なじってハニー
小さな雑居ビルの一室、簡素ながらも給湯器にトイレ付き。ざっと雑巾がけを終え、格安で買い上げた緑のビニルのソファ一つ。
ようやく根城を手に入れたその充実感にゆっくり浸るほど伊達は自分の人生で手綱を緩める男ではない。
さてそれならば次はどうすると既にその瞼の向こうチカつく瞳は燃えている。
常に貪欲であれ、
常にスマートであれ、
相反するこの二律をきっかと胸に抱き、ついでに槍も抱いて今日も伊達は一つぽつりと置かれたソファに眠る。
雨が降り出した。春ざんざんの雨である。伊達はしっかりと槍を右腕に掴み、眉間に皺を寄せて眠った。
午後八時に伊達の世界は幕を下ろす。
再び幕が上がったのはたったの一時間ほど後の事だった。窓の外に目をやる、時計はまだ買っていない。しかし体が時を知っていた、ちらり窓の外に目をやれば
都会の埃に汚れきったガラスを雨が粒でなく筋となって流れ落ちていくのが見え、雨の勢いが衰えていないことを知る。
そして雨音と外の喧騒の他もう一つ先ほど眠る伊達の耳に届く物音があった。
(エレベータが、止まったな…)
小さな雑居ビルの六階には伊達が今寝ていた事務所しかない、外にスナックの看板も無い、他の階と間違えたなら見るからに商売ッ気の見えないフロアに慌てて
戻っていく気配がしてもよさそうなものである。だのに、
(……まだ看板も出してねえのに、気が早ェことだ)
雨に濡れた靴音が、する。まっすぐに向かうでもなく様子を確かめるように、まるでモデルルームを見学する人間のようにゆったりとした足取りで一番奥のドア
へと近づいてくる。
(…まあ、ヤクザがヒマでいい筈もねえ)
伊達はむっくりとソファの上に起き上がった。体脂肪のほとんどない上半身は裸であった、枕代わりに頭の下へ敷いていた白いシャツを羽織る。せめて色のつい
たシャツはヤクザとして揃えるべきか伊達は迷ったが、顔の傷でそれとわかりそうなものなので後回しにしていた。
白いシャツ、ジーンズ。足は素足、手には槍、それだけの男である。
だが、伊達臣人であった。煙草の吸殻を入れたコーヒーの空き缶をつま先でそっと倒さないようにのけてからドアへと向かう。
気配は一つ。
伊達は気配を隠さない、遊びに行くように気楽で気軽、奔放に気配を知らしめている。
少しでも武術を齧った人間であればドア一枚を隔てた中にいる男がどんな猛獣よりも恐ろしい存在であることが知れるだろう、恐るべきものである、
しかしどうにもむずがゆいほど魅惑的な闘気で、敵わないとわかってなお挑みかかりたい気分に駆られる気配であった。
来るかよ、
来るかよ、
胸が躍り、伊達は笑った。
夜食にいいか、程度の気分で伊達はドアを大きく開け放つ。
「よう、設立おめでとう。ついでに傘も無いし泊めてくれ」
夜食どころか、満漢全席以上の食べ応えのありそうな元男塾総代がずぶ濡れで立っていた。伊達がドアを閉めようとノブを掴む手を引くよりも早く、桃のつま先
が食い止める。伊達が舌打ちすると桃はなおさらに笑った。
「……帰れ、」
「冷たいことを言うな」
いかにも憤慨した様子で桃は伊達の肩を軽く小突き、さっさと伊達の根城へ踏み込みやあ眺めが良いだろうなとテキトウな事を言った。新宿にあって六階程度で
展望も何もなかろうと伊達は更に唇を歪める。
「いい事務所だな」
「……ありがとよ」
虎丸あたりがニヤつきながらそう言ったらたちまち伊達の足が尻へと飛ぶ、しかし桃はまったくの裏無しでそう言っているのがわかるので伊達はあえてそう応じ
た。桃はビニルのソファへと濡れたスーツのまま腰を下ろす、ベシャリと濡れた布が派手な音を立てる。
「濡れた服で座るな」
さっき掃除を済ませたばかり、部屋の隅には絞った雑巾がまだ生乾きであるのだ。
「伊達、こっちに来てくれ」
桃は微笑を吹き消してそう伊達に頼んだ、声色は青く沈んでいて伊達の文句の口を塞ぐ。
伊達はフンと盛大な捨て息を吐くと桃の隣へと腰を下ろす。肘掛にさっきまでしていたように背中を預けて脚を桃へ向かって投げ出した、桃の濡れた太ももの上
に長長と伊達の脛が乗っかる。桃は冷たい指で伊達の足首を掴んで持ち上げた、しげしげと足の裏を覗き込む。子供が蝶蝶のつくりを眺めるような無垢なる動作
であった。
「なんだ」
「今日掃除したのか」
「ああ、」
「真っ黒だ」
足の裏のことを言っているのである。用件も言わずに伊達に触れるのは桃の常と言ってもいい、そのたび混乱させられて奪われるだけ奪われるのは本意ではな
い、鬱陶しい野郎だと伊達は唸る。
伊達は足首を掴んだままの桃を、その沈んだ顔を蹴飛ばすつもりで足首を捻った。たやすく避けられて、恐るべきことに舐められた。
足の指をではない、指なら幾度も舐められた。指の股まで舐められたこともある。
しかし桃の、指なぞよりもよほど熱い舌が這ったのは足の裏、今の今桃が真っ黒だと言ったばかりの足の裏であった。
これには全身これ肝であると上級生のお兄様方に呼ばれた伊達も仰天した、仰天して脚をばたつかせ今度こそ桃のこめかみの辺りを蹴っ飛ばした。
