嫌い だった。
邪鬼の目があるところですらこれである、その時母へ向ける眼は、
「自分がいなければ、何もできないのだろうに」
暗に沈黙を促しながら、男は母をそれでも蔑んだ。
邪鬼を生んだ瞬間に母の使命は果たされて、後は死のみ。誰からも省みられる事はない女を蔑む男が大嫌いだった。

邪鬼はそれ以上に、父を憎んだ。
何も言わぬ母を憎もうとも思ったが、それではあまりに哀れと思い出来なかった。
カゲロウのように儚いものを歯がゆく思えとて、憎んだり蔑んだりする事は出来ない。

幼少とはいえ、邪鬼は大豪院邪鬼である。
完成されるまでまだ遠いとはいえ、邪鬼は道を過たずに進んでいる。




アキアカネをまだ一匹も見ぬ、秋の始めである。というよりも夏の終わりがまだ尾を引いている。

分家筋への届け物を言い付かった帰りである。雲が秋らしくいきなりに空の端から膨れ上がってきて、空の七割を覆う。
薄暗くなってきてから男は一言、
「若君、雨が降りそうですな」
何を愚かな、と邪鬼は思った。さきほどから肌へ湿り気がひたひたと迫り、土が匂い立っていたというのに。
そんな事もわからぬのか、邪鬼はチラと振り向いて後、
「あそこで傘を買って参れ」
尊大に、父がそうするように男へ命じた。命じれば男は必ず言う事を聞くのを知っている。ただし、邪鬼のさらに上位の命が下っていないかぎり。
邪鬼の地位は高い、本家の嫡男である。だが今は邪鬼の父や祖父や祖母もおり、分家筋の長も存命。
大豪院の家に生まれた時点である一定の地位は得ていたが、このように頭がわさわさと詰まっているのだから邪鬼の命が通らぬこともある。
だがこの場、誇りっぽかったバラック街において邪鬼よりも上位の者は居ない。
「かしこまりました」
男は深く一礼してすぐ先にあった雑貨屋へと腰を低くして走っていった。
道を歩いていた中年の女が男を従える少年に興味を持って振り向いたが、邪鬼の物腰や風体に納得した様子で去っていく。

邪鬼は清清した気持ちになって、素早く裏路地へと滑り込む。
傘を二本買ってうろたえる男を思うと酷く愉快になった。
肩の荷が下りた、いや、あれしき大豪院邪鬼にとっては荷にもなりえない。
小うるさい蚊を追い払ったのだ。

はははは、笑い方は快活で、やはり大豪院邪鬼といえども少年である。

邪鬼は普段通り過ぎていた道の奥がどうなっているのかも知らなかったが、踏み込んだ途端ここが『ああいう場所』なのだと言うことはわかった。
ああいう場所、
一見長屋が並んでいるのかと思ったが、小さなゲートを潜り抜けるとそこだけ雰囲気が異質である。
普通の長屋はどこも戸や窓を開け放っているものだが、ここはどこも締め切られている。
二階のあるもの、ないもの、しかしどの家も小さい。

家ではない、店だ。邪鬼は理解した。

六人か七人入ればどの店も満員になるだろう狭さ。ひしめき合う狭い店と店との隙間には一人通るのが精一杯の路地が通っていて、覗き込めば向こうにも同じよ うな風景が広がっている。

「!」
邪鬼は驚いた。路地の向こうに派手な青色をした戸が開け放たれていて、その真っ赤な店の中に邪鬼が居てこちらを睨んでいたのだった。思わず腰を引く。
しかしすぐに理解した、なんのことはない向こうの店の壁は鏡になっているのだ。路地を隔てて邪鬼は自分の姿を見る事になるとは思わなかった。
再び邪鬼は店達の隙間を縫う。まいた男の事など既に忘れている。

