ユビキリ
その線はとても細くて、跨ごうと思えば簡単に跨げる。
しかし一度跨いでしまったら、戻るのは至難のわざである。
線と言っても、その線の向こうは遥か谷底にも等しい。
その線を越えたとたんに、彼は墜ちているのである。
踏み越えるな、
決して越えるな、
しかし彼岸は、向こう側はなんと魅力的に見えるのだろうか。
踏み越えた人間達は皆笑顔で、おいでおいでをしているし、
遥か向こうに広がって見える景色はなんと美しい事だろうか。
彼岸の彼らは、なんとかして仲間へと引きずり込もうと躍起になっている。
それは踏み越えたと同時にわかる、
さっきまで見せられていた美しい景色が、虚像だったと。
男塾にも一応新聞は届く、大体は早朝トレーニングに出ていたJが配達員から受け取り、食堂のテーブルの一番端に置いておくことになっていた。
その新聞を読めるのは朝のほんの一時だけ、それを過ぎれば後はテレビ欄ラジオ欄を残して食器を拭いたり、窓ガラスを拭くのに使われたり、下手をすれば尻を
拭くのに使われたりしてしまうからである。
数多い一号生にとって一部の新聞では到底足りぬと思うのが常識であるが、ここ男塾において新聞を読むのはほんの一握り。
桃や、飛燕や月光、雷電を筆頭とするインテリの彼らだけである。
田沢も読まない事は無いが、
「事件を文字におこしているっちゅう時点で、それは100パーセントの事実じゃないぜ」
などとやけに小難しい事を言ってあまり手にする事は無い。そう言っておきながら、テレビが一番好きなのも彼である。テレビはありのまま映すからだと言う
が、どうも漢字があまり読めぬからではないかというもっぱらの噂であった。
さて、ここにもう一人新聞を気まぐれに読む男がいる。
関東豪学連元総長、伊達臣人である。
槍や体術に秀でているだけでなく、勉学にも明るい彼は勿論恐ろしく難しい漢字まで読む事ができ、新聞など食後の軽い読み物程度にしかならないだろう。
そろそろ入梅だろうかと言う頃である。
六月にしては明るく晴れたある朝、桃も雷電も読み終えたらしい新聞はくったりとやわらかく食堂のテーブルにあった。
伊達はなんの気なしにそれを取って、一面からぼんやりと眺めている。
昨日は大変に寝苦しかったため、伊達の顔には薄紫の目隈が薄く現れている。
昨日は朝から大雨が降ったかと思えば、その後カンカンと真夏のように晴れて、夜中までむんむんと蒸し暑かった。伊達、もともと眠りが深いほうではない、過
去の●●●から少しの事でも起きてしまう。しかし暑いだの寒いだの蒸れるだの文句を言って、それで眠れない男ではない。
原因は同部屋の男にあった。
「おう伊達ェ、いっつまでムクれとんじゃい」
弱り声で伊達の背中に取り付いた男のせいである。伊達は肩を揉む様に両手を置いたその汚らしい髭面へじろり横目をくれて、
「………怒ってやしねぇよ」
どう聞いても上機嫌には聞こえない、冷え切った声を同室の髭面、虎丸へかけた。
「悪かったって、言ってんじゃろ。だぁから今日のメザシやるよって言ったじゃねぇか」
「いらん」
虎丸という男が誰かに食い物をやる、それは最大限の謝罪であり感謝であったが、あいにく伊達臣人、食べ物で動く男ではない。虎丸は精一杯の謝罪も受け付け
ない伊達に、理不尽にも腹を立てた。
わしが、こんなに言ってんのに!と。
「あんじゃい、わしが一晩暑い暑いってうるさかったせいで、眠れなかったんじゃろが!」
「うるさかったで、済む可愛げがあったかな」
伊達の口調がことさら意地の悪いものになる。
確かに昨晩虎丸、暑い暑いとたいへんにやかましかった。
そのためそんなに暑いならと、伊達が起き上がって上掛けを剥いでやったのに対して、
『ぃやん、えっちぃ』
