今日はサービス★

さて晩飯の支度をしよう、そんな時分だった。それでも夏の日落はのろのろとしたもので、西空の端はまだオレンジと紫が入り混じっている。
一見ヤクザもののような男が、ヤクザもののような面構えで、ヤクザものにぴったりな黒いスーツで台所にあった。
一見ヤクザものは冷蔵庫を開けて今日の献立を考えている、開けるのは一瞬だ。もともと冷蔵庫の中身は富樫が買ってきたものなのだから把握をしていないほう がおかしい。
冷奴にゴマ油とザーサイにネギ。ビールの缶の隣へこちこちになった飯の固まりもあった。それから朝の鮭が塩を吹いて余っていた、卵もあった、炒飯にでもす るか。決定。
よし、一見ヤクザもの、男塾塾長江田島平八秘書である富樫が一つ頷いて冷蔵庫のドアへと手をかける。
と、台所に塾長が現れた。さっきまで熊田某とどこかへ出かけていたらしいがどうやら一杯引っかけてきたらしい。
「富樫、今日は一つ、奮発をするぞ」
赤い目尻で塾長が言い出した。冷蔵庫の前へしゃがんでいた富樫は立ち上がり、塾長の言う奮発について待つ。
「押忍!ところで奮発たぁ、なんでありますか!」
上機嫌にぱつぱつと張り詰めた腕を組んで、塾長が厳かに下す。
「フフフ富樫よ、男が奮発と言うのならそれはだな、すき焼きじゃ。すき焼きこそ男の奮発、わっはははははっ!!」
台所の薄っぺらな窓ガラスが塾長の声にびんびんと震えた。
つい一週間前に、男の奮発はトンカツだと言い出したことは塾長も富樫もさらりと忘流している。
いいのだ。塾長も、それから富樫もそう心から男の奮発がすき焼きだと思っているのだから。
そうして暑い中塾長がすき焼きが食いたいと言うので、富樫は肉屋に走ったのだった。
汗だくになって真っ黒スーツは走ったのだった。

なじみの肉屋に、ヘッヘヘ今日はナふんぱつなんじゃ、ふんぱつ、すき焼きなんじゃと嬉しそうに富樫が注文する。
店主も心得たもので、上客江田島平八のために肉をやや厚切りにブロック肉から切り出して紙に包んで手渡す。
「足りなかったらまた来いよ」
おうよと富樫は大きく頷く。
江田島平八の辞書に、肉をグラムで頼むという単語は無い。単語ではない。言うなれば一文は無い。
肉をズッシと腕に抱え、ぬるまったくなる前にと富樫、商店街を駆け抜ける。

と、家に帰る前にと酒屋へ寄って、ビールを一ケース注文。ビールで肉を冷やしながらスーツの袖をまくり上げた両腕の筋をビキビキ言わせてケースを家へと運 ぶのだった。
家に富樫が戻る頃には近隣の家からも夕餉の支度の匂いが届き、空の全てが藍染まり。
汗みずくの顔を上げ、夜空を見上げる。
夏のほこり臭い匂いが夜のひやびやとした湿気に染みて、鼻をくすぐった。




