いつか見た夢
空は淀みなく晴れていた
海は静かに凪いでいた。
電車は海際を走り、春の陽光を波の頭ひとつひとつに浮かべる優しい海が窓から望めた。
海育ちの富樫はさして感慨もなく、眩しいなと文句を垂れて、窓の日よけを下ろそうと腰を浮かせかけた。
が、ボックス席に向き合った桃が窓枠へ肘をついて、波と同じ光を眼に宿してそれを静かに眺めていたから、富樫はよした。
富樫は浮かせかけた尻をふたたびボックス席の硬い座席に落ち着けると、海を眺める桃を眺めた。
窓は開けていない、まだ寒い頃だった。
風は吹き込んできていないのに桃のくせのある前髪は時折静かに揺れて、睫毛が震えた。
外の海は見た目とても温かく、慈愛に満ちていそうに見えるのだが、その実身の凍るほど冷たいことを富樫は知っていた。
それなのに連れの桃はそんなこと知らない様子で、海をあたたかく眺めているのがおかしかった。
(こいつ、海あんまり知らんのじゃ)
ふふふ、と富樫が笑うと桃がようやく富樫を向いた。
「なんだ、何かおかしいか?」
「いんや、それよか――一個食ってええぞ」
富樫はわらづとからゆで卵を差し出した。旅のお供といえばやはり、冷凍ミカンかゆで卵が定番であった。
が、まだ早春を一月後にしたばかり、売店で買ったまだぬくいゆで卵で富樫は先ほどから暖を取っていた。
「ああ、もらうぜ」
桃がゆで卵を一つ手にして、もう一度海を眺めた。
唇が小さく震えて、
「どこへ行くんだろうな」
富樫が聞き返す前に、電車が減速を始めた。
駅が近づいたのだ。
空は淀みなく晴れていた
海は静かに凪いでいた
駅ではほんの数十秒しか停車しなかった。人の乗り降りの少ない、無名駅だった。
富樫はのそのそと未練らしく動き出した電車に揺られ、ふと俺はなんだって桃と連れ立って電車に乗っているのだろうと考え始めた。
答えを探していたわけではないが、富樫の視線は桃へ向かった。
桃が海からまた、富樫へ向いて、
「どうした?」
くすぐったそうに微笑んだ。
富樫はようやく、自分がひたむきに桃を見つめていた事を知った。
「いや、なんだって俺ァてめぇと――」
ガタン、と大きな音が富樫の言葉を遮った。
桃と富樫、ボックス型の座席から通路へ首を伸ばして様子をうかがうと、
「どうも、すみません」
大柄な学生服姿の男が背中を富樫と桃へ向け、中年の女へ謝っているのが見えた。
足元に男の物らしいカバンが転がり、どうやらぶつけてしまったらしいことが伺えた。
「よいしょ」
のっそりと男が網棚へカバンを載せると、電車がそれを待ちかねていたかのようにぐんとスピードを上げていった。
おっとと、男がよろけて、どすんと大仰な音を立てて座席に収まったらしかった。
ぐん、と富樫は座席に押し付けられて、小さく声を漏らした。
空は淀みなく晴れていた
海は静かに凪いでいた
この海はどこまで続くんだろうか、富樫はぼんやりと思っていた。
知っているような気がした。
富樫の知っている海など、一つか二つしかない、ならばあの海だと思っていた。
と、
電車内にいきなり冷たい風が勢いよく吹き込んできた。
海のあたたかそうな顔が嘘だったとよくわかる冷たさに、車内の人間はウッと呻いて首をすくめた。
誰だ、
誰だ、
誰だ窓ォ開けやがったのは、
そんな剣呑な視線が行き交った。
富樫の正面に座っていた桃が顎をしゃくって、先ほどの男を示した。
なるほど富樫の視線の先で、学ラン姿の男がガタガタと立て付けの悪い窓を不器用そうに持ち上げていた。
腰を浮かせて眺めた富樫は男の頭に自分と同じような学帽が乗っかっているのを見つけ、寒い中窓を開けようとしている男の愚行への怒りがしぼんでいった。
男がようやく窓を開け終えたと同時に列車がトンネルへと突っ込んだ。
酷く大きなわらんわらんという割れるような車輪の音と、吹き込んでくる生臭い臭いに乗客たちが舌打ちを始めた。
何故だか自分が舌打ちをされているようで、富樫は落ち着きを無くして学帽を下げた。
トンネルから電車が出るや、学ラン姿の男が手に紺色の巾着を手に、外を睨みつけて仁王立ちになった。
電車がいくら揺れようが、男の背中はがんとしていて、一歩も間違えないでいた。
富樫は吸い寄せられるようにその背中を睨みながら、我知らず立ち上がりかけ、
「富樫、揺れるぞ、座れ」
そう言われるまで、自分がいつ立ち上がったのか自覚が無かった。