などと虎丸はやけに可愛い声でぐねぐねとフンドシ姿で身を捩ったのであった。
それから伊達が眠ろうとする度に何を勘違いしたのだか虎丸がごろごろとくっついてきて、体を伊達へぴったり寄せようとするものだからますます伊達は辟易し
て、とうとう虎丸を簀巻きにせざるを得なくなったのである。
簀巻きにして終わるかと思えば、
『暑い…あ…つ…い…』
振り出しに戻るのだった。
「もういい、何か用か」
いつまでも背中にへばりついた虎丸を肘鉄でもってドズンと振り払った、虎丸は体をくの字に折って呻く。
「オフッ!……いってぇ、…テレビ欄…」
伊達は談話室へと顎をしゃくって見せた。
「もう松尾がそこだけ破いて持って行ったぜ」
「そ、そっか…」
「ああ、とっとと失せ…」
とっとと失せろ、と言いかけた伊達の視線はとある記事へと留まった。
『ユビキリ 現る 今月に入って既に八件』
企業や政治屋などの著名人の訃報全六件全てと同じ程度の小さな記事である。本文よりも一段階太いだけの大して目立たぬ見出しの太字が妙に伊達の視線を繋ぎ
留めている。
「お?まーたユビキリかぁ…怖いのう」
メゲずに伊達の背後から覗き込んだ虎丸が呟いた。
「ユビキリ?」
「おう知らんのか、テレビなんぞじゃ結構やっとるんじゃけどな」
夜道に誰かがついてくる。
こちらが止まれば向こうも止まる、
一歩歩けば二歩追って、
三歩走れば四歩駆けて、
十でとうとう、
『小指、ちょうだい』
「小指ちょうだいって、そう言って来るんじゃと。まぁ逃げて無事な奴のが多いそうだけど」
ウウッ、虎丸が身震いした。でかい図体に見合った肝は持っているのだが、いかんせん生身でないものには臆病なところのある男である。
「小指、」
伊達が繰り返すとおお、と虎丸が大きく頷く。
「そんでな、いきなりそう言うと左手の小指をもぎ取ってくって言うんじゃから、おっとろしいのう」
「…左手の小指」
伊達がおかしなところを繰り返したものだから、虎丸が怪訝そうに顔を背後から覗き込む。伊達の横顔は何時も通りに格好よかったが、どこか影がちらついてい
る。
「あんじゃい、何か…」
「いや、気色の悪い野郎だと思っただけだ」
左手の小指。
「池袋でばっかり起こってるってンだ、伊達ェ、おめぇ用なんかねぇだろうけど近づくなよ」
「阿呆、俺がやすやすと指を持って行かせると思うのか」
「それもそーか、んじゃな」
「ふん…骨喰いみたいな野郎だ」
「エ、伊達なんか言ったか?」
伊達の目が、その記事の最後の一文から離れない。
『悪質な悪戯として捜査を継続している。なお同豊島区で連続して起こっている、二件の失踪事件との関連についても捜査中である。』
夜道に誰かがついてくる。
こちらが止まれば向こうも止まる、
一歩歩けば二歩追って、
三歩走れば四歩駆けて、
十でとうとう、
『小指、ちょうだい』
答えないでいる、
『薬指、ちょうだい』
答えられないでいる、
『中指、ちょうだい』
声が出ない、
『人差し指、ちょうだい』
喉がひきつって、何も言えない、
『親指、ちょうだい』
影が迫ってくる、
影が迫ってくる、
影が迫ってくる、
『……けち、』
も う い い よ 。
寝汗をかいて伊達は目覚めた。六月の月は寝ぼけたように黄色く、かすんでいる。
薄っぺらな煎餅布団のせいで、背中が痛い。
いや、いくら薄っぺらとはいってもここまでごつごつとしていただろうか、伊達ははたとした。
目を凝らす、手を伸ばす。一番先に触れたのは槍である、愛器である。愛器はぬっくりと人肌である、おや、と思った。
最近は虎丸のおかげで、槍を手放して眠れるようになったのじゃあなかったか、今触れた槍はぬっくりと人肌である。
布団の中に引き込んでいたか、
いや、
布団はあったか、自分は布団の中で眠っていたか?
