王様の崩壊
眼差しを曇らせ、縋る藁を掴み上げたのは他でもない自分だ。
雷電の胸にはいまや後悔が枝をめきめきと広げ、葉を繁らせる。
やがては光を断つほどの暗がりを作るのだ。
はき気がのどのギリギリまで来ていて、泣くしかない。
もともと男の子と遊ぶ方が好きだったし、女の子のあのトイレまでつらなっていくようなのが好きじゃなかったから。
だから男の子だったら良かったな、と思ったし、そうしたほうが遊ぶときに手かげんがなくてよかった。
だから、
「ぼく」
とためしに言ってみた。そうするといままでどうして「わたし」なんて言っていたのかおかしくなるぐらい、「ぼく」はよかった。
女の子は笑った、男の子も笑った。けれどそのうちクラスのだれもが気にしなくなったから気がらくだった。
友だちはそれでよかったけれど、問題は大人。
だれもがぼくにやいのやいのと言うものだから、すっかりめんどうになってしまう。
変わり者ぞろいの丘の上ですら、骨にしかきょうみのない姉さんですら、
「どうしておまえ、ぼくって言うの」
と聞いてくる。
やだなあ、いつもぼくのことなんかかまやしないで皆すきかってやっているのに。
おじいさまぐらいだったかな、ぼくがぼくって言うのをにこにこしてたのは。まあ、いつでもにこにこしてるんだけれど。
そしてある日、先生とであった。
すばらしく頭がよくって、とてもすてきで、すてきで、かっこうがよくって、大好きな先生。
世界のなにもかもを知っているようで、これからもそうなろうとしていく先生。
たまにおかしなじょうだんを言って笑わせてくれる先生。
とてもまじめなのにぜんぜんかたっくるしくない先生。
大好きな先生。
ぼくはいつまでもこのままでいられると思ってた。
冬になるもうほんの少し前のことだった。小学校五年生の秋。
ある日、女子だけが呼ばれた。四時間目だったと思う。その後の給食を食べられなかったのを覚えてるから。
ぼくはしかたないな、いやだなと思いながらも女子の最後の列に並んでついていく。
しちょうかく室へ行くのだと聞いた。
「何か見るの」
だれかが聞いた。先生は三組の先生と五組の先生と、それから六組の先生。
全員が女で、ぼくのクラスの担任の田山先生は居なかった。
「はーい、みなさん体育座りしてくださーい」
言われるがままぼくらは並んで座る、しちょうかく室の黒いカーテンは好きだ。
プラネタリウムみたいで、いっしゅんにして夜だ。雷電先生といっしょに冬の空を見に行ったこともある。
先生は目もいいようで、ぼくが知らない星をいくつも数えて、それからその星にまつわるお話をいくつも話してくださった。
ぼくは夜明けまでそうしていたかったけれど、十一時と同じくに、
「帰らなくてはいけないでござる」
まじめにいわれてしまった。ちぇっ。
と、しちょうかく室に入ってきたのは保健室の村上先生だった。ぼくはあまりお世話になっていない。
白衣の村上先生がスクリーンの前にくると、マイクのスイッチを入れる。このピーンという音がぼくは大嫌いだから、あらかじめ耳をふさぐことにしている。
そうすると耳の中で心ぞうがトクトク聞こえる、カサカサと鳴っているのは耳アカじゃなくて耳の毛なんだって雷電先生が教えてくれた。
雷電先生の耳そうじ、してさしあげたいな。
そんなことを考えていたぼくは、村上先生が口をパクパクさせて何か言っているのも気にせずに居た。
ようやく耳から手をはなすと、すべての音が大きいような気がする。ボーンとしている。
「あなたたち女の子の体は、赤ちゃんを産むための準備が始まります――そこで、今日はそのビデオを見ます」
――――やめろ。
帰り道もふらふらとしていて、まるで歩いた感じがしなかった。
ぼくがしっかりしているのはぼくの長く伸びた影と、それからホホとヒザとヒジとの痛みだけ。
チクンチクン痛むから、ぼくはぼくらしくあって帰り道の坂道をのぼる。
先生に会いたくないと思ったのは、初めてだった。
今までだってケンカでボロボロの顔を見られた事だって有る、けれど今日は嫌だった。
なんでか先生に会いたくなかった。
『今日お前ら何してたんだ?』
『……別に』
