真白い立方体

真白い立方体、
真つ白い立方体、
わたくしの手にひつそりとおさまる立方体、
彼岸に行っていたうちにすつかり解けて消えてしまつた、
雪であつたか、
霞であつたか、
新たな立方体がひつようである
【立方体・白】


金ダライから引き揚げた手をじっと見る、マスラオをマスせんずったわけではないのでただ泡と汚水に塗れていた。真っ赤に焼けて、アカギレに血が滲んでい る。はあっ、と息を吹きかけると凍りついていた手の表面に赤い血がちろりと通ったように思える、がそれもつかの間。再び氷のように冷たい水に突っ込めば自 分の手がどこにあるのかわからないほど冷たさに同化してしまう。指先に確かに同級のフンドシを掴んで、石鹸泡立てて洗濯板に擦り付けているはずなのにまる で実感が無い。小さく丸まって、校舎の日陰の薄暗いところで富樫は皆のフンドシを洗い続けている。
(何の罰ゲームだ、こりゃよ)
富樫の顔は青柿より渋い、文句を垂れる唇は青くなりかけているが尖ったまま。るるるる、背中が震えて、それから盛大にくしゃみをした。飛び出した鼻をすす る、ウーウと意味の無い後追い声。校庭からは楽しげに何か遊び回る同級の声が聞こえるというのに、富樫一人日陰者となってフンドシを洗っている。理不尽だ と富樫はカサカサの唇で呟いた。実はさほど理不尽ではない。富樫は先日教官の部屋に忍び込んで秘蔵のスルメをかっぱらおうと画策、単身乗り込んだのだが、 計画に穴があったか漏れたか、敵教官たちの待ち伏せに遭遇あえなく撃沈したのである。尻に根性棒百叩きを食らい、その上今週一杯寮の洗濯物を洗うというペ ナルティを課されたということだ。自業自得だと伊達などは口に出して富樫を笑ったが、塾生達は内心富樫らしいなあと苦笑でもって見ている。それで現在富樫 は昼休みの時間を潰してのフンドシ洗いをしてるのであった。何十枚も汗と小便と、それからいけない毛にいけないシミで汚れたフンドシを洗い続けていた富樫 は情けなさに半笑いになってきている。どうして自分がこんなメにあわなければいけないんだと声を大にして叫びたい気分であった。が、繰り返すようだが自業 自得ではあった。自業自得こそが富樫さと、物凄く嫌な表現をされる男である。
ざんぶ。
金ダライを傾けた。泡と、茶色く濁った水が校舎に沿って巡らされた排水溝に流れていく。フンドシを洗っただけなのに、どうして水が茶色く汚れるのか、富樫 はなるたけ考えないように目をつむることにしている。ほぼ水が流れきって、くちゃくちゃに濡れてずっしり重なったフンドシの塊を手のひらで押しつぶし、更 に水を切る。そしてまた、凍結防止のためにぐるぐるとタオルと黒いビニルテープを巻きつけられた水道から冷たい水を勢い良く流してゆすぐ。富樫にしては慎 重に丁寧にゆすぎを繰り返す。もしフンドシに石鹸カスが落ちきらずに残っていたら、股ぐらがかゆくなって仕方が無いからである。おおっぴらに手を突っ込ん で掻くわけにもいかないのだ、男と言うのは繊細でヤッカイだと富樫は顔に似合わず可憐な事を言った。

指が赤と紫のマダラになって、冷たいどころか痛みしか感じなくなった頃になってどうにかフンドシのゆすぎを終えた。次は脱水であるが、ただでさえ手に力が 入らない。歯を食いしばって雑巾絞りをかけても思うように絞れない。力加減が難しい、力を入れすぎてシワを作りすぎると今度は干す時に面倒なのだ。なにか うまい方法はないものかと普段使わぬ頭をフル回転、回転。富樫はポンと回転に着想を得た。アル中のような震えがきている右手に三枚程フンドシの端をまとめ て掴み、しゃがんだままブンブンと振り回す。遠心力を利用しての脱水は富樫にしてはうまいことである、が、ツメの甘いのが富樫。
ビターン!
「ギャッ」
顔北風に張り詰めていた頬を、冷たくシバれたフンドシに思い切り自分が力を入れて振り回した分ひっぱたかれた。すんでのところでドロにフンドシを落とさず に済んだのは幸運であったが、涙がチョビチョビと出そうな痛みに富樫は鼻を鳴らして耐えた。
「おらあー富樫ィー!まだ洗濯終わらんのかーワレェー!!!」
寮の窓から顔を出して、打ちひしがれている富樫へ罵声を浴びせかける馬之助の頬は富樫と対照的に赤く火照っている。昼間っからチンチンの薬缶を乗せたス トーブの燃える部屋で、教官連中と一杯やっていたらしい。正月が近いのだ、富樫とていつもならケッと吐き捨てるだけで背中を向けるのみであった。が、一人 芯から冷え切りながらフンドシを洗っていた自分がみじめで、富樫は口を厳しく結んで脱水を済ませたフンドシをタライに入れて日向へと萎れながら歩き出す。 白っぽい冬の太陽も慰め程度に明るいばかり、夏の西日が恋しい富樫だった。
すん、鼻が鳴る。




