我君ヲ愛スなどと言うものか
次、北沢君。立ちたまえ。
はい。
今前原君が訳した続きを。
はい。
文中の彼がメアリへ言った、『I LOVE YOU 』君、君ならばこれをどう訳すかね。
ええと、『我君ヲ愛ス』、です。
先生は不満そうに、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「馬鹿者、日本人が我君ヲ愛スなどと言うものか」
「そんなら先生、どう言えばいいのですか」
先生はますます馬鹿にしたように僕を睨んで、
「そんなもの君、――――とでも言っておきたまえ」
ははあ、なるほど。
富樫の手指はゴツゴツとしていて、指も太く、爪の丸い船大工のような手をしていた。
手のひらはまだ冬には程遠いというのにガサガサと荒れており、油気がない。
その手は乱暴に櫻髪を梳いている、確かに枝毛一本無いような、一反の絹織物のようななめらかな髪ではあるが男のものである。
櫻髪の持ち主は老いという言葉を辞書に持たぬ麗人、飛燕のものである。今や医師として日夜人命を救うために奔走しているが、この男がかつては血なまぐさい
争いに身を投じていたとはにわかには信じがたいほどの、清らかな汚れない美貌を持つ男である。
その美貌は今、硬い枕に頭を預けて脚を無造作に投げ出していた。
硬い枕、
富樫の胡坐をかいた太腿がそれである。
「……大分、酔った」
「だな、てめぇにしちゃ大分…ひい、ふ、みぃ、…よ、」
転がった酒瓶を富樫は数えて、目尻に皺を作って小さく笑う。普段こうして床に座して酒を飲むときに、空き瓶を転がしたままにしておくのをこの麗人は嫌うの
を知っているからである。
それほどにまで酔っているのだ。
「……手を止めるな」
「チェッ、命令すんじゃねぇや、こりゃアレだぜ、バ、バレンチノって奴じゃ」
「ボランティアだ」
「………」
「富樫」
「チェッ、」
富樫は面白くないように唇を尖らせたが、それでも言われた通り自分の太腿に乗り上げた麗人の髪の毛を撫でている。
大きな窓からはごろりと月が転がり込んでおり、どこもかけていない満ち満ちたる姿であわく光っていた。
名月である。
富樫の指が自分の髪の毛をするりするりと受けては解いていく、背中がぞくぞくするほど心地が良い。
薄く唇を開いて、飛燕は熱のこもった息をそっとついた。
(おまえは、なんていい男なんだろう)
そっと手を富樫の顔へ差し伸べて触れようとこころみれば、照れたのかぶっきらぼうに軽い力加減で叩き落とされる。
フ、
飛燕の唇が笑みの形を描く。
名月の光は昨日の、青白いまでの輝きではなくほっこりと栗のような黄色みを帯びており、やわらかい。
その色に虎丸が貧乏学生だった時分に、うまそうじゃのうともらしたように。
やわらかいその光に見上げた富樫の横顔は照らされている、飛燕の胸が小さく疼く。
(ああ、富樫)
月見という柄ではないが誘ってよかった、心の底から飛燕は喜んでいた。酒に酔ったと言って膝に頭を乗せても、しょうがねぇの一言で許された事に喜びを感じ
ている。月のせいかもしれない、特別な。
「……富樫、お前の指は気持ちがいい」
「そうかよ、俺ァそろそろ脚が痺れてきたんがな」
普段よりも大げさな動作で飛燕が笑った、硬い太腿の上で飛燕の頭が弾む。
「それは仕方がない、私の頭にはたくさんの物が詰まっているのだもの」
「なんじゃい、俺がカラッポみてぇに言いくさって」
「そうは言っていない」
あはは、ますます飛燕は笑った。身体に染み渡ったアルコールが気分を月まで押し上げようとしている。
「……お前とこうして酒が飲めて、私はとても嬉しい」
「正直に言いやがるな」
ケッ、と富樫が舌打ちをした。面映いのだろう、撫で付けた頭へ手をやった。今もこうして照れ隠しに学帽のつばを引き下げようとする癖は直っていないようで
ある。
「ああ、こんな月夜の晩だから」
「マ、そう…だな。月が綺麗だな」
言ってみて、富樫はシマッタと顔をこわばらせた。今の酔いどれ飛燕ならば、富樫の柄でもないロマンチック発言を笑い飛ばすだろう。
その場限りの笑いならばまだよい、虎丸などに後で伝わったら何を言われるかわからない。
しかし、飛燕は何も言わなかった。それどころか唖然としているようである。
「――オイ?」
「あ、ああ、……うん。富樫、お前がとてもいい男だという事はわかった」
「あン?」
飛燕がそっと身体を丸めた、富樫の膝に頭を乗せたまま、何か手に入れた大事なものを守ろうとするように小さくなる。
「………お前は、夏目漱石を知っているのか?」
「オオ、知ってんぜ、走れメロス」
「………フ、」
「なんじゃい、何笑ってやがる」
「それなら二葉亭四迷は?」
「なんだって酒飲んで気分がいいってのに、国語のおベンキョウみてぇな事しなきゃならねぇんだ」
「フフ、フ、富樫、」
体重を感じさせないふわりとした、翻る裳裾のような軽い動作で飛燕が身を起こす。たじろぐ富樫の顔に猫が伸び上がるようにして顔を近づけ、唇を押し当て
る。
「富樫、死んでもいい」
「………あ?」
「……寝る」
そのまま富樫の首へしなやかに腕を絡め、耳に囁くなり肩口へ顔を埋め、それきり飛燕は沈黙した。
名月が光をほこほこと零し入れる飛燕のマンションで、富樫は一人混乱し続けた。
飛燕も沈黙している、月はもとより。
先生は不満そうに、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「馬鹿者、日本人が我君ヲ愛スなどと言うものか」
「そんなら先生、どう言えばいいのですか」
先生はますます馬鹿にしたように僕を睨んで、
「そんなもの君、『月が綺麗ですね』、とでも言っておきたまえ」
ははあ、なるほど。
さらに先生は付け加えた。
「もっとも、かの二葉亭四迷先生は、『死んでも良い』と訳されたようだが。私の趣味とは違うにせよ、素晴らしく情熱的であることだよ」
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