綺羅紙きらきら
そう、半分に折って、そう…
きちんと角と角とを合わせて…そうです、お上手。
「母上」
「わたくしに?」
初めて折った鶴は、母にやったのだ。綺羅紙だった、金糸銀糸が織り込まれた、細波模様の綺羅紙だった。
母が鶴を持つその指が貝殻細工のようにもろく儚いのを、幼い俺は確かに見たのを覚えている。
静かな水面のように微笑んで、俺の頭を撫でようとして…母は確か止めたのだった。
「うれしいわ、ありがとう」
「母上、」
どうして父上は来ないのですか、そう尋ねはしなかった。
邪鬼は子供の頃から邪鬼である、聡い子供である。父がそう簡単な立場でないことは理解しているつもりであったが、それでも不満はつのる。
「よいのです、わたくしには――」
わたくしには、これがあります。
母は漆塗りの箱に収められていた折り鶴と、邪鬼の折ったばかりの折り鶴を胸に抱いて微笑んだ。
「邪鬼様」
影慶は俺を呼んだ、どうしたその顔は…俺がどうしたと言うのだ。
「なんだ」
「鶴…ですか」
「鶴?」
気づけば俺の指先は鶴を折っていた、手近にあった書類を正方形へと切り出して、鶴を作っていたようだ。
俺が先ほど届いた報告書を読んだかどうか確認に来たらしい影慶はそれを目ざとく見つけ、俺の様子がおかしいのに気づいたようで伺うような目つきをしてい
る。
「ああ…」
俺の指が作る鶴は裏地を少しも見せずに角が際立って、とげとげしくある。
「お加減でも悪いのですか」
「いや…少し考え事をしていた」
『考え事』
俺の口からこの単語が出たのがそんなにおかしいか、影慶よ。何だその顔は。
「ご実家の件ですか」
…俺の顔はどんな表情をしていたと言うのだろう、よもや笑顔ではあるまいと思うが。
俺は出来上がり寸前、尾のうちの一つを折って頭にするだけとなった鶴を手のひらにつまみあげる。わら半紙で折った鶴は頭が出来るのを待っている、俺はその
まま手のひらで握りつぶした。
「……フッ、影慶、報告書の件であろう。頭には入っている心配は無用だ」
「いいえ、その…」
影慶は言いよどんだ、予想はついている。影慶は時折、俺以上に俺に聡いのではないかとすら思うことがある。
「先ほどご実家よりの手紙をお届けしたと記憶しています、だから…」
「言うな」
その先は言わなくてもいい、わかっている。
「邪鬼様の家族のことを、聞いてもよろしいでしょうか」
「俺のことを…?珍しいな影慶、他人に興味のない貴様が」
そう言ってやると影慶は瞼を伏せ、口元と目元を笑み翳らせると生来の人の悪いところを見せた。
「邪鬼様が話したいと思いまして」
俺は執務室の机に、ひしゃげた鶴を置いて椅子を窓へと回転させた。影慶は黙って俺の言葉を待っている。
その女の血筋は古く、陰陽の家系の出だと言う。どうやって選んだかは邪鬼も知らないが、とにかくその女はほんの少女の頃からその家へと嫁いできた。
大豪院家を畏れる地元の人間達はやれ人身御供だの生贄だのと口さがないことを囁き交わしていたのをその女が知らなかったはずはない。
その女は知っていた、自分はただ大豪院家の血を残すため、ただ子供を成すためだけに自分が呼ばれたということを。
血のせいかその女の体は常に病魔とともにあり、子を成す前に死ぬ危険が十分にあった。また子供を生めば寿命を更に縮めるということを含めて、全て最初から
その女が知っていたわけではないだろう。しかし大豪院の家に嫁ぎ、成長するにしたがって徐々に自分の立場や体のことを理解していったはずである。
大豪院家、旧家である。本家に嫁いできた女に対して分家のものがいい感情を持つわけもないだろうし、本家の人間は本家の人間で一刻も早く子を成すように少
女のころから日日言い続けた。
「それは…辛い立場だったと思います」
「ああ、俺が生まれてからも母の、謝る姿をよく見ている」
「……」
