白露の夜

子供が一人痛みに耐えかねた顔をして、桃を見ていた。
桃を睨んで、歯を食いしばっている。
頬が青く膨れて、唇はビッと切れ、血が赤黒い塊を作っていた。
少年といっていい年の、薄汚れた痩せた子供。汚れた袖のないシャツからは傷だらけの腕が伸びていた。
子供は雨の庭に立ち尽くし、桃を睨んでいた。



縁側に寝そべっていた桃は身体を起こし、子供を手招いた。
細細と雨が降っているのに雲の一部、ちょうど月にかかったあたりは薄く、ひかりがこぼれおちてきていた。
白にわずかばかりの青を混ぜ込んだような弱いひかりの中で、子供は桃の招きに応じない。
産毛が逆立っているのがわかるほど目に見えて警戒している。

「………」
桃は一瞬悲しそうな顔でまぶたをはばたかせ、それから何も持っていないと寝巻きの腕を開いてみせる。
子供は右足を一歩引いた、左足がきき足のようで、いつでも飛び出せる様子。
(猫に似てるな)
子供に気づいた時に目を覚ましたのか、目を覚ましたから子供に気づいたのか。
猫に似た子供を辛抱強く手招いた。

「寒いだろう」
「………」
「雨が降っている、風邪をひくぜ」
「…………」
「なあ、俺の声が聞こえるだろう。言葉が分かるか」
「…………」

子供は答えない。
桃は声を荒げたり、気忙しく舌打ちをするようなことはなかった。
たいした胆力を、桃は持っていて、またその胆力を試すほどこの子供が気に掛かる。


少年が一歩、桃へと踏み出した。庭は手入れがされているとはいえ、草が繁っている。雨に濡れた草に粗末なズボンを膝まで濡らしながら、一歩踏み出す。
二歩、三歩、
弾みがついたように少年が軽く地を蹴った、昨今の自分が獣の一種であることをすっかり忘れた子供とはくらぶべくもない、かるがるとしたものだった。
一足飛びに距離を詰めて、縁側から下駄石に降り立って腕をゆるりとくつろげて待っていた桃へ飛びついた。
迷子の父親に子供が向かっていくような勢いだった、
どすん、
桃の胸に子供の体が飛び込んできたのと同時に、桃は力強いその腕で受け止めて抱き返す。
足は一分も乱れなかった、衝撃を全て受け流す。

自分の腕に飛び込んできた子供の顔を桃はあの悲しみのある眼差しを伏せて、見下ろした。
子供は笑っている。あっけらかんとした子供特有のものではなく、歪められた獣のそれ。

ニタリと子供は笑っていた、目を血走らせ、青く薄い歯をむき出しにして笑っていた。
桃の膝がかすかに震える、子供はますます笑みを深めた。
ゆっくりと桃の体重が子供へとかぶさっていく、子供は用は済んだとばかり、桃にまるで関心もなさそうに離れようとその胸をもう一度突いた。




手にした刃物で、もう一度強く。




「お前には出来ない」
しっかりとした、しかし深い悲しみに満ちた声が子供の耳に囁かれた。子供の驚愕に満ちた眼差しが、たった今自分が刺し殺したはずの男へと向けられる。
血に塗れているはずの手へと視線を走らせても、痩せた手はきれいなままだった。
どころか、何も持ってはいなかった。
肌身離さず使っている小刀。死体の太腿から折れて突き出た骨を更に尖らせて、自分が作ったもの。
子供が持っている数少ないもの、しかしこれももともとは人の骸だった。
なにもかもを奪う事で手に入れていた子供は、今誰かの手の内にある。
もがいた、離せと叫ぼうとして声が出なかった。声を出す必要のある暮らしをしていなかった。

殺したはずなのに殺せず、それどころか今自分を強く拘束している男。
男は子供が久しく忘れていた他人の笑顔を注ぐ。それは慈愛のあかりで煌煌と照る、やわらかな光をともなっていた。
月に勝り、太陽より優しい。
その笑顔に子供は今の今まで抱いていた、抱き続けていた殺意が雪消ていくのを感じる。
それは恐ろしい事で、子供は今更のようにもがいた。

「お前には出来ない。今は…しなければならない理由があるだろう。だがな、いつか――」
抱きしめてくる大人の男の身体は熱く、雨に打たれた子供の身体を溶かすほどの熱を持っている。
その熱に子供は恐れを抱く、温かさなど知らない。
知っているのは火ぶくれを起こす熱射、凍傷を起こす雪。
そして憎悪。


子供は逃れようと身を仰け反らせたが、
桃、
剣桃太郎。
剣桃太郎は強くその身体を抱いて、
「いつかはお前が辛い思いをしないように」
祈りと共に、自らの熱を全て分け与えんと、強く強く子供を抱いた。
子供は戸惑いにくすんだ色をした瞳を揺らしていたが、おずおずと桃の背中に腕を回す。

ああ、
桃が幸せそうに、満ち足りた吐息を漏らす。
子供は冷え切った身体に熱と、過分にすぎる慈愛をもらった。









「縁側で寝るんじゃねぇよ。俺が狭量だと思われるだろうが」
伊達の足が桃のわき腹を蹴った。
「ん…蹴り出したのはお前だろう?」
寝ぼけ眼をこすりながらも、桃の舌はすぐさま伊達へと言葉をつむぎ上げる。伊達はそれを忌忌しげに見下ろして腕組みをした。寝巻きの腕組みの伊達臣人、子 供が泣き出す要素と組員が感涙する要素がおおいに交じり合っている。

「てめぇがベタベタと鬱陶しいからだ」
「お前が淡白すぎるのさ。俺はああまで割り切れねぇ」
グッ、伊達が言葉に詰まった。桃がゆったりと微笑む。
板床に寝転がっていたせいで、背中が痛んだ。
桃は顔を小さく顰めて胡坐をかくと、自分を小突いた伊達の足をそっと掴んだ。伊達はバランスを崩すような男ではない、いきなりしげしげと自分の脚を見つめ る変人をやんわりとした軽蔑の眼差しで見下ろした。

「いつかはお前が、辛い思いをしないように」

「あ?寝ぼけてんのか?」
いきなり自分の脚に祈りを捧げた男に、伊達はいよいよあきれ果てる。
寝入りには降っていた雨が開けて、月が白白。
伊達屋敷自慢の庭に降りた雨露がことごとく光をあわくうけて美しい。


「寝ぼけてやしないさ。ただ、一晩寒さに困らねぇようにあったまればいいと思ったんだ」






今度は俺が冷えた、頼むぜ、伊達。
寝覚めのためか青白い桃の顔に圧されてか、それとも何か並並ならぬ昔受けた恩義があったような、
伊達は言われたがままに桃を自分の寝室に入れてやった。

モクジ
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