その疑問と同時に、伊達の肌は既に夜気に晒されている。布団で寝ている筈も、ましてや槍を手放せるはずもなかった。
死地である。
伊達は死地にいる。
屍の積み重なるその隙間に身体を入れて伊達は休んでいたのだ、見上げればただ月である。恐ろしいほど大きく、穴の縁と同じほど大きな月が覗き込んで来てい
た。
穴、
孤独の、蠱毒の穴底である。
孤戮闘の穴である。
少年少女達が最後の一人になるまで闘わされる、蟲毒の穴倉に伊達はあった。
いや、今伊達はまだ伊達ではない。
伊達臣人は勝ち取った名前である。
この穴に放り込まれる前に、伊達たちを連れてきた男はこう言った。
『飯も命も、名前もただ勝って、勝ち得よ』
伊達は穴を生きて、勝ち残って生き残って出た。死地を生還したのである。
だから伊達は今、伊達臣人となっている。
「よくやったな、貴様が伊達臣人となる」
偉そうな男の声を伊達は無表情に聞き流している。
最後の一人になって、伊達はロープが下ろされるのを待ち構えていた。
ロープを手で掴もうとするも、血濡れて滑る手は中中それを捕まえられない。のろのろしているうちに、やっぱりやめたと引っ込められてしまうかもしれぬと伊
達の心に焦りが生まれる。急ぎロープを捕らえた、と、
視界の端を何かうごめくものがあった。
そちらを見た。
小柄な、というよりも異常なほど小さく、箱に押し込められたような人影が血塗れの地面へ突っ伏したまま、そっと伊達の目を見つめている。
ぶくぶくと、この極限状態でどうしてだか肥大した体がそっと動いて、人差し指を口元へと『しぃ』宛がう。赤子のようなもたもたとした動作だった。
『み の が し て』
肉に埋もれそうな小さな口がそう形だけで呟く。伊達は無感動にそれを見やり、そうしてロープを掴んでそこを出た。それがその後、生きたかどうかは伊達は知
らない。
入梅を昨日宣言されたというのに、東京は晴れていた。区のチャイムが鳴って三十分、五時半頃になって伊達は寮へと戻る。
薄暗い廊下に、伊達は誰かの人影を見咎める。一号生筆頭の剣桃太郎であった。そ知らぬ顔で通り過ぎようと、伊達は足取りを乱さない。
「…伊達、お前最近池袋に何かがあるのか?」
廊下の壁に寄りかかり、目を静かに閉じて誰かを待ち構えている風情の桃。待ち構えられていた対象が自分であった事と、かけられた言葉の内容に伊達は通り過
ぎようとして軽くつんのめる。
ハチマキの下の瞼は閉ざされたままである、口元にはかすかに甘く笑んでいた。
「…別に」
「嘘だな、伊達」
桃は目をようやく開き、壁から体を起こす。誰も居ない夕暮れの、夕食前の廊下は静かで、桃のひそやかな声もよく通った。
「嘘じゃねぇよ」
「伊達」
「こっちを見ろ」
「俺に命令するんじゃねぇッ!」
桃の声に伊達は思わず、廊下の薄いガラスがビリリと震えるほど声を荒げる。
気の弱いものであれば驚き、すくみあがるような声だったが、桃は眉一つ動かさずにそれを受け流す。
「…伊達、俺はお前の何だ。俺はお前の事を仲間だと思ってる、単なる言葉の上でじゃねぇ、共に闘ったお前を誰より頼もしい仲間だと思っている。俺だけじゃ
ねぇ、富樫も、虎丸も、Jだって…いや、一号生全員がお前を仲間だと思ってる」
「…よくしゃべるじゃねぇか」
嫌味ったらしく伊達は笑って見せた、獰猛な獣のような笑みで、普段のスマートさとはかけ離れている。