『俺知ってる、生理のビデオだって』
『………』
『へえー、女ってそうなんだ』
『血がドバドバ出るんだってさ』
『こえー』
気づいたらなぐりかかってた。相手の顔を何度もなぐった。相手がなぐりかえしてくれればいいと思った。
去年まで取っ組み合いのけんかをしてたじゃないか、ぼくになぐられたんだ、なぐれよ、そう思ったのに。
そいつは結局最後まで、ぼくをなぐらなかった。
ぼくは手かげんをされたのだ。
先生には、会いたくなかった。
丘の上の彼らの家は増築に次ぐ増築で異様な外観をしている。
けれど拙者にとってはそれも興味の対象で、前に館長殿に招かれて屋敷を案内してもらった時は本当に面白く拝見した。
館長殿は拙者を賓客として父上や母上姉上兄上、その他親族達に紹介をしてくれて、またいつでも来てよいと言ってくれた。
小学生ながら知識欲旺盛で、館長殿は嫌がるかもしれないが、拙者の幼い頃に似ている。
もちろん外見ではなく、内面が。
少しばかり変わったところ、例えば拙者を嫁に欲しいと言い出したりするなどがあるが、それも可愛らしいもの。
変わり者揃いの丘の上、その面目躍如といったところだ。
館長殿が好きだと言っていた冬の星座の本が拙者の蔵書の中から見つかったので、今度持ってくると約束を交わしたが今日だ。
いつもなら拙者を図書館の前で待っていてくれるのだが、今日は拙者が待つ番となった。かまわない、いつも待たせてしまうのだから。
あまり間っていないと館長殿はいつも言うのだが、頬がつめたく青ざめていたり、日差しで真っ赤になっていたりするのだから随分と待たせていたのだろう。
夕暮れが早まった季節。館長殿が望むなら、今度月見でもどうだろうか。
そう思っていたら、坂をのぼってくる館長殿が見えた。あの小さくてはしこい姿に動作、間違いござらぬ。
「館長殿、」
声をかけると館長殿は酷くうろたえた様子で顔を上げる。その顔は泣き腫らしていた。何か耐え難いような苦しみにか、唇を噛締めている。
「いかがなされたか、どこか怪我でもしているのでござるか」
「……い、いいえ、ちがいます。どこも悪くはありません」
「ならば、」
拙者の言葉を遮るようにして、館長殿は胸元から下げていた図書館のカギを引っ張り出す。
拙者の方を一度も見ないまま、カギを館長殿は開けた。ドアを細く開ける。
つい、他意もなく発した言葉だった。
「女子がそのように、泣き腫らした顔をしてはいけないでござるよ」
涙の塩分が肌に悪いから、そんなつもりで言った言葉だった。
夕日に赤く照らされた顔は、血の色をしていた。毒毒しい血の色で、夕日の端から迫ってくる紫が彩りを与えている。
館長殿は大きく肩を震わせ、きりきりと唇を噛締めた。涙で赤くなっていた目を大きく見開いて、
ぶるぶると震えながら、夕日のなかでなお青ざめていると分かる顔で、
「せんせいまで、ぼくを女の子だと、そう言うのですか」
酷く傷ついたような、裏切りに打ちひしがれたような、そんな顔をして、
「ぼくはぼくのままでありたいのです、先生」
叫んだわけでもないのに鋭い切っ先を持つ声を上げた。
そうして、館長殿は拙者の前から、図書館のカギだけを残して姿を消したのだった。
後で館長殿の祖父に話を聞いたところ、
「今は会えぬと言っています。図書館は自由に使ってくださいといっており、そのうちにまた、とも」
にこやかにそう言われてしまった。
館長殿の言うそのうちがわからなかったので、それからは頻繁に図書館に行く事になった。読みたい本もたくさんあって、それは苦にはなりえない。
しかし、
「ねえ、先生」
あの声の聞こえない図書館はなんとも寒寒しく思えるのであった。冬の図書館は冷え込む、石油ストーブを館長殿は使っていたが、借りうけた身で火気を使うの
ははばかられる。
以前何度か馳走になった、あの不思議な金色のネロネロが恋しい。
夜中のうちに館長殿が出入りしているらしく、時時位置を変える本だけが拙者を慰める。
そのうちに、桜の季節が来るだろう。
今日も拙者は、丘の上に。
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