まだ何の色も入っていないネオンが軒先にずらりと並んでいる。適当に工夫を凝らした品書きが張られている。
色っぽい紅に窓枠を塗ったり、タイルを柱や鴨居に貼り付けて独特の模様を作ったり。ハート型に曲げたネオンの真ん中には乙女と蔓でこしらえたような屋号が はまっていたり。
だがどこも全体的に安っぽさが溢れている。
何よりこれだけの店が並んでいて、誰も居ない。
人の気配が無い。
店の中にすら人がいるのかわからぬほどに死んでいる。

「ここは廃墟か」

死に絶えた店の墓場なのだろうか。邪鬼はくるりと視線を巡らせた。
店と店との横にできた細い路地を冒険心をもって潜り抜ける、と、驚いた事に店同士が背中合わせをしたその背骨の隙間のような空間にまだ店があったのだ。
背骨の丸み同士の隙間のようなところである。一体どれだけかの面積だろうかと首を傾げたくなる。
戸はあだあだしい朱色に塗られていて、取っ手は悪趣味にも女の裸で出来ていた。少年の興味を嫌が応にもそそる。
『会員制』
戸には素っ気無くそんなプレートが仕事の顔をして張り付いていて、邪鬼を一息に現実へ引き戻した。
だがそれは戸の外だけの事で、戸の内側にはどんな空間が広がっているのだろう。いや、広がりようのなさそうなあの狭い空間に実は果てしないほどの広さが広 がっていても不思議はなさそうである。邪鬼はそっとその取っ手へ手をかけた。
女の乳房のあたりに人差し指を引っかけて、軽く引く。

さしたる抵抗もなく戸が開いた。出来た隙間へ邪鬼は顔を突っ込む、

「!」

顔を突っ込んだすぐ先にあったのは階段だった。それも急角度でほとんど梯子と代わらないような。階段の横には誰が戸を開けるかもわからないだろうに律儀に 小さな赤いシェードを被ったランプが置いてあって、階段にはズルリと赤い敷物がかぶせてある。
ランプの光源を頼りに、邪鬼は視線を階段の上へと上げた。

「!」
驚かされてばかりだ。
階段の上部、つまり二階から女が長く洗い髪らしい濡れた髪の毛を暗がりに垂らしてジツと邪鬼を見下ろしていたのだった。
女に表情は無い、胡乱げに邪鬼を見下ろしている。目は反らされはしないが、その代わり見つめても来ない。

邪鬼は戸を閉めた。
女はまだ見下ろしているだろうか。

邪鬼はどきどきとしながらも細い路地を潜り抜け終えた。普通に通ればわずか十秒にも満たない隙間に、三つの空間があるなどと思うとやはり不思議に思えるの である。



路地を抜け終えても代わり映えのしない風景が広がっている。狭苦しい道、両脇にひしめく小さな店店、歪んだネオン、会員制のプレート、毒毒しい色調のタイ ル、
淀んだ空気、


「ここは、そういうところだ」

邪鬼は口に出して理解した。そういう街であると。
夜しか息をしない街であると。
だから今は死んでいる。廃墟と化している。これだけ居並ぶネオンや馬鹿馬鹿しい程の極彩色の店構え、夜になればなんと婀娜で美しいだろうと邪鬼は胸を弾ま せた。

頬へ一滴、雨粒が降って来るまで邪鬼は雨の接近に気づけないでいた。
それだけ少年の心が高ぶっていたということである。
密閉された瓶の中のような大豪院家の外はなんと解放的なのだと。
それも普通の顔をした道を一本入ればこんな不健全な街がある。

「人間のようだな」

一皮剥いた人間のようだ。体の中は路地のように細い血管が張り巡らされていて迷路のようだ。
邪鬼はあるかなしかの軒先に入り込んで雨を凌ぐ。
目の前の軒からボタボタと雨が落ちてくる、避けようと左へ足を踏み出すとグンナリと柔らかいものを踏んだ。