そうして邪鬼は生まれた。告知通り女は命を縮め、大豪院家から長く離れて生活することすらできない体となった。女は少女の外見のまま時を止めたように、息
遣いを鎮めてその一日のほとんどを家の一番北の部屋で床について過ごしている。
「俺の覚えている母は、いつも白い着物を着ていた」
母は咳をして吐血をしてもかたくなに隠そうとして医者の診察を拒んでいたそうで、一滴たりとも飛び散った血を見逃さないようにと白い着物で衣服を揃えたの
である。
幼い邪鬼にも母の白装束はなんとも不吉なものに見えた。色の白い顔がますます青さを際立たせ、白い着物の意味が死装束であると気づいたのはそれからそう時
間が経ってからでもない。
血を吐いたのがわかれば医者が駆けつけ、投薬や注射をし、その部屋をまるまる隔離することになる。母は隔離されるのを強く拒んだ。体調がよければ積極的に
邪鬼とともにあろうとし、手料理を食べさせようと台所に立った。
「覚えている……朝食だった。玉子焼きに味噌汁、それだけ作るので精一杯だったのだ」
「して、その朝食を?」
「いや…食べることは叶わなかった」
影慶の眉が跳ねた。邪鬼は唇の端で笑んでみせる。
「捨てられた。嫡子である俺に、病気の女の作った食事など食わせる訳にはいかぬとな」
「……」
常識が無い、
大豪院家の女としての自覚が足りぬ、
余計なことをするな、
病気の女が台所に立つな、
お前の役目は子を生むことのみ、
用済み、
それらを丁寧すぎるほどに丁寧な言葉でくるみ、白白しい笑顔で大豪院の人間達はそう女へと告げた。女の目の前で今体に鞭打って作り上げたばかりの食事が捨
てられていく一部始終を邪鬼は見た。母は静かに頭を下げて詫びを口にする。母が謝る様を邪鬼は幼い頃に何度も見た。
「影慶、母は不幸だと思うか」
そう問われて影慶は戸惑う、他人の母を評することは難しい。しかし邪鬼は真剣に問いかけたようでもあったし、何よりこうした個人的な話をすることは滅多に
無いことである。
「……」
「今思えば、俺はそうは思えんのだ」
「………」
「母の着物、白に取り替えるよう指示したのは父だったと聞く」
「…………」
邪鬼は影慶と語り合っているというよりは、自分に言い聞かせているように影慶は感じた。なので影慶は黙っている。
「綺羅紙を」
呟きはそっと邪鬼の唇を割った。
「母は様々な綺羅紙を持っていた…送り主は、父だ」
邪鬼は幼心にどうして父は母に会ってやらないのか疑問であった。しかし、大豪院家の当主である父が病気の母へと会いに行くには制約が多すぎ、それを振り切
ることは当主のけじめとしてできることはどうしても出来なかったのである。
母の元に届いたのは小さな箱、中に入っていたのは千代紙であった。
様々に複雑な文様に、雲母の粉がきらきらと散って銀糸の渡された綺羅紙である。それを母はことのほか喜んだ。
その箱には一羽の折鶴が入っていた。
「母はその大事な綺羅紙で、俺に父と同じように鶴を折った」
「鶴、それは…邪鬼様、」
「………フッ、くだらん昔話をしてしまったな」
「いいえ、……いいえ、」
邪鬼が知っているかは知らない、影慶は不意に鶴と言う生き物についての寓話を思い出す。
鶴、情け深き鳥。
交わすは声でなく情、その視線より情を交わして子をなす。
つがいとなりてからそのニ匹は声を交わすことせず、視線のみで全ての情を交わす。
視線を通じての愛情により子を成し、つがいの二頭の羽根をもって織物を織り、子の羽根が生えそろうまで包み込む。
「邪鬼様、今日の執務は終わりにしませんか」
「…うむ。影慶どうだ、貴様俺の家に来てみぬか」
「…よろしいのですか」
「良い、母も喜ぼう」
父からそれからもたまさかに届く折鶴。その折鶴を開くと父の力強い文字が綴られていたことを、邪鬼は知らない。
邪鬼の折った折り鶴は、父が折ったものとよく似ていた。
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