猛烈な勢いで野菜を刻み、経木から肉を引っ張り出すと皿へ並べ、醤油に砂糖にとサッと準備。案外準備に時間がかからないのもすき焼きの美点である。
肉やら野菜やらを並べた皿を持ってくるのと同時に、部屋が面した縁側へ蚊遣りを設置。
年代ものの扇風機を据え付け、傷だらけのちゃぶ台を部屋の壁へと立てかけてとっぱらう。コンロをちゃぶ台の上へ乗せてしまうと伸び上がって鍋をつつくハメ になるためだ。畳の上に新聞紙を敷いて、そこにコンロを下ろす。
「おう、準備をしておるな」
すき焼きだと聞いていそいそと自室から出てくる塾長が、富樫にとってはなんとも好ましい。
年齢を教えてもらったことはないが、かなりの高齢だろうにいつまでたっても子供のようだ、その無邪気さが富樫は大好きである。
「ヘッヘヘ肉屋のオッサン、いいところだって言ってたぜ」
「それはいい、…ム?」
富樫がキンキンに冷えたビールの瓶を両手に持って戻ってきたのを見て、塾長は相好を崩した。
「フフフ珍しく気がきくのう富樫」
「ヘッヘ」
鼻の下を擦って富樫、にやりと傷をひっつらせて笑う。
テレビはちょうど、野球中継。
「食おう」
「ヘイヘイちょっと待って下さいよ、脂ひくから」
着物の裾をちょいちょいと跳ね上げて脛を出し、富樫が差し出した座布団へどっかりと胡坐をかく。大きな手には既にグラスがある。
富樫がそのグラスへビールをどっくどっくと注いでからネクタイをかなぐり捨て、シャツの腕を二の腕半分まで捲り上げた。
菜箸にエッチラ、牛脂を摘むとそろりそろりと鍋の表面へ下ろす。
「鍋、いざってねぇですか」
言われて塾長が首を傾げた、横から覗いてみておおむねOKだと言うと、富樫はさらさらと鉄鍋へ脂を塗り終えた。
鉄鍋から煙が上がる寸前、菜箸で摘み上げた大振りの牛肉をひらりひらりと並べていく。
しゃあ、
しゃあ、
脂が爆ぜる音が響く、同時に肉の焼けるいい匂いが立ち上った。塾長が思わず身を乗り出す。
ぢぢと肉が身をくねらせながら縮んだのを見計らって、富樫が案外器用に肉をひっくり返す。まだ赤い部分が残っていても構わない。
焦げ目がかすかについた肉の背へ、傍らの砂糖壷から匙に砂糖をよそい、ふりかけていく。
揺れる肉に白い砂糖が降りかかったところに、待ちかねたように塾長が醤油さしを手にする。
「もうよいな」
「はいはい」
富樫が苦笑したのと同じくして、塾長が豪快に醤油を鍋へとかけまわした。
じゃあああああ、鍋の中が大騒ぎとなる。肉がぼこぼこと縮れ膨れ、白い脂身が薄茶の半透明にとける。
太い指に握られた塾長の箸がすぐさま飛んで、なかでも一際大きな肉の端を摘み上げた。火を通しすぎぬようにと富樫は一度に四枚しか並べない。
二枚の肉を一挙に摘み、見計らったように富樫が差し出した丼飯を受け取るとその上へ豪快にのせた。
肉から流れる醤油と砂糖が絡んだ脂が飯へと染みて、蛾をまつわりつかせた蛍光灯の光にきらきらと照る。
「うむ!」
それをわっしわっしとかっ込んでおいて、塾長は一声吠えた。

「美味である!」
そりゃあ良かった、富樫も急ぎ肉を頬張っておいてウーンと唸り、空いた鍋へ新たな肉を敷いた。この肉が上がったらたっぷりと残った脂と醤油と砂糖で豆腐を 真っ白なネギを添えて共に薄茶になるまで焼いて、それから牛蒡や白滝を。
締めは勿論うどんだ、生卵の黄身を落として。
「ぶは――っ!!」
肉を頬張って、ビールをグイグイ。二人そろって大きく満足げな息をついた。






こうして江田島平八邸の男達はすき焼きを堪能したのであったが、問題は次の日になって訪れた。
定期的に塾長の診察に訪れる、白髪の村田医師は富樫に、
「それで、最近お体の具合はどういった様子で?」
と尋ねた。富樫は自分の職分である、胸を張って答えた。
「もっちろん健康そのものじゃ、昨日なんてすき焼きを二キロも食べて」
「すき焼き!!?おい秘書さん、その肉ってのは赤身かい」
「バァロォ、塾長に食わせるんじゃ、シモシモのフリッフリじゃ!」
「バカはてめぇだスットコドッコイ!あんなァあんちゃん、平さんがいくつか知っとるか、知らねぇんだろな、知らねぇってんなら教えてやらあ」
富樫へ塾長の年齢を声を低くして告げると、さっきまでの物静かな医師の顔をすっかり脱ぎ捨てて、
「世間的にはアン人ぐらいの年齢を何て言うか知ってっか、エエ!高齢者じゃ、こ・う・れ・い・しゃ!」
富樫が何も言えないでいると、ますます医師は声を張り上げた。
「ええか!平さんはてめぇの飯食ってんだぞ、平さんの命握ってって事忘れんじゃねぇ!」
くれぐれも脂っこいもの、塩っ辛いもの、甘すぎるもの、それから酒にタバコを控えるようにと言い置いて医師は肩を怒らせて帰って行った。
医師が残した「高血圧」「糖尿病」「コレステロールについて」「ぜいたく病」などのパンフレットを前に、富樫は萎れる。