しばらくしてから足元を見下ろすと、邪鬼が踏みつけた柔らかいものは濁った目をした、襤褸のような男の右腕であった。

「………」
数日分の驚きは使い果たした、邪鬼はただ目を瞠ってその男を見下ろすのみ。
男は濁った眼球をきろりと動かして邪鬼を見上げると、浅黒い頬に笑みを作って、
「てェした御仁だァ、こんなにお若ェのに」
「………」
邪鬼が何も言わないで足を引き、軽く頭を下げると男はますます笑って、
「旦那、戻れなくなる前ェに、戻ンな。明かりがついたらお仕舞ェだ、俺ィらのように」
「わかった。邪鬼は戻ろう、忠告を感謝する」


素直に邪鬼は頷くと、雨などまるで無いようにして男に背を向けて軒先から出ると歩き出した。
男は酔いという夢から醒め切った顔で、驚いたようにいつまでも邪鬼の背中を見送っている。




戻ろうと行ったまでは良かったが、邪鬼は迷っていた。さきほど『出口ハコチラ』という道しるべに従ったというのに。
こんな狭い街の中でよくもと思ったが、どうやら迷い込んできた客を逃がさぬよう随所にこうした罠のような道しるべや袋小路を作っているらしかった。
あと二時間もすれば日が暮れかけるだろう。邪鬼もさすがに雨に打たれて消沈もしていた。

「家に帰れば、何か言われような」

雨に濡れればあの男が笑うだろう。自分をまいた報いだと、心配をするフリをして大騒ぎするだろう。
大豪院本家嫡男としての自覚が足りぬと、本家分家のうるさ方が言うだろう。
回りまわってお前が悪いのだと理不尽にも母を責める事もあるだろう、ありえないことではない。
面白くない想像に邪鬼の眉が寄る。じっとりと濡れた着物も重たい。

もはやどうにでもなれと邪鬼は決めた。心細いわけでは決してなかった、冒険心という軽はずみが招いた事態に自責を感じている。
自分は大豪院邪鬼なのだから、自分の行動によって誰かが被害をこうむるような事はあってはならないと思ってのことであった。


決めたままに邪鬼は目の前の店の戸へ手をかけた。忌忌しい『会員制』のプレートがあったのだがそんなものは関係ないと斬り捨てる。
「失礼する。道に迷って難儀している。出口を教えてはくれないか」
人に道を聞く時はこうですよ、母がやわらかい口調で教えた言葉は今、邪鬼の口から力ある声として発せられた。

ひっそりとした外観、枯れた朝顔。
内装はさらにひっそりとしたありきたりのカウンターバーで、カウンターの向こうで女が一人目を丸くしていた。
「……いけないお客様ですこと。ここは会員制と書いてあったでしょうに」
女は言葉の上では咎めて見せたが、邪鬼が子供であったからか声には案ずる響きがあった。
和服をつるりと着こなした、博多人形のような色白の女であった。女はカウンターの一部を跳ね上げると中から出てきて、
「こんなにお召し物を濡らしてしまって…傘は後で貸して差し上げますから、少し上がっていかれたらいかが」
早く戻らねばという考えもあったが、女の案内無く戻るのは難しそうであったし、自分の不注意のせいで女を外に出す事は気が進まないので邪鬼はそうすること にした。


やけに急な、梯子のような階段を上がるとほんの四畳ほどの部屋があり、そこには紅色をした絹の布団が一組敷かれていた。窓には紅のおおいがついており、ラ ンプのシェードも紅だ。息苦しいほどに紅が埋め尽くしている。
いかにもそういう事をするための部屋であった、邪鬼の視線を受けて女はほんのりと愁いをその頬に帯びて、
「取って食べたりはしませんわ、こんなにかあいらしい殿方を」
どこか悲しい顔で笑う。
「そういうつもりではない。誰か来る予定があるのならば、早く出ねばすまぬと思っただけだ」
「まあ、」
邪鬼が少しばかり早口で述べると、女は首を傾げて微笑んだ。悲しみが吹き消えてもどこか紫に影がある頬で、妙に邪鬼は目を惹かれた。
「確かに一人いらっしゃいましてよ。というより、ここにいらっしゃるのはたった一人なのですから」
「一人…客がか」
子供ながらに大人の男と同じような、いや、それよりも上の口を平然とはばかりなく利く邪鬼を女はどう思ったろうか。
女はまたあの悲しみ半分の笑顔に戻ってしまう、つるりとした顔がうつむくと折れそうな首がいっそう痛々しい。
「そう、あの紅色をしたドアを開けるのはたった一人。この布団に横たわるのもたった一人」
「商売にならぬのではないか」
「もともと商売ではありませんわ。店を与えて、逃がさぬようにしているだけの事」
「逃がさぬように」
「そう、ここは鳥篭のようなもの。窓枠に鋲が打たれて開かないようになっているけれど、入り口のドアに鍵はありませんの」

