犬畜生

名前すら思い出せないのだから、我が事ながら自分の情の薄さに辟易する。
ともかくも酷く暑い日で、そうだ、水浴びをすすめられて彼の裸体を見た日だった。
彼の実家の近く、山奥に当たり前のようにあった小さな滝から彼は直に清らな水を浴び、強い髪を乱暴な手付きで梳る姿は身体全体に染み入った。
自分とて貧弱な身体はしていないと自負しているが、彼の裸体があまりに完璧でそう、神神しいまでに完璧だったから服を脱ぐことをためらったのを覚えてい る。
「来ぬのか」
問われて、右手を出されて、ようやく招かれたのが他でもない自分だったと間抜けにも気づいた。
こうして彼に導かれて水を浴び、濃厚に息づく緑だけに囲まれ、文明の留め針を引き抜いた今、今誰も彼もが死に絶えているのならばどんなにか幸せかと強く 思った。






単なる夏休みだ、なんと恥ずかしい思いのたけを綴るのか。
だがもっと恥ずかしいことは続く、清算出来ぬ過去が続く。
親類縁者一族郎党ことごとく死に絶えている、訳ではなく縁を断って(切った訳ではない、自然と疎遠になってそれきりなだけだ)いた俺は夏も天動宮に残る旨 を彼に伝えた。
「影慶貴様それならば――邪鬼の家に来ぬか」
彼の気まぐれだろう、もっとも俺にとっては大いなる福音。一も二もなく頷いた俺の浅ましさを彼は笑いはしなかった。
まったく彼、大豪院邪鬼という男が住むような家が世界が、まさか電車を乗り継いで行けるとは真面目に思っていなかったのだからおかしい。
荷物らしい荷物はいらぬと言われて、手土産を選ぶ間も与えられずに本当に着の身着のままに彼の家へと俺は転がり込んだ。
緊張で靴の紐が中中解けなかった事をよく覚えている。

俺の興味の範囲は彼、彼の生活圏、彼の趣味、彼の主義、彼の趣向、
ともかく彼が関わるところは俺の興味の対象だったから、彼の家のつくりはつぶさに眺め、頭の中にしまわれている。ここでつらつらと挙げる事だってたやすい がそれはいかにも面倒だ、第一勿体無い、ああ俺は何を言っているのだ。
立派な寺院作り、驚くべき事に本当に寺院が家の敷地にあった。彼曰く昔ここで経文を読む真似事をしたとのこと。
彼があの秀でた額から険しく張り出した後頭部を青く剃り、堂堂たるいい声で経文を読んでいる姿は俺にとってとても魅力的だったろう。一度見たいと今でも 思っている。

彼の家族、もっともで迎えが多すぎて誰も彼もが若若と彼を呼ぶから、詳しい親類縁者の種類については覚えて居ない。ただ、彼の母親が病弱だといってわずか な面会しかできなかったことは際立っていた。

そして彼の家で飯を振舞われた、それが立派な精進料理だったことも思い出せる。ああ、だから男塾で肉を遠慮がちにけれど勢いづいて食べる事に繋がるのだろ う。
布団はどこか線香くさい気がした。
彼の暮らした家の空気を肺にたっぷりと満たし、幼い頃からの彼の暮らしぶりをあれこれと思い描きひどく満ち足りた思いでその日は眠った。
そして午前から暑かったあの日、俺は彼に水浴びを誘われたのだった。




水浴びを終えて、俺は俗世へ帰る気の重さに脚を引きずりながら彼と連れ立って山道を歩いていた。用意されていたシャツの背に彼が汗一つかいていないのに見 入っていると、はしゃいでいるとしか表現できぬような犬の喚き声が道の向こうより響いてきたのだった。

「おう、―――か」
彼がその犬の名前を呼んだことは覚えている、だがその犬の名前は思い出せない。大きな、しかし引き締まった黒い利発そうな毛足の短い犬だった。大豪院の家 の犬である、ひよわさは無かった。
「影慶、俺の犬だ」
犬は俺をちらりと見ると、値踏みしたようだった。さすがは大豪院の犬、とでも言おうか。
俺がもしも主人にとって有益でないのならば噛み殺してやろうとするような、そんな気迫を感じた。

彼はその犬を気に入っていたらしく、帰りの道中その犬の事を普段よりも積極的に俺に話して聞かせるので、俺の気持ちは滝つぼへと沈んでいったようだった。







その日俺は酷い夢を見た。
彼の足元に跪いて、彼の戯れに投げた微笑みを這い蹲って拾い、無様に腹を投げ出して彼の気まぐれな愛撫を待って尾を振る。
目覚めた時に昨日の夜よりも何十倍も満ち足りた気分だったのが、酷く俺を落ち込ませた。