「いいから聞け、お前は――何をしてる?」
桃の声を遮るように伊達は呟いた。
「桃、てめぇは…てめぇは、自分が自分だって確信持って言えるんだろうがな」
それは自嘲と、恐らくは不安である。伊達の頬や伏せた目には確かにそれらが表れては翳っていく。
「……」
桃が続きを待つ、伊達は沈黙した。
辛抱強く待ち続ける桃に、伊達は沈黙し――
「………俺のなり損ないが、」
そう言いかけた、
「た、大変じゃ!!警察が伊達を出せって、押しかけてきたぞォッ!!」
「連続殺人の容疑だとか、ワケわからん事言っとるぞ!!」
松尾と田沢の声だった、弾かれたように桃が顔を上げる。伊達は身を翻した、桃が呼び止める間も無く既に駆け出している。窓から躍り出て走り去った伊達の姿
は、忽ちのうちに夕闇へと消えた。
「ワシが男塾塾長、江田島平八である!」
塾長が一度きりしか名乗らないのは大変に珍しい、それだけ緊急事態なのであろう。
塾長室に桃を始め一号生達は鈴なりになって聞き耳を立てている。
警察の人間二人が伊達について詳しい情報を聞き出そうとしているのがわかった。一号生達は顔を見合わせ、それでも息を詰めて聞いている。
「おたくの、伊達臣人ですか…何故かここ最近、例の豊島区ユビキリの現場に頻繁に現れているのが目撃されています」
桃の眉が寄る。
「そして先日、ユビキリ被害者の女子高生に詳しい話を聞いたところ、その犯人は、」
「ダテオミト、そう名乗ったそうです」
馬鹿な、桃の口が小さく呟いた。耳は氷のように研ぎ澄まして、一言たりとも聞き逃すまいとしている。歯を自然と食いしばって聞いていた。
「聞くところに寄れば、この伊達という生徒、札付きのワルのようじゃないですか」
どん、と何か叩く音がした。刑事の一人がテーブルを叩いたらしい。
「さっきのね、ユビキリ被害者の女子高生、彼女は誘拐されそうになったと言っておるんですよ!」
「私たちは、この四件の失踪事件との関連もあると考えています」
「伊達臣人とは、どんな奴なんですか!」
一番最初に動いたのは桃だった。ガラリ、と塾長室のドアを開け放つ。勢いがつきすぎて跳ね返ってくるドアを虎丸が押さえて、桃に次いで踏み込む。
「伊達は俺達の仲間です」
桃がきっぱりと言った、刑事達が腰を浮かせるよりも早かった。虎丸が腹からの大声を張る、
「あの伊達がそんなこと、するもんかよ!」
「だったら伊達臣人を出せと、言ってるんだ!」
白髪交じりの刑事が怒鳴り返した、ワッとなだれ込んできた一号生達が口口に伊達擁護をがなる。
桃が一歩更に進み出る、気圧されて刑事が一歩退いた。
「俺は俺の仲間を信じる、あんた達が何と言おうが!」
それだけで十分である。一号生達は伊達の潔白を心から信じた。
が、若い刑事が飛び上がる。携帯電話が鳴り出した、緊迫したこの雰囲気に遠慮しながらはい、はい、と小声で応じている。
「……はい、はい…え!死体が出た!!?」
さすがにぎょっとして、誰もが息を飲む。電話を切ると若い刑事はまくし立てた。
「ついさっき、北池袋で女子高生が殺されました!首を絞められた上に左手の小指がねじ切られて、その……」
「目撃者によれば、顔に両側それぞれ三本ずつの傷の男が逃げ出したそうです」
「桃よ!!」
その言葉を聞き終えるなり、今の今まで沈黙していた江田島平八が声を張った。絶望的な空気の流れるこの部屋にあって、桃一人が頬に朱を差して、