物干し竿を物干し台に渡して、端からフンドシを干していく。パン、パンと自然にフンドシのシワを叩き伸ばしてから、これが兄の動作であったことを富樫は思 い出した。ほとんどは見ていただけで、たまに手伝いをするくらいだったが兄の背中を頭に描けるほどに覚えている。ワイシャツのエリを大事につまむ太い指 先、富樫の手ぬぐいと破れの繕われたシーツを一等陽の当たるところに干してくれたことも。柔軟材など使わないボロ洗濯機がやかましく脱水を終えて、バリバ リになった洗濯物を手際よく干す兄のように、富樫は兄と重なるようにフンドシを干していく。重ねない、シワを残さない。重たい部分を下に、そのほうが重み でシワが伸びる。
最後のフンドシを干し終えて、富樫はフンと満足げな息を漏らした。アゴのすぐ下でとめた学ランのエリを外してみると、汗をかいていた。
しかし指は相変わらず真っ赤に冷えて、アカギレはヒリヒリと痛む。木曜日で、月火水と不慣れな洗濯に晒された手は寿司屋の若い衆のように真っ赤に水焼けし ている。痛々しく腫れた自分の手を見ると気分も落ちていく。
だが、ようやく苦行から解放されたと自らを奮い立たせて富樫は憩いの談話室へ歩いていった。

談話室では桃が座布団を四つに折りたたんでいた。枕にするためである、最後の座布団だったので、富樫は自分の尻に座布団が来ないことを知った。
根性棒に叩かれ続けた尻は体重をかけられたくはないと悲鳴を上げているが、無いものは仕方が無い。桃に学帽のひさしを上げて軽い挨拶をし、談話室に人気が 無いのを幸いとばかりに長々うつぶせに寝そべった。顔を横にすると、窓から差し込む光は風に暖かさをかき消されることなくただ富樫に優しくしてくれる。日 焼けした畳の枯れた匂いを嗅ぎながら、富樫はとろとろとまどろんだ。
右手が温かいものに包まれた、富樫は右へ顔を向ける。桃が、自分の茶碗に手を伸ばす時のような気軽さで富樫の手をとっている。桃のルリと澄んだ目が揺れ た、痛ましげに富樫の荒れた手を見下ろしている。桃の手はしなやかで、あたたかかった。富樫の凍てた胸がとけゆく。
「この手、酷いな」
「おう、フンドシ洗いは堪えらァ」
眠気に富樫の瞼も口調も重たい。桃は何か言いたげに口ごもった。そして思いついたように学ランのポケットへ手を入れて、飴のようなパッケージに包まれた白 い二センチ四方ほどの立方体を掴みだした。それを富樫の右手に握らせて手を離す。富樫はなんだと起き上がった。
無色透明なパッケージを破り、白い立方体を取り出す。胡坐を畳の上にかいて、そのなんとも言えない柔らかな立方体を見下ろす。
「手に塗っておけよ、富樫」
「ヘ、クリームか何かか?」
「油分が足りないのさ、そんなアカギレじゃみっともなくていけねえ」
「誰のフンドシ洗ってこうなったと思ってんだよ」
「俺のだけ洗ってたわけじゃないだろう」
「まあそうだがよ、ありがてえ」

富樫はその立方体を両手に握り潰すようにして塗った。思ったよりも硬く、全て解け消えるまでには何度も指を絡み合わせたり、手のひらを擦り合わせたりしな ければならなかった。爪の一枚一枚に丹念にもみこみ、手首までもにまぶす。
テカテカと油分が富樫の手を覆った。水を弾きそうにテラテラとしている。桃はその富樫の手を満足そうに眺めた。
「よし」
「ありがてえ、にしてもこれは具合がいいや、どこで売ってた」
「スーパーさ」
富樫は目を伏せた。肌のあまり強くない桃が自分のために買い求めたのだとしたらそれはすまない気がしたのだった。
「そうかよ、で、いくらだった」
「タダさ」
「タダァ?おい桃、遠慮なんかいらねえから値段言ってくれや、俺だってちっとは持ってら」
「本当にタダなんだ」
桃が一度口から出した言葉を翻さない男だということは知っている。が、富樫が納得いくはずも無い。膝を立てて詰め寄る。窓の外でワンワンと教官たちが飼っ ている犬がにわかに喧しく吠え始めた。明らかにこの談話室目掛けて吠え掛かっている。富樫は仕方なく桃への追求を後回しにすることで、談話室の窓を開け た。無論、うるせいと怒鳴るためである。

窓を開けた途端、犬が四頭ヨダレをたらしながら飛び込んできて富樫に組み付いた。受け止めきれず富樫は仰向けにドサーッと畳に押し倒される。尻が悲鳴を上 げた。
「うおアアッ!!」
「富樫!大丈夫か!!」
桃が駆け寄ってきて犬を引き剥がす。人よりも動物に優しいと評判の男はいい子だと頭の悪そうに舌をベロベロさせた犬を抱き上げる。一頭一頭窓の外に追い出 していく。富樫は甘噛みと唾液でボロボロになった手を呆然と見ている。
「も、桃テメェ…さっきのァなんだよ!!!」
呆然となったのも一瞬、噴出したのは怒りだった。桃は豊かな頬の辺りにかげりを浮かべてスマン、と詫びた。詫びられるとますます富樫としてはあの白い立方 体の正体が不安になる。
「なんだったんだよアレは!!」
「いや、精肉コーナーにある…」





すき焼き、焼肉、ステーキなどにご自由にお使いください!




「牛脂か!!!」
富樫は目を剥いた。
「すまん、お前の手があんまり荒れて不憫だったから…」
「なんだってそんなものポケットに入れてるんだよ!!」
富樫は掴みかかろうとした。が、自分の手が牛脂でギタギタなのを思い出して頭突きをかます。桃は額を押さえて苦笑した。
「最近シジュウカラをよく見るから、やろうと思ってな」
「バァロォ!」

富樫はもう一度頭突きをかました。桃はそのまま頭を胸に抱きかかえて受け止める。すまんすまんと詫びる桃の声は福福と笑いに満ちている。

その日富樫は三度犬に追われ、その上触るはしから窓ガラス等をギタギタにしたため、更に一週間の掃除を追加された。
モクジ
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