お兄様が見てる

こんにちは、
こんにちは、
やあどうも、
ええどうも、
誰も彼もが笑顔である。笑顔で、今日もいい天気ですね、と言葉を交わす。

いつもここは晴れている。強すぎず暗すぎず、晴れている。白い雲が輝きながら風も無いのに遥か天上を流れていく。
毎日心地よく爽やかに晴れているから、ここは天国であった。




「どうも」
どうも、と声をかけられて源吉は顔を上げた。目の前には地面を引きずる程裾の長い薄紫のドレスを着た、二十歳程の女が笑っている。柔らかそうな茶色の髪の 毛が華奢な肩紐のみの肩へ流れて、いかにもか弱げである。
「どうも」
学帽に源吉は手をやって会釈した、学帽は下界に、正確に言えば弟の源次に渡してきたはずであったが、天界にあって学帽はきちんと源吉の角刈り頭へ鎮座して いる。
「よく晴れていますね、何を見ているんですか?」
「いや…はは、下を」
目を細めて照れ笑い、熊のような強面がきゅうに愛嬌を帯びて丸い雰囲気になる。北海道名産の鮭をくわえた置物のような、というよりは、テディのような優し い雰囲気のある男である。女も笑った。学ラン姿の源吉と、ドレス姿の女。外見的にはちぐはぐであるが、死んだ人間が一番似合う服であるらしく、二人とも服 に負けるような事は無かった。哀れにも海パン一丁で天界を歩くことになった水泳選手などに比べればマシというものである。
「毎日下を、見ていますよね」
おずおずと言い出した女に、源吉は学帽のつばをいじりながら面映ゆげに鼻から息を細く吐いて笑った。
指摘の通り毎日源吉は下界を見下ろしている、が、天界仲間(死人達とも言う)達の多くが娯楽として眺めるのとは雰囲気の違いを感じて女は声をかけたのであ る。
「何を見てるんですか」
「…弟を」
「弟さん」


源吉が膝をついて座っているのは蓮の浮く池のほとり。
池を覗き込めば下界が覗ける、見たいものを脳裏に描けば水面へ映る。毎日源吉はこの池のほとりに膝をついて、弟の様子を見ているのだ。
未練が残るし、手助けは出来ないからと親切な人間は源吉に、下界の親類を見るのを止めるように言ったが源吉は聞かない。
天界に暮らす人間たちはやり残した趣味や、好きなものを食べたり他愛ないおしゃべりをしたりと楽しく過ごしているのに、一人池のほとりへ膝をつく源吉は図 体のせいもあって結構目立つ。池のほとりで生への執着や未練から下界を眺める人間もいないことはないが、源吉の表情はどこか誇らしげである。

「源次ってんですがね、これがしょうもねえガキで…ついつい見ちまうんです」
「弟さん、源次君と言うんですか」

女の細い指先が水面へ触れる。水面に映っていた富樫の顔が細波に揺らいだ。源吉は頬にふっくりと満足そうな笑みをたたえて水面を見下ろす。

「ワシが行っていた塾の、塾長の秘書になったようで」
「まあ」
「ちったぁ成長したって事みてぇで、ワシも安心しました」
「弟さん、たくさんの人に囲まれていらっしゃるのね」

覗き込んだ水面では源次が友人たちに囲まれて、焼肉屋で大盛り上がりをしている。女には音は聞こえないが、その騒がしさが聞こえているかのように源吉は苦 笑した。音が聞こえるらしい源吉は耳の穴を小指でほじりながら呟く。

「ダチに恵まれて、源次ァ幸せモンですよ」
「そうですね…うらやましい」

ほっそりとした指先を女は胸の前で組んだ、女はピアニストである。ピアニストと言っても最後まで芽が出ず、今着ているドレスも一着きり持っていたステージ 衣装であった。女には孤独のイメージしかない、水面に映る青年はたくさんの友人たちと馬鹿笑いをしているのがどうにもまぶしかった。
さきほどと比べれば砕けた口調で源吉が一人一人、源次の周りに居る塾生達を指差して、こいつが桃、こいつが虎丸、と名前を教えていく。いずれも酒に真っ赤 になって、グラスを砕かんばかりに乾杯を何度も繰り返しては肉をむさぼっている男達。

「こいつらがまた、いい奴らでな。今日が土曜日だからって集まったんじゃ」
「土曜日?」
「ああ。ワシぁこいつと二人暮ししとったんだがそりゃあ貧乏で、土曜日は泊りがけで現場に出とったんじゃ。だから土曜日は…人恋しいみてぇで」

声は次第に小さくなる。しょうのねぇ、と呟く声は愛しげだ。学帽を引き下げて目元を隠している源吉を、女は優しい笑みで見守った。
真っ青な清清しい空を軽く見上げてから女は眼をそっと閉ざす。

「それを感じて、こうして集まる友達がこんなにたくさん居る――それはとっても、とっても、素敵なことですね」




空鼻をすすって、源吉は軽く頷いた。
雲が一つ、真珠色の雲が一つ転がった空は変わりなく青い。
モクジ
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