「押忍!!」
と応じる。
「行けい!!」
「押忍ッ!!」
それ以上の言葉は必要ない、桃は一号生に向かってすっく、と立った。風も無いのに桃の頭髪が下からあおられるようにして揺らいでいる。
ハチマキの締められた額、眉は凛々しく目元に力のある顔で、
「これより、伊達を追って、いや――迎えに行く」
そう、述べた。
おう、獣が一同に吠えるように級友達が答える。刑事達が立ち上がり、逃げるようにして駆けていくのを見送ってから、
「豊島区に明るい奴、居るか!秀麻呂、図書室から地図!椿山も行け!食堂に集合ッ!!」
「おう!おっくれんなよ椿山!」「う、うんっ!」
二人が駆けていく、ぱらぱらと手が上がった。この場に居ないものを呼び集めに富樫が真っ先に走っていく。飛燕が続いた。
「よし、全員食堂に移動しろ!!」
おう、おう、一刻の猶予も無い、全員全速、全力で走った。
豊島区を大きく十に分け、そこにそれぞれ豊島区に明るい人間を混ぜたチームを組む。伊達の似顔絵は飛燕が描いていた。
「伊達の似顔絵を持ったら、行くぞ!」
「剣殿、それでは各個人の連絡をどうやって取ればよいのでござるか」
雷電の緊迫した声に、桃が一瞬息を飲む。そう、一度塾外に出てしまったら後は連絡の取りようがない。
どうする、桃が口の形だけ呟いた。
「俺に任せて貰おう」
立ったものがある、際立って素晴らしい頭の形、すっくらと伸びた脚の、
「月光!」
「先ほど、蝙翔鬼殿より蝙蝠達を借り受けた。伝書鳩ならぬ伝書蝙蝠として使っていいそうだ」
「へ、蝙翔鬼のやろうがァ?」
虎丸が首を傾げている。普段人のいいJですら難しい顔である、なんといっても最近まで敵だった男である。
「騒ぐな一号ポックリども。俺らが手伝ってやるってのがわからんのか」
割って入った声に、ほとんどの一号生は飛び上がった。男塾死天王、卍丸である。既に鋼鉄の胴衣を着こんで戦闘態勢、その背後にはセンクウの姿も見えた。
「邪鬼様の命だ、今回我ら三号生…二号生も主力を割いて、伊達捜索にあたる」
「先輩!」
どうして、言いかけた桃に、センクウはあるかなしかの笑みを浮かべた。
「貴様が言ったように、同じ塾生…理由がいるのか」
「………押忍、ごっつぁんです!!」
「そうと決まったらさっさと行こうぜ、桃!」
塾生、散開。
そいつは骨喰いと呼ばれていた。つかの間の休息に、明日は敵となる友と話した中でそいつの名前は時折出てきた。
上からばら撒かれた食料に手が届かないと分かるや否や、そいつはさっさと畜生道へと落ちて、腐肉を啜ることにしたらしい。
俺が命からがら勝ち得た飯をむさぼっているそのすぐ側で、そいつはいつもぞぶぞぶと歯を立てて死体を食らっていた。
並み外れて頑丈な顎をしていたらしく、そいつは骨まできれいに平らげる。だから骨喰いと呼ばれていた。
そいつが食うのは何も死体だけじゃない、傷を負って動きの鈍った奴に近づいて、遠慮なく生きたままその肉に歯を立てる。
痛い痛いと悲鳴を上げながら、生きながら食われていく奴を俺は幾度か見たのを覚えている。
骨喰いが、左手の小指へ異常な執着を抱いているのを正確に知っているのは、恐らく俺だけ。
一度そいつの手から落ちて、ころころと転がってきたものがあったのを覚えている。
それが小指だった。
そいつが俺の槍の届かない範囲で、恨めしそうに俺を睨んでいるのが気になって、