意味がわからないでいる、邪鬼は借りた手ぬぐいで首筋を拭っていると女の手が伸びて新たな手ぬぐいが頭へ被せかけられた。
女は優しく邪鬼の髪の毛を強弱をつけて拭いていく、心地よい、邪鬼は頬から力をゆるめる。

「店の時計をご覧になって?」
「いや」
「あれには大きな石がはまっていて、大変な価値だ、お前が逃げればあれは盗まれよう、お前のせいだ。そうおっしゃるのよ」
「………」
「このお店も、もし何か物盗りにでもあれば責任はこちら。お買い物にもおいそれとは行けませんわ」

邪鬼は不思議でならない、それほどの扱いを受けて尚、この女はその男を愛しているのだろうか。
その疑問は自然と女へ伝わったようで、女はまた薄い眉尻を下げる。

「わかりません、けれど、居場所はここにしか無いのですから――」
「居場所は自ら作るものではないのか」
「……そう思っていた時期も、ありました。けれどもう、わたくしは歩く力が無いのです。もう随分とここにいて鳥となっていたのですもの」
「寂しくは無いのか」
「……ここに一人でおりますとね、たった一人のあの方が無性に恋しいような思いになりますわ、けれどそれは―」
「それは違う」
「ええ、だからわたくしはもう飼いならされてしまっているのでしょうね」



「契約、ですもの」
邪鬼は立ち上がった。拭いきれなかった滴がぽたりとささくれ畳へと落ちる。
「全て返してしまうがいいのだ。その時計も、この店も」
「……契約ですわ」
「約束ではない」
「同じことでしょうに」
「否」

邪鬼は首を横へ振った。幼いながら、足袋に包まれた足が畳をにじる。強い覇気が震え上がって部屋へと満ちた。
「約束とは双方の同意をもって結ぶもの、これ破ることあたわず。契約とは同意を得ずとも結べるもの、ただし手順を踏んでの破約は可能」
教えられた通り、邪鬼が信ずる通りにそう断じた。

理不尽に踏みにじられることは、あってはならぬ。
たとい相手がどんなにか強大であろうとも。

「お前がここに居たくないと言うのならば、居なくてもよいのだ」
「…………雨が弱まりましたわ。送って差し上げます」

女は打たれたようにうつむいたまま、そう言って背を向けた。
邪鬼は何か酷い事をしたような、後悔にも似た気持ちを抱く。



女の傘に二人で入って、ネオンが灯り始めた路地を歩く。子供連れが歩くのは珍しいようで、既に酔った男達が下卑たヤジを飛ばした。
邪鬼が一睨みしても相手はまるで気にして居ないようで再び海のような光と闇の中へ消えていく。
女の横顔は静かで凪いでいて、ゆるぎないように見える。

邪鬼も女も何も言わず路地細道をいくつか潜り抜け、邪鬼が昼間入り込んだゲートにたどり着く。
腕にかけていた傘を女は差し出して、
「もうここに来てはなりませんよ」
さきほどまでのなよやかさからは思いも寄らぬ厳しさでそう言った。
「また来たい」
「なりません」
「お前に会いに、また来たい」
「いけない方、悪い方に攫われてしまいましてよ」
「邪鬼は攫われたりはせぬ」
「いいえ、こんなにかあいらしいのですから」
「また来るぞ」
「いいえ、」


