女神の祝福
街で聞いてみるといい、ヒーローの名前を聞くといい。
そしたら挙がる名前の中に、彼の名前があるだろう。
最高にハイでクールで、ブリリアントでエクセレントで、言葉をどれだけ尽くしてもたりない、自分の胸を疼かせ止まない彼の名前が有るだろう。
言葉を尽くさないのならば、どうすればわかる?
―――もちろん、拳で。
「すまんな、」
「ハ」
言われて一瞬、ヘッとなった。軍人にあるまじきだ、上官が何か言ったらまずはハイ。答えがイイエであっても、ハイ上官殿、イイエ。
職業軍人だったってのに、まるっきりトーシロのそらっトボけた返答をしてしまった。
退役したとは言うけれど、それに在役中はお世辞にもいい軍人じゃあなかったけれども。けれど上官に対してこんな口を利いてしまった事がひたすら情けない。
相手が単なるメタボリックなデスクマンだったならまだ笑いにもなる、
けれど、
「上官殿、何がでありますか」
自分が漢の中の漢と思い、慕い、惚れに惚れこんだ上官に対してこんなのはナシだ。
何がでありますか、なんてジブンの問いに上官はムッと口元を引き締めた。元元締まっているのにそれ以上締めてどうするんだろう、と言うぐらいに顔が強張っ
ている。
「………十二日だ、すまん」
言わせてしまって、後悔も二乗。アレ、二倍と二乗ってどっちのが大きいんだったっけか。よっぽどジブン、混乱している。
「イエ、いいんです。ジブンが勝手に言っただけっすから」
こんな言い方したら、ますます上官殿が気にするのに!女の腐ったような、それも仕事とワタシを天秤にかけるような言い方をしたくなかったのに!
「……そうか」
それでも上官殿は少しホッとしたようだった。
震えた。
ジブンが勝手に上官殿へがなってわめいただけの、約束とも呼べないような言葉を覚えていてくれたこと。
"パァクでバーリ・トゥードの若い兄ちゃんが挑戦者求むですってよ。ちっと冷やかしにいきませんか"
こんな他愛も無い、マックへ行くような言葉を。
そして更に、はるか昔に上官殿の大事な友人と交わした約束のために、取るに足らぬそれをホゴにしようとした事を詫びていること。
「いいっすよ、ジブンも楽しみであります。上官殿」
笑いが止まらない。隠そうにも隠せない、隠す気がない。
「だから俺は貴様の――」
上官ではない、元上官殿は決まり文句を口にした。あの見慣れた渋い渋い、シブい顔で。
じゃあ何と呼べばいい、ジブンのその問いにまだ答えが出ない。さん付けで呼ぶ?ハハハまさか。
「上官殿、女神の祝福はいかがっすか」
軽く唇を突き出して見せた、チュッ!
