途切れない日日
空が今よりグッと青かったんだぜとじいちゃんは眼を細め
てそう言った。
わたしにしてみればこんな空しか知らないから、ヘエエとだけ頷く。
懐古でも嫌今でもどちらでもいい、わたしにとっての青空は今日も隅隅まで晴れている。
汗を少しかいた。
どうしてそんな事をしでかしたかと言えばはっきりとは思い出せない。何か腹の立つことがあったのだろうとは思うが、とんと思い出せないでいた。
しいて言えば、ガキだった。そんな風に富樫はあっさりと片付ける、理由なんてくだらないことばかりだった。くだらないことに笑ってしまうほどムキになって
いたのがガキだった。
そんな一人のどこにでもいるガキ、そこらのガキよりほんの少しスレていて、ほんの少しバカで、ほんの少し考え無しだったのが富樫だった。
富樫だったからそうなった。
真夏のアスファルトの上をどこまでも歩ける気がした。
涙がぺろぺろ次から次へと頬を伝わって、次から次へと乾いて頬が引きつった。
頭上の空は終わりなく晴れて、青刺ぎらぎらと富樫を焼いたのだった。
最寄り駅ではない、歩き歩いて知らない駅にたどり着いた。ポケットにわずかな小銭があったので、一番短い区間分だけ切符を買って、ホームに佇んだ。
ホームに屋根のあるような立派な駅ではない、改札だって背中の曲がった老人が一人ぬぼうと立っていて、富樫の事など気にした様子もなかった。
涙はもう乾いた。
電車は二十分ほど待つと車両が一両きりの、イモムシ電車がのたのたとやってきた。乗り込むと車内は誰一人おらずに空いていて、富樫は一番端の座席へ座って
窓の外を眺めた。電車に乗って遠出することなどそうそう無い、その上今日は事情が違う、富樫は表面冷めた顔で内心酷く興奮していた。
窓の外は引きずりながらもおおむね滑らかに動いていく、途切れなく続く空が次第に青さを失って青を混ぜていくのを富樫はただ眺めていた。
「………」
口を小さく開いて、富樫は静かに誰かを呼んだ。富樫が呼ぶ名前といえば家族程度しかいない、その中でも今現在この世にあるのはたった一人しかいなかった。
窓の外の風景に見覚えは最初から無く、現実感も無いまま電車は富樫を運んでいった。散散歩いた末にゆったりと揺られ、普段ならば眠気を催すところだったが
目は不思議と冴えていて、シャツの胸はいつまでも熱かった。
窓に切り取られて今までよどみなく流れ続けていた空に、不意に朱が差した。富樫が顔を上げると窓枠の中に熱した黄金でとろけるような夕日が落ちてきて、富
樫の頬をめらめらと赤く照らした。涙の筋が塩となり、富樫の表情をなお硬くした。
「終点だぜ?降りないのか?」
声をかけられて、富樫が顔を上げた。眠っていた記憶は無いのだが、窓の外の空はすっかり暮れて全ての輪郭が沈んでいた。
ハッとして富樫が座席から腰を浮かせると、声をかけた男は富樫の姿をじろじろと遠慮なく眺め渡した。
居心地が悪くなってうつむいたところへ、
「迷子か」
遠慮の無い声が突き刺さった。
「ち、違わい!」
立派な身なりの、しかし嫌味ではないスーツ姿の男はさらりと笑って聞き返してきた。
「ならなんだ?見たところ旅行ってワケじゃないだろう?」
「うっ……」
何も言えないでいる富樫へ、
「家出か、」
そのものズバリに言い放った。富樫は頷かない、だが、その態度からして明らかだった。
「フッ…まあとりあえず降りろ。終点で駅員も困っている」
かたくなに動こうとしない富樫の肩を抱き、男は涼しい見た目とは裏腹に力強く引き摺り下ろした。
抵抗もむなしく下ろされた駅は富樫が一度も聞いたことの無いもので、富樫の住んでいた地方とは違い果てしない都会であった。
一体自分の家の側にそんな遠方まで続く路線が通っていただろうか、そんな疑問すら抱いていたが、男はさっさと富樫から切符を取り上げて、
「なんだ、キセルは犯罪だぜ?知ってるか?往復運賃の三倍を払わされるんだぞ」
「………うるせぇ」