「どうした」
そう尋ねた。
「ぼくの、こゆび」
箱に押し込められたような小さな醜い体、額が奇しくせり出して、顎ばかり発達した受け口の、目を背けたくなるような姿にしては消え入るような声だった。
目は白目のほとんどない、小さな目で、人間ではなく別種の生き物のようだった。
「………」
俺が無言でその転がってきた小指を骨喰いへと投げてやると、
「ああ、ありがとう、ありがとう、きみは、食べないでいてあげる」
その小指を嬉しそうに嬉しそうに骨喰いは胸に抱いた。俺はそのとき初めて、骨喰いの左手の薬指が無いのを見ることになる。
どうか思い過ごしであってくれと思いながら追いかけたそいつ。
カンだ、ただ、
『俺ならば、あいつならばここだ』
そう思った場所を巡っただけだ。なのに、
そこにやっぱり女は死んでいた。ああやっぱり、そんな白けた思いで俺は近寄って首を確かめる。死んだばかりの女が転がっていて、誰かが走り去っていく足音
も聞こえた。
この死体をもって行きたかっただろうに、俺が来たせいで放置せざるを得なかったに違いない。
首筋を確かめる、死体に動揺はしない、見慣れている。見飽きている。だが動揺しない自分にむやみに笑いたい気分になる。
締められた痕に、左手の小指の痕は無かった。
やっぱりあの時、きちんと残さず殺せば良かった。
酷い後悔もあったがもう戻る事は出来ない、俺は退塾届けを置きに男塾へ戻ることにした。
結局出せずに、俺は今夜の街にそいつを追いかけている。
日がしっかりと暮れるのを待ってから動き出した。警察官が居ようが、人ごみならばさして俺には関係が無い。
池袋駅西口、大通りの横断歩道を人ごみをすり抜けて歩く。
グリーン大通りを過ぎて、サンシャインシティ目指して、歩く、歩く、
サンシャインシティつまり巣鴨刑務所跡を目指す。
これは直感だった。
サンシャインシティ地下街にある扉のいくつかは、当時の防空壕へ通じるものがある。地下の穴倉の好きなそいつなら、間違いは無い。
まだまだ人の多い地下街を過ぎ去りながら、警備の目をかいくぐって俺は一つの扉を開いた。細く開けた瞬間、ひやりとした湿り気の多い空気が頬にくる。
と、同時に生臭い臭いが鼻に上り来る。
間違えようも無い、血の臭いだ。
伊達は穴倉へと踏み込む。太陽ではないものの、明かりを見納めだとばかりにオレンジ色の電球をいとおしげに一度仰ぎ見てから。
伊達が一歩踏み出すと、大して深くも無い穴倉の奥で何かがもぞりと動いた。
箱に押し込められたような小さな醜い体、
額が奇しくせり出して、
顎ばかり発達した受け口の、
目を背けたくなるような姿―――
「ダテオミトか」
気づけば伊達はそう口走っていた、返事が無いかと思われたが、くぐもった声で、
「…そうだよ、きみはだれ」
やけに舌のペチャペチャと絡む、水っぽい声が返って来た。
「伊達臣人だ」
伊達がはっきりとそう名乗ると、穴倉には水が流し込まれたように冷え切っていく。足元から重たく、ゼラチンで固められていくように空気が粘ついていく。伊
達は学ランの背中に隠していた槍をそっと取り出す、暗闇にあってもそれが見えたのか、チャッチャ、と舌を鳴らした笑い声が響く。
「ころっ…ころ、しにきた?ころしにきた!?」
一度、目を閉じる。伊達の心はどんどんと深い穴へと落下していく。
ここはどこだ?
ここはどこだ?
ここはどこだ?