若干のはぐらかしと、大半の冗談。本気でなんて言えるはずもなく。
最近ほとんどが白くなったものの、あのカタさと強さはそのままの形を保つ眉の端が持ち上がる。こうした冗談がお好きでないのは百も承知。けれども言ってみ
たいという気を起こさせるんだ。
「いらん」
「効きますよ」
こうしてジャレつくように食い下がると、必ず返事を速めて口調を強めて返ってくる、知っている。
もう何度もやった道、通った道だ。
「いらんと言っている」
アハハハ、ジブンは大きく笑った。元上官殿は憮然として(といっても大半を憮然としているように見える)、
「………すまんな、」
やめて欲しい、そんなに真剣に、大事な事のように言わないで欲しい。まぶたを半分にして、男らしく短い睫毛をふさふささせて言わないで欲しい。
なにもかもにも真剣で、手を抜くという事を知らない人だからこちらが勘違いしてしまいそうになる。
冗談というものを解さない元上官のこういうところに一人踊りをし続けてもう何年にもなってしまった。遠くまできてしまった。
「………チェッ」
「突然の復活に、戸惑いを隠しきれません!彼の名前に憧れた少年の数は、数え切れないでしょう!もちろん僕もその一人です!」
大歓声。
実況が上ずった声を張る。舌の滑らかさを売りにしている彼だったが、語尾が巻き舌になってしまった。
視線を振られて解説者が大きく頷く。
「私もです!」
「僕らの年代で、ヒーローは誰だって聞いたら必ず上がる名前ですからね!」
「そうですね、当時世界最強と言われたエディ・バルドを3ラウンドKOに仕留めたあのパンチを今でも覚えています!」
解説者はプロである。だから喉が狭くなるから冷たい水は飲まない、解説者は含んだ水の冷たさに一瞬ヒヤリとした。その後に苦笑が漏れる。興奮しているのだ
とわかった。
外は十一月の中旬でひどく冷え込んでいたが、この場内の熱気ときたらどうだ。ぬるいボトルですら汗をかいている。
たまらずトレードマークだった派手なゴールドのネクタイをかなぐり捨てて解説が喋り出す。
「ボクサーとしてのデビューは遅咲きも遅咲き!現在ではとうに年齢制限にひっかかりますが…」
「ああ、そうでしたね」
「あの当時ボクシング界は低迷していて、人気取りのために年齢制限を取り払ったのでした。ゴッドハンドと言われたリカルダがデビューしたのもこの時、彼は
三十二歳でしたね。しかし彼は、僕らの英雄はそれよりも尚年上で」
上ずった声で実況が後を取った。
「そのうえ、経歴がハンパじゃない!なんと我が国アメリカ軍総司令官だったというんだから驚きでしたね!アメリカンドリームでもありえない!」
「軍人として彼を知った方が先という方もいらっしゃるでしょうね。退役したばかりの彼はデビュー前にも騒がれましたが、」
「勝利後も大騒ぎでした!たしか映画化されましたよね、僕見ました」
「俳優がえらくブッサイクでしたね、私も見ましたよ」
会場に笑いが起こった。
一息、実況は胸に大きく息を吸う。
「しかし、現チャンピオンは防衛記録無敗記録共に世界一です!当然実力も世界一と言っていいでしょう!彼は、僕らの英雄は確かに強かった、けれど…どうで
しょうか。突然一夜限りの復活だけではなく、現チャンプへの挑戦というのは!」
会場内の、挑戦者のファンである往年の男達がざわめいた。
解説は舌でペロリと唇を舐めて後、
「そうですね。現在もトレーニングは欠かしていないということで、見事に身体を絞ってきています。素晴らしいといわざるを得ません。けれど、現役を引退し
て十年以上、人の身体に奇跡は起こりません。ご覧下さい!」
大型スクリーンに挑戦者の顔が大写しになった。現チャンプのファンで、挑戦者をあまり知らない彼等は笑った。
実況が悲鳴のように高い声で吠える。
「ご覧下さい!白髪に、顔面の皺!彼は、僕らの英雄は確かに、年を取ったのです!パンチのスピードやパワーの低下は否めません!そして、入場する際の勝敗
予想アンケートの結果がこちらです!」