うるせぇ、振り絞るようにして言ってみたものの富樫の声は細く情けなく、おまけに涙でひどくガラガラと掠れていた。
「しようのない奴だ、すみません。清算お願いします」
富樫の肩を抱いたままだった男はひょいとキザではない仕草で肩を竦めると、うつむきっ放しの軽く頭を小突いただけで運賃の精算をしてくれた。
駅舎を出るとそこは見たことのないような大都会、未だに舗装されていない道路があるような近所と比べるのが間違っているような別世界であった。
目を丸くし、礼を言うのも忘れてしまっている富樫の背を軽く押して男は促した。促されるままに富樫は歩き出したが、その視線はきらびやかな夜景に釘付けの
ままであった。
「珍しいか?」
「うん」
最近ハクをつけるとか、イキがるとか、そんな事を覚えた富樫であった。ここは渋く「オウ」と言うべきであった、――のように、「オウ」と言うべきであっ
た。
兄のように、言うべきであった。
思い出して富樫は少し、沈んだ。
「どこから来たんだ?」
男は依然優しげに微笑みながら富樫へ尋ねてくる、金を払ってもらった手前いつまでも黙秘は通用しないとも思ったが黙っていたかった。
「………カンケーねえじゃろ」
「ふうん?……まあいい、行くぞ」
男がスーツの腕を伸ばすなり、富樫の手を掴んだ。返事も待たずに歩き出す、怪しむ間も与えられずに富樫はおろおろと後をついて歩いた。
ネオンの中には人がみっちりと詰まっていて、左右へ視線をやっているたびに誰かとぶつかって舌打ちをされた。
誰も富樫へ関心はない、しかし邪魔だと判断した時の顔ときたらなんとも冷たく厳しいものだった。
引き回している富樫がどすんどすんと不恰好にぶつかったのに気づいて、手を引く男は一度道の端にずれて立ち止まり、屈みこんだ。
「な、なんじゃ」
「疲れたんだろう?おぶってやろうか」
カッ、と富樫の顔が赤くなった。ちょうどその時正面のパチンコ店のネオンが射してキラキラチカチカとやかましく染まった。
「バッ、ガキ扱いすんじゃねぇ!!」
男はそうか、と気を悪くした風も――それどころか何が良かったのかにこりと笑った。
「何が食いたい?」
「――え?」
「何時間も電車に乗って、これから戻るんじゃ途中で腹が減るだろう。心配するな、オゴッてやろう」
「―――いや、だって」
さすがに富樫も首を必死に横へ振って断った、しかし男はいいんだの一言で片付けると尚も、
「何が食いたい?」
と繰り返すので、とうとう富樫は、
「…………ラーメン…」
そう白状したのだった。
身なりからして金持ちだろう、それぐらいは富樫にもわかった。なのに男は富樫がラーメンを食いたいと言うと路地を抜け、一軒のラーメン屋へ案内して気安い
調子で店長に、
「ラーメンと餃子二人前」
と注文した。どんな男なのだろう、富樫はここまできてようやく正面の席に座ったその男をまじまじと眺めた。
歳は三十過ぎぐらいだろうか、目鼻がかっきりとしていて若若しくそしてよけいに男らしく見えた。
テレビで見る軟弱な俳優やアイドルよりもなんぼか凛凛しくて、ベタベタナヨナヨしていないところはとてもカッコウがいいと思った。顔を眺めていると、
「どうした?」
「…いや、な、なんでもねぇ…それよか、……なんか、金――」
後で返す、そう口走ったは良かったが言った端からなんて現実感のない言葉だろうと後悔した。こんな子供が何を言うというのか、富樫は恥ずかしくてたまらな
くなってうつむいた。
「いいさ。これもなにかの縁って奴だろうぜ…ああ、来た来た」
磨き抜かれてか油でか、艶のあるテーブルへ運ばれてきたラーメンは醤油ラーメンだった。隣には角皿にしゅうしゅうとあぶらがはぜる餃子が並んだ。
ごくん、と喉が鳴って、途端に腹が空腹を富樫に大声で訴えた。その様子に男はワリバシを差し出しながら、
「ほら見ろ、フッフフ意地を張るもんじゃねえ」
なんとも楽しそうにそう言って、いただきますといい声でそう挨拶した。