穴、
孤独の、蠱毒の穴底である。
孤戮闘の穴である。
少年少女達が最後の一人になるまで闘わされる、蠱の穴倉に伊達はあった。
いや、今伊達はまだ伊達ではない。
伊達臣人は勝ち取った名前である。
この穴に放り込まれる前に、伊達たちを連れてきた男はこう言った。
『飯も命も、名前もただ勝って、勝ち得よ』
伊達は穴を生きて、勝ち残って生き残って出た。死地を生還したのである。
だから伊達は今、伊達臣人となっている。
ならば今、ここでダテオミトをきちんと殺さねば、
伊達は伊達でなくなってしまう。
だから、伊達は槍を構えた。
いいのだ、ここは孤戮闘の穴、蠱毒の穴底、
いいのだ、
伊達の槍が狙い過たず、骨喰いの頭へと吸い込まれていく。
「伊達ッ!!」
突然かかった声と、差し込んだ目を焼く光、伊達の槍は狙いをそれて、穴倉の壁へと突き刺さる。
「ぃひいいいいッ!ヒッ、ひ、ひぃいいッ!!」
豚のような悲鳴を上げながら、骨喰いがうずくまる。伊達は再び槍を振り上げた、さっきの声に、心当たりはある。しかしそれは遠い先の事である、
今はここは孤戮闘の穴、蠱毒の穴底であるから。
「伊達ッ!お前は、そっちに行くつもりか!!」
さっきの声が、今度はもっと強い口調で叫ぶ。続けざまにもっと、いかにも馬鹿で、きっとまゆ毛など繋がっているだろう声がする。
「伊達ェ!そいつが悪いんじゃろ!?なら、戻ってこい!!」
思ったとおりに、何も事情が分かって居ないだろう馬鹿声、伊達は笑った。
「伊達ッ、っの、馬鹿野郎―――ッ!!!」
一人の声ではない、複数の、百人近い男の声がする。いずこからか膨れ上がるようにして聞こえてくるのは一度ならずとも自分も口ずさんだ、塾歌であった。
気づけば伊達の槍は地面へと落ちている、拾わねば、と伸ばした手は走り寄ってきた虎丸に掴まれて揺さぶられる。
「伊達!伊達!おい、しっかりしろィ!!」
「………」
「あんじゃい、アホウになっちまったんか、おい、伊達よう――」
泣きそうな顔でその馬鹿は伊達を呼んだ、ついで白ハチマキに怒りの形相、桃がやってきて伊達の頬を思う様ぶん殴る。
「馬鹿野郎ッ!!」
その声、その痛みは、伊達を伊達臣人へ引き戻すには十分であった。
「…………いてぇよ、馬鹿が…」
桃はその答えに、心から笑って伊達を抱きしめた。
穴倉はすっかり差し込む光に隅々まで照らされて、滑稽である。その奥底に居た男は光に醜く卑小な姿を晒し、がたがたといつまでも震えていた。
「…悪かったな」
数日経って、伊達は桃に詫びた。桃は風にハチマキを泳がせている、まったく入梅はどこへ行ったのだ。まるで晴れて、既に夏だ。
オカラのようにボソボソとした伊達の詫びに、桃は微笑んだ。
「…それ、全員に言って回るつもりか?」
「フン」
桃は廊下の窓の桟に飛び乗った、脚をぶらぶらさせながら、
「……死んだなぁ」
と、言った。骨喰いの事である。
あれからは大変な騒ぎである。行方不明になった四名が四名とも、きれいさっぱり食べられてしまった後で、穴底にあった骨喰いの糞から骨がいくつか見つかっ
ただけ。それから大切に箱にしまわれた、ユビキリ事件の被害者達の、左手の小指が腐りかけていた。
即座に骨喰いは警察へと引き渡された。孤戮闘の勝敗ではなく、司法の手に預けたのだった。
が、事態はつい今朝急変した。
留置所で、骨喰いが変死していたというのである。心臓の発作によるものだとテレビは報じていた。
「……ああ、死んだ。生かしておくと都合の悪い奴が居たって事だな」
「………」
骨喰いには戸籍が無いはずである。もし取り調べられるうちに孤戮闘の話が明るみに出れば、それこそ大事である。
桃の髪の毛がハチマキと共に風にそよぐ。伊達はその様を、どこか憧れを含めた眼差しで見送っていた。
「虎丸が言ってたぜ、……あんなの、伊達臣人じゃあねぇって」
「あ?」
「俺もそう思う。伊達臣人はお前だけさ、少なくとも、俺達にとっては」
「………」
「安心しろよ、あれはお前になり得ないし、お前もまた、あれにはなり得ない」
桃が笑う、伊達はまだ笑えない。
「約束しろよ、たった一人なんて顔して…もう二度と勝手に、どっかへ行くな」
「……うるせぇ野郎だな」
桃が笑う、伊達はまだ笑えない。
桃が、ユビキリでもしようか、などと言ったから、今度こそ伊達は苦笑した。
六月だというのに雲ひとつ無い空である。
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