「わああああ―――っ!!」
歓声、いや、一人きりだ、蛮声だ。
車内の人間がみなぎょっとするような蛮声が声が響き渡った。
車内からではなく、車外、窓の外からであった。
海側の席の上客がなんだなんだと立ち上がり、桃もまた窓へ顔を近づけた。
「おい、あれは…」
「……?なんじゃ、桃、何が見え…」
真っ白な砂浜から上がってすぐ、列車から見下ろせる土手をの上を、自転車が爆走していた。
真っ赤に塗られたフレームの、サドルをやけに低くした田舎のヤンキーが好んで乗りそうなものだった。
列車と並走するように少年が一人必死にその真っ赤な自転車をこいでいた。
少年が顔を真っ赤にしながら、
「うわあああああ――っ!!万歳、万歳――っ!!」
息も絶え絶えに、万歳をがなっていた。
どうやらがなり声の声援は、この電車の乗客にあてられたものらしく、上客が互いに顔を見渡しあった。
果たしてその声援は先ほど窓を開けた不届き者、学ラン姿の男に注がれた。
男もまた窓から身を乗り出した。身を乗り出して、手をぶんぶんとその自転車へ振る。
「いいか――っ!!しっかり、勉強するんじゃぞ―――っ!!」
男の学ランの襟に締め付けられた太い首、そこから発せられた声は驚くべき声量で、一瞬走行音がかき消されるほどだった。
胆を潰されるよう、胸をグッと押されたよう、富樫は言葉を失って、桃の横顔を見た。
窓の外の少年は何かわめきながら、尚も自転車を必死に懸命に走らせていた。
男が濃紺の巾着を開く、先ほど富樫が売店で買い求めなかった冷凍のミカンが鮮やかにいくつも男の大きな手のひらに現れた。
そのミカンを男は上手投げ、大きく振りかぶって自転車の少年へ、力いっぱいに投げつけたのであった。
春のまだ冷たい日差しの中、鮮やかな橙色が空気を切って飛んでいった。列車が走っているためにたちまちミカンは視界から消えていった。
投げられた相手である少年はきっと愚かだった、自転車のハンドルを握るその手を離して、投げられたミカンへと手を伸ばしてしまった。
少年はバランスを崩し、ミカンへ飛びついた格好のまま土手から自転車ごと転がり落ちていった。
あっという間、それらは視界から消え、学ラン姿の男は目元を拳で拭うと車内へ一礼し、窓を下ろしたのだった。
富樫は結局男の顔を良く見られないままだったが、眼に焼きついたように離れないあの橙色に言葉を失くして、正面の桃へすがるような視線をむけたのだった。
桃はいつも通りに笑んでいた。
空は淀みなく晴れていた
海は静かに凪いでいた
唐突に富樫の目の前に真っ青な真夏の海が広がる。
ハッ、富樫が息を飲んでその青に驚いた。
ぎらぎらと欲深に太陽光に照る夏の海はうるさいようで、富樫の目は細められる。
「眩しいのう」
「まったくだな、よく晴れて」
正面ボックス席の桃も目を細めている、この男目を細めると子供が眠たい時とまるでかわらない。
扇風機が電車の天井でしきりに首を振ったが、暑さを覚えた富樫の喉は水分を欲した。
「茶、買うか」
「ああ、さっき買えば良かったな車内販売で。とりあえず――」
桃が富樫へ手のひらを向ける、その上には赤いネットにくるまれた冷凍ミカンが二つ。
富樫は遠慮なくそのうちの一つを出してまず桃の手に乗せ、もう一つをありがたく受け取った。
冷凍したためか皮は薄く、溶け出した霜に濡れて燃えるような橙色である。
さっさと皮を剥いて口に放り込んだ桃は、富樫がいつまでもそのミカンを見つめているのに気づいて声をかけた。
「なぁ富樫、食わねぇのか」
「……ああ、」
夢から覚めたような、いや、まだ夢半ばといった顔で富樫は桃を見てこう言った。
「桃、俺ァなんだって今、てめぇとこうしてるんだったか」
「うん?」
「前にも、……前にも、こんな事があったような気がするんじゃ」
桃は一つ頷いて、ミカンの房を口へと運んだ。
「……それを今俺も考えていたところさ」
「俺達、どこへ行こうとしたんだっけか」
しばらく考えてから、桃はいっそう生真面目にこう言った。
「さあ、だが…お前と俺なら、悪かねぇと思うぜ」
電車がスピードを落とす。
人の乗り降りの少ない、無名駅だろうか。
富樫はようやく、手のひらの中にあるミカンへ爪を立ててばりばりと皮を剥いた。
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