ちりん。
冬でも外さない、吊り下げっぱなしの風鈴が鳴った。並ぶ朝顔の鉢は思い出したようにしか水をやらない割りに元気である。
畳にしんなり萎れて富樫、軽く鼻を鳴らした。
「俺ァ…塾長に少しでもうめぇモン食ってもらおうとよう…」
すん。
「…でも良く考えたら、そうだよな、爺さん、なんだよなぁ…」
すん。
ちりりん。
いつまでも萎れてはいられない、眼は頭の前面についている。富樫は立ち上がった。
もちろん晩飯の支度をしにである。向かうは商店街。
その日から突然、冷蔵庫からマーガリンが消えた。
「富樫よ、今日は奮発をしよう」
「はい、奮発して厚揚げのおろしがけに」
「…………」







桃はうきうきしていた。
部下からちょうど、近くにうまいすき焼き屋がある事を聞いたのである。すき焼きは桃も大好物だし、何より、
(すき焼きってんなら、あいつを呼んでやらねえとな)
すき焼きときたら富樫である。富樫はこの平成の世に、一番美味いものはすき焼きにトンカツに焼肉にしゃぶしゃぶと嬉しそうに答えそうな、昭和のにおいのす る男である。
さっそく富樫を誘おうと、鞄から携帯電話を取り出した。富樫にこれがいいのだと教えてやった、時間差のお揃い携帯電話である。
耳に携帯電話を当てて、待つ。
『……おう、富樫じゃ』
かけた先も携帯電話だというのに、富樫は律儀に名乗った。桃の頬がゆるむ。
「俺さ」
『あん?』
「おいおい、俺の声を忘れたのか?酷いな」
『おう、桃じゃねえか、紛らわしいから名乗れってんだよ』
「フッフフ、すまん」
すまん、詫びながらも桃はおかしくっておかしくってたまらない。携帯電話なのだから、着信表示に名前が出たりしないのだろうか。
(オレオレ詐欺なんかに、引っかかったりするなよ)
『そんでなんの用じゃ』
「ああ、近くに美味いすき焼きの店があるんだ。行かないか」
『すき焼き!?』
声の調子に、桃は首を傾げる。
(喜んでって、声じゃねえな)
喜んで、というよりは治りかけの傷にうっかりと触れてしまって、傷を思い出したような。
『悪ィな、今日はちっと…用があるんじゃ』
考えた末に搾り出したような声はありありと嘘だと言っている。
(金が無いのか?)
万年キュウキュウ言っている富樫から考えてみれば、ありそうな話であった。
見るからに貧乏で腹をすかせていそうに見えても見栄を張る男だから、そうかもしれなかった。
「そうか、残念だ。それじゃ、また」
『おう、悪ィ』

(……ちぇっ)



