二人なら雨の日でも傘がいらない

私から見ても、お前は悪くない。
少し不細工だけど、悪くないんだ。
なのにどうしてお前が悪いか考えたんだ、聞け。
聞け、こちらを向け。
こら、あくびをするな。私を見ろ、富樫。
「お前にはロマンが足りない」
………言った側から鼻をほじるな。



薄暗くなったので空を見上げれば、雨が近いようであった。
もくもくと湧き上がった夏の雲がいつの間にか消えて、表面が細かく毛羽立って薄手に広がる秋雲が広がっている。
八月も終わり、まだ夏だと思っていたら空ははやばやと秋の準備を始めている。最高気温が今日も三十四度だとしてももう秋に足を突っ込んでいるのだ。
その秋雲がたちまち黒く沈んで、犬のような雷が遠くに唸っている。

飛燕は傘を持っていない。あまり来た事の無いような街だったので、今時珍しい純喫茶と呼ばれる類の喫茶店に逃げ込んだ。
案内された窓際の席に腰を下ろすと同時に雨粒が窓を叩き始め、たちまち窓の表面をつるつると流れ滑り落ちる大雨となった。
偶然避難場所に選んだにすぎないが、深い臙脂を基調とする落ち着いた内装は飛燕の好みにあった。テーブルにかけられた白いクロスに置かれたメニューは手書 きで、飛燕はホットコーヒーを頼んだ。
外の景色は雨粒の流れにぼかされ、飛燕はやがて運ばれてきたコーヒーを口に運ぶ。店に客は飛燕一人きり、雨の流れ落ちるガラス越しの外に人影は少ない。
静謐の店内、先ほどコーヒーを運んできた人物も飛燕の視界には入らない。腰を落ち着ける事で生じた安堵からか、自然と意識がとりとめもなく遊び始める。
(天気予報を見ていなかった馬鹿は、私だけだったようですね)
(これでは、あれの事をそう馬鹿馬鹿と言うわけにもいきませんか)
(……あれ?あれ、とは)
自分で考えを遊ばせておいて飛燕は首を傾げた、普段仕事中まとめる事の多い櫻髪がはらりと肩へ落ちる。
考えておいて、すぐに、
(ああ、あの時だ)
即座に思い出す、大事にしまいこんでいた記憶は画像となり動画となってまどろむ飛燕の瞼へと流れていく。
カラーではなくモノクロで、しかし全ては鮮明に。


金も無い学生が二人歩くと言ったら、本当に歩くだけ。
その出歩きはいつもよりも遠出であった、だがその遠出の目的は今となっては思い出せない。よくあることである。
飛燕はともあれ富樫とつれだって遠方へ赴き、その帰り大雨に降られたのだった。
雨の中富樫は薄情にもというからしいというか、前だけを見てまっしぐらに走っている。
酷い雨で、男塾へ戻るにはこの豪雨の中あと三十分ばかりは走らなければならないだろう。富樫がそのあたりを考えているとは飛燕には思えない、
「富樫、どこかで休むぞ!」
豪雨の中声を張り上げて飛燕が後ろから叫ぶと、富樫はオウと吠えて、それでも振り向かなかった。
内心酷く腹が立ったが、それでも富樫が見つけた神社の軒先へ転がり込む。
雨が降り出してからここへ二人が逃げ込むまでものの二分かそこら、だというのに二人ともしっかり濡れていた。
富樫は懐から学帽を取り出している、飛燕はわずかに怒りを鎮めて驚いた。
(私は濡れてもよくて、学帽は濡れないように気づかっていたと……ふうん)
驚いてそして、少しまた腹を立てた。腹を立てがてらに賽銭箱の隣の石段へ腰を下ろす。
雨足は強く、夏の雨特有のあの生臭いようなにおいがあたりへ漂ってい、そして激しい雨音に全ての音がかき消されていた。
富樫は賽銭箱に不届きにも腰をちょんがけし、走ってきた参道とその先をぼんやりと眺めている。飛燕はそんな富樫の横顔を眺めている、
どうこの気持ちを表してやろうかと思っていた。大人だと認識される事の多い飛燕だが、こと富樫に対しては子供じみた感情を抱きやすい。
「私を置いて行ったな」
飛燕が切り込んだ。富樫はまず隣から発せられた声に驚いたように息を漏らし、そして軽く首を巡らせて飛燕へ視線をたどり着かせた。
その仕草がいかにも今の今まで飛燕の事を忘れていたように見えて、更なる怒りの火を燃やす。
「お前が誘ったくせに」
そうだ、もともとこの外出は富樫発案であった事を飛燕は思い出す。
「私を、置いて走ったな。振り返りもせずに」
「わ、悪かったな。だがよ飛燕、オメェもちゃっちゃと走らんかい」
「なに?」
「ヘッ、お手手繋いで欲しかったってか」
「ああ」
「ああ!?」

羽ばたくような瞬きと同時に飛燕は立ち上がる。富樫は自然と腰掛けたままファイティングポーズを取った。
「フッ、何を身構えている」
「べ、別に身構えた訳じゃねぇや」
「そうか」

飛燕は富樫のすぐ横、つまり賽銭箱に腰を下ろした。普段の優雅さをかなぐり捨てた、脚を開いて深く腰掛ける男らしい仕草でである。
富樫もまさか飛燕が賽銭箱に腰を下ろすとは思っておらず、尻をじりじりと動かして飛燕のために場所を作った。
やけに飛燕の横顔が決然としている、その凛とした眼差しと鼻筋を富樫は素直に綺麗だと思う。
煙草でもふかしそうな大胆さに富樫は一瞬の戸惑いの後、こみ上げる笑いを雨の瀑布の隙間に響かせた。