富樫も倣う、ブカッコウにワリバシを割って、ドンブリへと突っ込んだ。と、麺を一口頬張る前に、傍らにあったコショーの瓶を取り上げて振りかけようとし
た。
「おい、それはコショーだぞ?」
はふはふと麺をすすりながら器用に男が咎めた、富樫は小さく頷くと物知り顔で、
「こーしたほうが、うめぇんじゃ」
「へえ…お前が考えたのか?」
「いんや、あんちゃんがこうすっと…」
あんちゃんが、そう口にした途端富樫の喉の奥から何かがこみ上げてきた。何か、それが嗚咽だとわかるまでに数秒もかからなかった。
あんちゃん、そう口にして富樫ははじめて、自分がとてつもなく遠くまで来てしまったことに気づいた。
あんちゃん、そう口にして富樫ははじめて、自分がとてつもなく馬鹿をやらかしてしまったことに気づいた。
あんちゃん、そう口にして富樫ははじめて、自分がとてつもなく寂しくって寂しくって泣いていることに気づいた。
あんちゃん、そう口にして富樫ははじめて、自分が今、今すぐにでもあんちゃんへ謝りたい気持ちであることに気づいた。
いきなり押し黙って、それから唐突にグスグスと泣き出した少年を目にしても男は動じない、静かに、
「まずは食べろ、伸びちまうから。…安心しろ、送って行ってやる」
静かにそう言って、富樫へお絞りを差し出したのであった。富樫は頷くとごめんなさいとありがとうとそれから何かわけのわからない事を呻いて、ズルズルべそ
べそ、男らしさの対極にあるような食べ方でラーメンを干した。
ラーメンを食べてからはドッと出た疲れに脚が動かず、男に駅までおぶってもらうという失態を演じた。
さらに悪い事は重なるもので、駅に戻るともう電車が無いと言われてしまい、
「………」
再びガキらしく泣き出しそうになったのを富樫が必死に唇を噛んで耐えていると、
「まあ待ってろ、時間はかかるけど…帰してやると約束したろう?」
額を軽く突かれて、男は少し待てとその場を後にした。
数分後、男は戻ってきた。歩いてではない、爆音を立てて戻ってきたのはスポーツカーというには派手過ぎる、バラエティではなく映画でしか見たことのないよ
うな立派な車に乗ってだ。
すさまじい排気音に、道行く人間の注目を集めているのにも気づいて居ないのか、男は乗れと促した。
富樫も少年である、このスーパーカーに胸を小さく高鳴らせながら助手席へと収まり、言われるままシートベルトを締めた。
「すげぇ車…」
「フフッ、俺の唯一の道楽さ…さあ、お前の家の住所は?」
助手席にまで乗せられて、とうとう富樫は住所を白状したのだった。
突き抜けるような排気音を響かせて車は発進し、そのほぼ五分後に富樫は意識を夢へと羽ばたかせていた。
気づけは富樫は兄が敷いた布団へ寝かされていて、目を覚まして自分がいつの間にか戻ってきた事を知った。
そうして兄が何か言う前に、
「あんちゃん、…ごめんよ」
そう素直に謝ったのだった。兄貴は一つ大きなゲンコをくれたっきり、それ以上は何も叱らなかった。
「なあ、桃、俺ァ卒業してすぐ車の免許取ろうと思うんじゃ…お前は?」
尋ねると桃は意外にも身を乗り出して食いついてくる、富樫が手にしていた雑誌は車が多く載っていて、桃が身を乗り出して覗き込む。
「俺も取ろうと思ってるんだ、いつか外車に乗ってみたい」
「ヘッヘ、おめえも案外ミーハーなトコ、あんじゃねぇか」
「フフッ…そうか?男なんてみんな、こんなものさ」
雑誌を捲る桃の指が、フェラーリ365GT4B・Bの辺りで止まる。
「こんな車なんて飛ばしたら最高だろうな」
「………なあ桃、これァホントの話なんだけどよ…俺ァこの車、いっぺん乗った事があるんじゃ」
「え?」
「オウ、むかーしな。ありゃ、俺がつまんねぇ事で家出した時の事でよ―――」
空は途切れなく晴れていた。
青は重ねて満ちていた。
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