見透かされたのかもしれない。敵対心を感じたのかもしれない。
とにかく俺が避ける暇もなく、あの犬が獣本来の俊敏さでもって俺の右腕へ飛び掛って突然歯を突き立てたのだ。
スローモーションに見える事もなく、気がついた時にはあの犬の毛並みが波打って地面へと落ち、鼻を悲しげに苦しげにひんひんと鳴らしながら震えてやがて果 てた。泡がぶくぶくと形の良かった口から吹き出して地面へとたれていく。
俺は血の流れた腕もそのままに、足元で果てた犬の亡骸を前に呆然としていた。
何か考えるよりも早く、俺の足は迅速に彼の家を飛び出していて、肺が潰れようかという勢いで走っていた。
調べるまでも無く、彼が一目見さえすれば俺の毒のせいだとわかる。それは心底嫌だった、彼の愛犬を俺が殺したと彼が理解しなければならないのが嫌だった。
(避けようが無かった)
あの時俺はひたすらこう胸のうちで繰り返して、めくらめっぽうに走りぬけた。木木がぶつかろうが歩みを止めることはできなかった。
(事故だ)
何度も繰り返しても俺の中の俺が、
(故意だ)
と打ち消してくる。避けられたではないかと、それどころか、
(挑発して、右腕を差し出したんだろう)
とまで言い出す。濃緑が俺を取り囲んで騒ぎ立てて、森から山から出さぬようにしていたのだと本気で思った。
「違う」
俺はとうとう口に出して、違う違うと喚いた。人にとても見せられる格好では無かった。

邪鬼様の、彼の手を笑みを何の苦労もせずに甘受していたあの犬が憎かった。それが打ち消す事かなわぬ事実であることはわかっている。
あれが嫉妬だと思うだけで羞恥で死にそうになる、俺は彼の愛玩動物になりたいのか。
愛玩されたいのか、答えはほぼイエスだ。視線でも指先でもいいから欲しい、これを成り下がったとは思っていない。

(故意だ)
違う、
(恋だ)
そうだ、
俺は畜生なのか、そうなんだろう。




俺自身がどうやって歩いたのかもわからないのに、彼は俺を見つけ出した。驚くべき事だ、彼は俺を見つけるなり腕を取り抱きしめてくれた。
夢だ、もしかしたら夢かもしれない。あまりに全てが曖昧で、あたり一面群青に更けて、月だけが真っ白に森を透かして光を落としていた。
「影慶」
名前を呼ばれただけで死にたくなる、俺は何もいえない。詫びを口にすることすら許されないと思った、彼の断罪を待つしかなかった。
だがそんな状態にあっても、俺は彼自身の手で断罪される事を望んでいた、呆れた浅ましさだ。
「……邪鬼の犬を殺したのは、貴様か」
問われた瞬間には心の底から冷え切った、この問いに涙を零せることが出来るような立場を許されていない。
「はい、邪鬼様」
「………そうか」
邪鬼様が胸を傷めたのがわかった、彼の目から全身から漂う気配は悲しみだった。俺は先日、あの犬が彼の父親から授かったものだと聞いていたから尚更だとわ かった。

「貴様は俺のものであったな」
「はい」

これより貴様の事など知らぬ、どこへなりとも消えて失せろ――そう言われたらそれ即ち死だと、俺は心臓までもとめたようにして続く言葉を待った。
「ならばこれ以上、何も奪うな」
「…………」

「この上貴様までも奪うつもりか、影慶」
「邪鬼様」
「覚えておけ、この俺のものであるのならば―――貴様は命体全てにおいて何も損なってはならぬ。貴様の傷は俺の、この邪鬼の傷と思え」
「………」


それだけだ。彼はそう言って俺を突き放して背を向ける。
象牙よりも黄色みが強く、光は湿気に遮られて弱い月光が注いだ彼の背中はしっとりと濡れて、汗をかいているのがわかった。



俺は声も無く彼の後姿を追いながら、無様に泣いた。涙は一筋も零さなかった。
彼は俺が後悔して泣いたと思っているだろうか。そうならばいい、それがいい。どうかそのままで。


俺はそこまで上等に出来てはいない。彼のように蓮の花を握って生まれたような、そんな立派な人間じゃない。
彼の大事な犬を殺した俺を、それでも自分のものと断じた彼が嬉しくて泣いたなどと、決して言うわけにはいかない。
だってあの犬の名前すら思い出せないのだ。
そのうえあの夜の山道、家へと戻る道すがら、汗の匂う彼の背中に欲情すらしていた。
俺の浅ましい恋慕に嫉妬がいつか主人の害悪となりそうだと判断したあの犬は誠の忠犬だろう。

畜生。
俺こそが犬畜生だ。
モクジ
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