桃はぬいぐるみのようにどちゃりと床へ、伊達の磨いた床へ背中から落ちた。落ちたまま桃は自分の顔をスーツの袖で隠したまま起き上がってはこない、手を差
し伸べて起こしてやるほど伊達は優しくは無い、せいせいするとばかりに脚をソファに横断させて伸ばしきり、肘掛を枕に寝そべった。
「冷たい奴だな、俺がこうして今床で冷え冷えしているっていうのに」
くぐもった声が這い上がってきた、谷底に突き落とす勢いで伊達は声を冷やす。
「そのままくたばれ」
「酷いことを言うな」
「うるせぇ、朝になったら帰れ」
「人の作った朝飯が食いたい」
「吉野屋に行け」
行け、と言っておいて伊達、あのカンナくずみたいな薄っぺらの牛肉が出汁にちりちりとなったあの牛丼が無性に食いたくなる。明日朝一で行こうと決めた。
「酷いな、せめて朝定食ぐらいは」
「…オゴらねえぞ、桃」
桃は先ほどと比べると声にハリが出てきた、何がきっかけだかわからないが桃は浮上したらしい。
「いい男だな、伊達」
「まあな」
フッフフ、桃は愉快そうに身をよじった。まるきり子供のようである、伊達は桃に対して自分を過小評価することは決してしない。それは自分のため以上に、桃
のためでもある。しかし伊達自信それを無意識にやっているし、意識したところでそれを口にすることは決して無いだろう。
「俺はどうだ、伊達」
「てんでなってねえ」
「酷いな」
「眉が太ェ、オマケに図図しい」
「そうか?」
「空気が読めないところもあるな」
「そうか?」
「白白しい」
伊達は尻の下でつぶれているだろう煙草のパッケージを身をよじりながら探す。雨音は少しも遠慮をしないで飛び込んでくるまま。
「もっと言ってくれ、罵ってくれ」
背中だけでなく脳天からつま先まで全力疾走した悪寒に伊達は探り当てた煙草のパッケージを桃へと投げつけた。桃の右手がひらめいて、ごちそうさまと残り少
ない一本を抜く。唇にくわえながら火を貸してくれとのたまった。
「帰れ!気色の悪い野郎だ」
「ああ、いいな」
桃はうっとりと目を細めて、唇の煙草を微笑みに揺らす。伊達はソファから起き上がると恐ろしいものを見るように床に伸びた桃を睨み下ろした。
「頭が涌いたか、そういや春だったな」
「もっと、」
桃は火のついていない煙草を軽く吸ってねだった。
「もっと邪険にしてくれ」
「鬱陶しい野郎だ」
本心ではあったが、余計に桃を喜ばせることになる。伊達は別に桃のためではないがそれからしばらく桃を罵って、早く帰るように追い出しにかかった。
雨が弱まった。それを待っていたように桃はぽつりと呟いた。
「俺が政治家だって知ると、大歓迎をしてくれる」
――俺がヤクザだと知ると、大抵関わりあいにならないようにしようとするぜ。
「贈り物やら、接待やら」
――そのうちタマゴでもぶつけられるかもしれねえな、だがさらにそのうち、そんなこともできねえぐらいに上ってやる。
「俺を褒めるんだ」
――人でなし、人間のクズ、ヤクザ者。
「俺の外見や学歴、そんな…俺にとってはどうでもいいようなものを褒めるんだ」
「てめえはどうされたいんだ」
伊達は桃の言葉を遮った、桃はさあなと首を傾げると湿っぽくなったらしい煙草を唇から外す。よいせと起き上がるとグレーの床には桃の人型が出来た、ビニル
テープで囲めば死体発見現場の出来上がり。
「さあな…お前に会って、お前と口を利きたかっただけかもしれねえ」
「迷惑な野郎だぜ」
「お前の口は嘘がなくって、スカッとするんだ」
笑った、桃は学生時代となんら変わらぬ清い笑みを見せた。ポスターでテレビでは見せない笑みである。伊達がこの笑みに弱いのを知っていてやっているのか、
桃のみぞ知る。
「俺はスカッとしねえよ」
なんだか疲れた、腹も減った。伊達はソファに伸びた。天井の蛍光灯は伊達が取り替えたばかり、びくとも震えずに光っている。
太陽に代わる光源が翳った、人の型に、先ほど死体発見現場を作ったのと同じ型が伊達の光を遮った。
「なんだ、」
ちょうど伊達に覆いかぶさるように桃はソファに上がった、桃の前髪から一滴雨水がぽたりと伊達の首筋へと落ちた。体温にぬくめられた水滴の感触に伊達は顔
を背ける、嫌悪というか面倒というか、ともかく好意ではない色で表情は彩られている。
「………おい、桃」
「お前の本音を聞けて良かった、明日は俺が朝定食おごる」
「そりゃあ」
良かった、と言いかけた伊達の唇はふさがれた。勿論桃の唇でである。桃が伊達の言葉を遮ることは少ない、その数少ない機会に活躍するのは桃の唇であった。
「本音が聞けて良かった、それじゃあ次は―――お前の本心が聞きたい」
意外に不器用な桃の指先がもどかしげに、濡れたネクタイを解くべく活動を開始。水滴をのせた睫毛が震えて、眼差しがさつさつと涼やかに微笑んだ。
雨上がり、約束通りに伊達は朝定食の鮭にありつけた。
高い鮭である。
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