数日して。
桃はわくわくしていた。
部下から、今までのモツ鍋の常識を覆すのだというなんとも浪漫がありそうな店があると聞いたのである。モツ鍋は嫌いじゃないし、
(あいつも好きだったな)
モツ鍋ときたら富樫である。富樫という男は、ああいう屋台に毛が生えた居酒屋などで出されそうな、気取らない食べ物が似合う男である。
いそいそと携帯電話を鞄から取り出した。
耳に携帯電話を当てて、待つ。
『おう、富樫じゃ』
「俺さ、桃だ」
『おお、桃!まいンち暑いのう、かなわねェや』
(そうだな、お前は暑いのが苦手だったな)
野良犬が腹を向け、へぁへぁと舌を出してへばっている姿を想像して桃は微笑む。
「そうだな、今日も暑い」
『けェ、お前の声はまるでそうは聞こえねぇぜ』
「そんな事は無いさ」
『ウソこけ、すーずしい顔しゃあがって』
「フフフ」
富樫が言った通り、桃ときたら湿度も熱気も関係ないような一人涼しい顔をしていた。
電話をかけたのがちょうど新宿の路上だったのだが、桃の隣をスーツを腕にかけて青い息をついてすり抜けていったサラリーマンが、きっちりとスーツを着込ん だ桃を恐ろしいものを見るような眼でチラりと見ていく。
頬もさらりと乾いていて、暑苦しさとは無縁である。
無論、胸のうちが誰よりも熱い男であることは御承知の通り。
『そんで、用はなんじゃ』
「ああ、今日なんだが…」
話し出して桃は流行のゲームを思い出した。こうして目当てのキャラクタへアポイントを取り、相手の好みを考慮しつつデートに誘うゲームであった。
「今までのモツ鍋の常識を覆すとかいうモツ鍋、食いに行かねぇか」
『モツ…モツ…』
(何か考えてんのか?)
『ああ、プリン…』
(プリン?)
『悪ィ、桃、今日は用があってな、じゃ』

電話は切れた。
「………今日も、だろうが」

(……ちぇっ)




桃はどきどきしていた。
部下から昔かたぎの爺さんが一人でやっている、ひっそりと路地に隠れたヤキトリ屋があると聞いたのである。ヤキトリも嫌いじゃないし、
(今日も断られるか)
ここのところめっきり付き合いの悪い富樫の事が気にかかってしょうがない。
電話をするたびになんだか理由がありそうな素振りで断られてしまうと、もやもやは募るばかり。
「……」
携帯電話を取り出して、耳に当てた。待つ。

『おう、富樫だけど』
「富樫か、俺さ」
『桃!』
(……あ)
桃の心があたたかい。名乗る前に富樫が桃だとわかったそれだけで、肩がほぐれるようであった。
よくよく考えると寝食を共にした友人の声ぐらいわかって当然と言えば当然である。
『桃か、今日もあっちィな』
「そうだな、富樫。それで…」
『おう』
「昔かたぎの爺さんが一人でやっている、ひっそりと路地に隠れたヤキトリ屋があるんだ」
『へぇ』
桃は自分でも気づかないうちに駆け足で言葉を足した。
「冷てぇビールが美味いだろうぜ。今日は奢ろう、臨時収入があったんだ」
ビールと奢り、
大変に姑息だと桃自身も理解している。
『………ウウウ…プリン………』
(またプリンだ)
プリンとは何だろう。まさか言葉そのままのプリンではあるまい。
『も、桃っすまねぇ!しばらく電話しねえでくれ!』