スクリーンが切り替わる。赤と青との円グラフが映し出され、挑戦者が勝つと思うと答えた赤は二割にも満たない。
しみじみと心からの言葉を解説者は口にした。
「私は正直に言って、複雑です。どうして戻ってきたのか、どうして思い出の完璧だった姿のままにさせてくれないのかと!」
挑戦者のファンからのブーイングは起こらない。誰もが多かれ少なかれ、同じ感情を抱いた。
彼等の憧れ、英雄は人間であるとわざわざ思いしめにきた彼が憎いと。
老いさらばえた姿をどうして見せるのかと、憎んだ。
しかし、
しかしと解説者は言葉を切った。上擦りを気にする事も出来ない。
「それでも、それでも嬉しいと思ってしまうのです!わずか数年の現役でここまで名前を広く知られ、また愛されたチャンプはいなかったと断言してもいい!会
えて嬉しいのです!」
「さあ、僕らの英雄にお帰りを言おう!会場のオッサン、そしてボクシングファン!ボクシングファンと言っていて名前を知らない奴はモグリだ、殴ってよ
し!」
笑い声。そして高まる興奮。現チャンプのファンですらその雰囲気に飲まれ、頬を赤くしている。オヤジどもの思い出話にはつきあいきれねぇ、そんな白けた顔
をしてはいられなくなった。
思わず実況が立ち上がる。目の前に置かれたボトルが転がり落ちたのも目に入らない。
「J!!J!!」
会場はその漢の名前を呼ぶ声で満ちた。次第にその声は大きくなってゆく。
こうした格闘技会場に付き物なのが元締め師で、勝敗の賭けの胴元になって賭けを取り仕切るのだ。手馴れた様子で腕を上げ、
「さあ!現チャンプに賭けよッて野郎は!!」
座席に立ち上がるなり黄色い歯を見せてそうがなった。忽ちドル札を握った腕が何本も突き上がる。
賭け金を書いたコインを変わりに握らせ、オッズの計算を隣の助手がノートに書き付けては破り、観客達へとまわしていく。
忽ち金の入れ物になった箱は、現チャンプ側ばかり膨らんでいく。挑戦者Jの箱にも入るのだが、小銭や一ドル札ばかり。そのほとんどが思い出に対して支払っ
た額であることはあきらかだった。
「これじゃ賭けになんねぇぜ!無理もねぇあんなオイボレじゃあな!」
酒に酔った声がざわめきを割った。男が突き出した札が20ドル紙幣だったことも拍車をかける。
「こりゃあ豪気豪気!!誰か、中年の英雄にバーンと賭けよってギャンブル野郎はいねぇのかい!!」
「張ったッ!」
女の声が最前列から上がった。一斉に誰もが振り向く、それほどに大きく太い声だった。
「オッ、賭けるかい!」
「ああ!」
化粧ッ気のない顔に堂堂とした体格の、首の太い女だった。声も太く大きい、腕組みをして誰しもを見上げている。
子供等の悪戯を見守る、微笑みすら浮かべていた。
「いくらだ!」
「十万ドル!!」
女の声に、一瞬静まり返った。女の日焼けした顔に冗談や狂いの色は無い。次の瞬間この歓迎すべきギャンブラーに大歓声が上がった。
「アンタ、気でも違ってんのかい?それでこそギャンブラーだ!ハハッ、誰かこの姐さんにビール!!」
後数分後には十万ドルを失う女の顔を見ようと、酔っ払いが馴れ馴れしく女の元へと詰め掛ける。女はそれを知らぬふりで受け流しながら隣に座る少年を見た。
年のころ十四ぐらいといったところで、黒髪には珍しい青い瞳をしている。
「ボーイ、いくら持ってる」
「ヘ」
少年は頬張っていたホットドックから口を離すとポカンとした顔で女を見上げた。この騒ぎに気づかなかったとすれば大物。女が目を細める。
「いくら持ってるって言ってんだよ」
「な、なんで」
面倒だ、とでも言いたげに女が少年に左腕をサッと伸ばす。座席の上に跳ね上げていた脚に載せていたサイフを掻っ攫った。
「アッ!!」
「親父!ヒーローにこのサイフ丸ごと!」
囃し立てる口笛、少年を小突きにくる酔客。泡を食って返せ返せと怒鳴る少年。
「オバサン!!アンタ、何してくれんだよ!」
「儲けさせてやろうと思ったんだよ。いいから座って見ておいでボーイ」