「おかしいか?」
「ああ、テメェはまったく訳がわからねぇ」
「ふふ、お前がわかりやすすぎるんだ」

言ってろォ、富樫が目尻へ皺をこさえて吐き捨てた。笑いと親愛の滲む調子だった。飛燕は触れ合った肩に満ち足りる。
飛燕はこの学帽男が、わかりやすいが図りやすい男ではないと知っていた。

「止まないな」
再び視線をやった飛燕の横顔はあの男塾にいるのが信じられない程小さく、そして整っている。
しかしその実、飛燕は瞬き一つの間に屈強な男を数人地にひれ伏させる事が出来るのを富樫は知っていた。
「ああ、止まねぇなぁ…ああちっくしょう飯の時間に間に合わねぇじゃねぇか」
「お前はいつもそれだな。飯飯と」
「たりめぇじゃ、こちとら育ち盛りよ」
「ふふん」

雨が織り成す瀑布によって外界とは完全に遮断されたようで、不思議と静かであった。
社森の緑に参道の濡黒に地面の茶が輪郭を失うほどの雨勢に、二人は感心すらしている。

「静かだ」
「ああ」
「こう静かだと…富樫、少し大胆になってみないか」
「…………正気か」
「もとより。お前が側にいるのだ」
「ケッ、てめぇの言い方はむず痒くっていっけねぇや」
アーアア、
言いながら富樫は学帽のひさしを下げた。横顔が赤い。

「くすぐったいか」
「お上品で、ケツが痒くなるぜ」
「好きだとも」
「あー………てめぇ俺の聞いてたか」
「もちろん。お前が手を繋いでくれなくて切なかったな」

アーアア、
止む気配の無い雨を富樫は恨む。
富樫は尻を軽く上げ、拳一つ分飛燕から離れた。当然のように飛燕は追ってくる。追ってくるだけではなく、肩までもたれかからせる。
一度肘鉄を食らわせたが、その代わり耳へしっとりとした吐息を吹き込まれて富樫の抵抗はむなしく終わった。




雨は勢いを落とさず、天の底を抜くように降り続いている。



唐突に富樫が立ち上がる。
「こうしててもしょうがあんめぇ、行くぞ」
「……ああ、もう濡れるしかないな」
夕暮れも後半戦、二人のあきらめのきっかけは参道に設置されていた街灯がピンと明るくなった事である。
学ラン、中に着たシャツはこの雨宿りで半ば乾いていたために立ち上がりはしたものの飛燕は気が重い。富樫は何気なくそれを見ていたが、
「わぶ」
突然飛燕へ自分の臭い学ランを投げつけた。投げつけた富樫はサラシにボンタンのみになり、気休め程度ボンタンの裾を乱暴に捲り上げる。
「と、富樫?」
「被ってろや」
「は」
「そうすりゃ濡れねぇだろ」
「富樫」


いきなり富樫はゲスそのもの、下心アリアリと言った顔になった。
「どうじゃ飛燕、惚れたろが。ヘッヘヘこないだテレビでやってたんだがよ、案外効果ありそうじゃねぇか」
「馬鹿」
馬鹿、馬鹿、馬鹿め。飛燕は酷く顔をしかめた。一度浮き上がった分反動はすさまじい。
このまま泥水へこの学ラン捨てたろか、そんな荒みを視線に乗せて睨む飛燕に、富樫はアッと短く声を上げた。
「おい、飛燕」

ぬっと富樫の手が伸びて、自分が被せた学ランを軽く持ち上げる。飛燕の視線が軽く上向き加減、そこへ、
もう一方の手が飛燕の頭を撫でるように頭上へ閃いた。思わず飛燕が首をすくめると、硬い感触が頭へ降りてそして再び学ランの重みが加わった。
「………?」
恐る恐る飛燕が頭上に手をやってみる、まさかガムでもなすりつけられたとは思わないが。
果たして白い指先に触れたのは、富樫が肌身離さず持っている学帽である。

「……富樫、これ」
「オウ、持ってろや。いいか、間違っても落とすんじゃあねぇぞ」


風呂でもなんでもない時に、学帽無しの富樫を見たのは飛燕にとってこれが初めてであった。
そして何もいえないでいる飛燕に背を向けると、富樫は豪雨の中へと脚を踏み出す。

「手なんか繋いでやらんからな。…ヘッ、どうしてもってんなら追っかけてきてから言いな」


身を躍らせるようにして、富樫は雨の中へと駆け出していく。飛燕は不意を突かれた格好になるが、
「鳥人拳の飛燕にスピード勝負を挑んだ事…後悔するがいい」
不敵な笑みを浮かべ、富樫の学ランをしっかりと握りその身に被ったまま飛び出していった。







「………失礼。携帯電話を使ってもいいでしょうか」
店主は快く応じ、もし電波が入らぬようなら店の電話をとまで言ってくれた。
飛燕は頭を軽く下げると携帯電話を取り出し、耳に当てる。
外はいまだ豪雨、今一人塾帰りらしい少年達が鞄を頭にあてがい走りすぎていった。

「ああ、富樫。私だ……ふふ、凄い雨だろう。困ったことに傘を持っていないんだ。迎えに来てくれ、なに車でなくてもいい。お前が傘を一本持ってきてくれれ ば。………待っている、店の住所は―――」

年配の店主が白いまゆ毛を軽く持ち上げていたのを見て、飛燕はいたずらっぽくウインクをしてみせる。
そうして、もう一杯コーヒーを注文すると飛燕は満足そうに微笑んだ。
モクジ
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