いいえ、女は笑った。儚さが消えて、強かに眉を吊り上げて笑った。
「いいえ、だってわたくし、次に来る時には居ないのですもの」
「……そうか」
「ええ、とんずらしちまいますわ」
「………そうか、」
邪鬼も頬へゆったりと笑みを作った。女はけれどもね、と付け加えた。
「けれどもね、貴方のように強い方はあまりいないのですよ。悲しいけれども」
「………」
「貴方の歩いたその地面に、潰れた蟻が居る事、避けろとはいいませんけれど知って下さいましね」
「…………」
「眩し過ぎる光は、目を灼いてしまうのですよ。過ぎた明かりは身を焦がしましょう」
「……………」
「けれどもとっても貴方は優しいから、どうぞわたくしにしてくださったように、これからもそうあってくださいましね」
「うむ。邪鬼は何も変わりはせぬ」

「それでは、くれぐれもここへ来てはなりませんよ」
「わかっている」

邪鬼は背を向けた。
女はゲートのところで深深と頭を下げてその背を見送った。
その日邪鬼はあの男が母に不埒を働いていると糾弾し、父は即座に男を処断した。
理不尽に誰かが虐げられることは、あってはならぬ。
力あるものは、その力を使わねばならない。知っていてやり過ごすは同罪。
邪鬼は幼いが、大豪院邪鬼である。








「言いつけを破って、俺はその街へまた赴いた」
「は、」
「傘を返さねばならぬと思ってな」
自分で言いながら、邪鬼は苦笑している。
影慶も苦笑した。邪鬼らしい、影慶の好む強引さであった。
机に広がった書類には既に大豪院邪鬼の印が押し終えてある。しかし仕事は終わりではない、剣総理の同性愛スキャンダルに絡めて同塾出身の邪鬼にまでハレン チ極まりない取材が詰め掛けていたのだ。そのしわ寄せを今片付けている。
仕事の疲れが高まると邪鬼は影慶へ昔の話をして聞かせた。影慶も静かに聴きふける、静かな空間に満ちるのは淹れたばかりの日本茶の香りと、外の雨の音だけ である。
雨音が邪鬼の記憶を呼び起こしたに違いが無い。
「傘を持ってあの街を探したが、どうしてもあの街を見つけることは出来なかった」
「ああいう街は、そういうところです」
知った口を利く影慶に、邪鬼は太い眉を持ち上げて面白そうに見やった。
「……その方が初恋だと、そういうわけですか」
やけに影慶の口調にはトゲがあった。今度こそ邪鬼は笑う。
「そう悋気を起こすな。昔の話だ。それも一度きりの」
「一度きりの。……その方はそれで、」
「わからぬ。が、俺は信じている」
「……そうですね」




「そんなにお母上に似てらしたんですか?」
邪鬼は驚いたような顔をしていた。影慶はひっそりと笑う。
この大豪院邪鬼という男があれほど優しい顔で語るのは、彼の母を語るとき、もしくは、
「力無きゆえに虐げられた者がいるのならば、俺が何かしないわけにもいかぬと思っただけよ」

彼の母のように虐げられた者を語るとき。
力あるがゆえ苛烈な道を行き、傷を負う。
それは力を持ったゆえ。
けれど逆に力なきものもある。術も無く踏みにじられるものがあるのならば、力を持っていて傷を負いながらもその力を使わない事がいかにも馬鹿らしい。

だから邪鬼は力を使う事にした。我が身を信じて力を使う。
影慶はそんな邪鬼の後ろからついて歩き、彼の後顧の憂いを断つ。
それが望みであり、出来る全てでもある。

「雨も上がりました。邪鬼様、そろそろ」
「うむ。影慶久しぶりに付き合え、酒が飲みたい」
「はい」
「奴らもまだ残って居るだろうか、残っているのならば誘っ」
影慶の手のひらが邪鬼の唇をそっと制した、影慶が上目に笑う。
「いけない方だ、やはりああいう街に貴方は行ってはいけません」

言外に野暮だと言っているのだ、わかって邪鬼は、
「ム」
それきりしか言う事はなかった。傘は一本しか持たない。
モクジ
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