切羽詰った声と同じくして、電話は切れた。
桃はテレビドラマの刑事役がするように、切れた電話へ一度、
「おいっ、富樫っ」
と声をかけてしまった。

「………ちぇっ」

だが桃は剣桃太郎である。
剣桃太郎は走り出した。夕暮れの、これからがビールが一番ハケる時間帯である。
ビヤホールの万国旗を睨んで、桃は山手線に乗り込んだ。






電話を切った富樫はしばらくうつむいてため息をついた。断ってしまった。
「あーあ」
ヤキトリもモツ鍋もそれからもちろんすき焼きも大好物である。
しかし先日医師が残していった冊子を見る限り、どの食べ物もタブー扱い。
プリン体がどうの、悪玉コレステロールがどうの。
富樫はあれから猛勉強をしてあっさりとした、しかし良質のたんぱく質を主体とした飯を作って塾長へ出している。
今日は別として、桃が誘ってくる日はいつも塾長が留守にしているために、誘われたのだから行っても全くかまわない日ではあった。
しかし、塾長に湯豆腐や根菜蒸しを出しておいて自分ひとりビールをグビグビプハーなど、絶対に許されない。
気づけば真っ暗。
そろそろ雨戸を閉めようかという時間、蛍光灯も付け忘れて富樫はため息をついていた。
立ち上がって電気のヒモを引くと、家の戸を誰かがじゃんじゃんと叩いている。
「はーい」
富樫急ぎスーツの襟元を調えると、玄関へと小走りに走っていく。
懐かしい格子戸にはまったすりガラスの向こう、見覚えのあるシルエットが玄関灯に照らされている。
「桃!」
「俺だ」
富樫が戸を開けると同時に、桃が踏み込んでくる。
「さ、さっきは…その、悪かったな」
とりあえず富樫は詫びを口にする。桃は富樫の様子をチラと見て、特に病気をしているわけでも無さそうだと判断した。
「いや、お前が…なんだか、変だったからな。それに」
「それに?」
「何度も断られて、寂しかったのさ」
「桃」
「笑うか?」
微笑みながら桃が問うた。富樫は首を横へ振る。
「馬鹿、こ、こっぱずかしい事言ってんじゃねぇ」
「フフフ、ああ、急いだら腹が減ったな。何か食わせてくれ」
「……しょうがねえな」

塾長へ許可を求めようと、背中を向けかけた富樫の腕を掴んでそのまま桃は引き寄せる。筋肉と勢いが重みとなって桃の胸へとぶっつかってきた。
(……ああ、相変わらず汗くせぇ)
富樫の首筋からは男臭い汗の臭い。
そして一方富樫も、桃から漂う汗の臭いに驚いていた。政治家という身分からも身だしなみに気を遣う男である、そして何より、この桃という男が汗を拭うのも 忘れて急いできたという事実に驚いていた。
自然と富樫の腕も持ち上がって、桃の背にまわる。桃の背中はかっかと燃えるように暑く、かすかに湿っていた。

「……桃」
「……なんだ、富樫」
「…………」
「……………」

富樫の眼差しから星、桃の眼差しから星、交わした二人の視線から星屑がキカキカと河となる。

「なんじゃなんじゃ、靴も脱がんと乳繰り合いか、若いからといって場所はわきまえろ」
「!!」








「……富樫よ、わしを何だと思っておる」
慌てて身体を離した富樫へ、塾長は腕組みをしたまま睨み下ろした。富樫も桃も玄関に立っているのだから見下ろされるのも当然だったが、それにしても塾長は 大きく見えた。玄関にある白熱球に頭がてらてらと光っている。
「塾長」
「プリン体も、悪玉コレステロールも、糖も、酒もタバコも、わしに敵うと思っておるのか!」
「!!」
「やれやれお前が心配性なせいで、ストレスがたまってしまったわい」
頭を掻きながら意地悪そうに富樫を睨む、フフフと太い声で塾長が笑った。富樫がどうしたものかと迷っているのがわかったからである。
「し、しかし塾長、アンタもう、年なんだし、病院が嫌だって言うから俺が心配して!」
「ああわかったわかった、お前がそう言うなら一月にいっぺんぐらいは病院に行ってやる。これでいいか」
「塾長!!」
富樫は塾長へと飛びついた。塾長もそれを目を細めて受け止める。
塾長の眼差しからは炎、富樫の眼差しからも炎、二つの炎は真っ赤に絡み合って火柱となる。

「富樫!」
「押忍!」
「今日は奮発じゃ」
「押忍!ところで奮発たぁ、なんでありますか!」
上機嫌にぱつぱつと張り詰めた腕を組んで、塾長が厳かに下す。
「フフフ富樫よ、男が奮発と言うのならそれはだな、すき焼きじゃ。すき焼きこそ男の奮発、わっはははははっ!!」
玄関の薄っぺらな窓ガラスが塾長の声にびんびんと震えた。

「押忍!!」
富樫は一礼して玄関を飛び出した。飛び出しかけて、立ち止まる。
「桃!おめえ運がいいのう、奮発じゃ、奮発、肉屋行くぜ、手伝え!!」
桃は富樫を追って玄関を飛び出した。

「………ちぇっ」


夏のさそりが真っ赤に燃えて、燃える男は風になり。
モクジ
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