女はにんまりとした笑みを崩さない。絶対の自信があるのだろう。少年と同じく招待されたものしか座れないはずの最前列にいるのだから、挑戦者の身内かもし
れないと少年は踏んだ。それなら尚の事賭けが危うくなる。
「オイ!!」
少年の腕が女の右半身へと伸びる、女の右腕を掴もうとしたと同時に、試合開始のベルが大きく鳴り響く。
大方の予想通り、元チャンプは序盤から徹底的に叩かれた。年齢から考えれば奇跡のような身体能力であるとはいえ、若く獰猛な現チャンプと打ち合っているの
は無謀ともいえる。
しかし稲妻のようなパンチを顔に食らおうが、金的反則ギリギリの下腹部へのパンチをもらおうが、元チャンプは倒れない。
「いい加減に倒れろ!このオイボレ!!」
現チャンプの力任せのパンチが元チャンプの顔面に決まる。マウスピースが高高と飛んで、場内は騒然となった。
――ダウン。
終わりか、誰もがそう思った瞬間、フラフラになりながらも立ち上がった元チャンプは客席へと声を張り上げた。
「剣獅子丸!」
「―――え、俺?」
「……ボーイ?」
あのサイフを取られた青い瞳の少年が小さく声を上げた。一方的な試合内容に退屈して、眠気まじりの目を瞠り、頬張っていたホットドッグのパンクズで汚れた
顔を上げる。隣の女も驚いた様子で少年を見た。
「お前に教えよう、NEVER GIVE UP 男塾魂を!そして、」
肩が膨れ上がるような、筋肉の高ぶり。肘は限界まで伸びて、手首の返しはえぐるように鋭く。
目にも見えぬスピード、誰もが憧れ、尊敬を込めて呼んだあのパンチ。少年達がサンドバッグへ繰り返し練習を打ち込んだあのパンチ。
「……最高最後のマッハパンチだ―――ッ!!!」
次の瞬間、勝敗は決していた。
会場の外、まだ熱気が冷めやらぬようで半袖の人影も多い。誰かが街路樹を打つ音がして、その後大きな笑いが起こった。
「………ほらよ、増えたろ」
ふふふん、くわえ煙草の憎らしい顔で女が数倍に膨れ上がったサイフを少年に返した。
「……オウ、ありがと。……オバサン、あの人の関係者?」
どこか納得のいかない顔で、そのサイフを受け取った。いぶかしげに女の顔を上目に睨む。
「まあな。それで、ボーイ。ボーイこそ関係者か?」
「ああ、親父があの人の同級生で、それで招待状を送ってくれたんだ」
数秒の空白があった。女の目付きは鋭く、少年を値踏みするように爪先から頭の天辺までを睨み上げる。ふうん、と女は逞しい肩を上下させて息を漏らした。
「そうか。得したな」
金だけではない、それをわかったろうか。わかったはずだと女は一人頷いた。そうでなくては、約束をホゴにされた意味が無い。
「ん、それじゃ。チャンプによろしく」
「会わないのか?」
「会うと、親父に色色言われるだろうから。試合カッコよかったって言っといて」
「ああ」
少年は去っていった。それを見計らったようにフードを深くかぶって、とても先ほどまでの迫力ある姿と同一人物とは思えない慎ましい様子で彼が現れる。
女は煙草を灰皿へとねじ込んで振り向く。
「会わないつもりだったっすか」
「ああ、桃の奴に色色言われちゃかなわん」
ふ、女が最後の煙を吐き出しながら笑う。同じような事を言う、そうまで言われたくない桃という男に会ってみたいと女は思った。
「上官殿、最高の試合でした」
「だから俺は――いや、」
途中まで言いかけた言葉を彼は切った。女はウン?と怪訝そうに見やる、グローブを外しただけの、まだテーピングでガチガチに巻かれたままの手のひらが女の
左肩をそっと掴んだ。まっすぐに彼は女を見下ろして、何か言いたげに口を更に結ぶ。
手のひらは熱く湿っている。にわかに女の視線が定まらない。今にも心臓を吐き出しそうな、カエルのような顔をした。
「――――女神の祝福はどうした」
真面目くさった、律儀そうな顔。血潮滾らせた戦いの後の興奮に目尻紅く、ギラリと抜き身の眼差し。
今度こそ女は心臓の代わりに潰れた悲鳴を吐き出した。
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