踊るタイガーアンドドラゴン

辞書というものがこの男塾にあるのは、どうもその角で もってゴスンゴスンやらかすためらしい。
ついでに枕にもなってちょうどよい高さ、役立つ本である。

男塾一号生、虎丸龍次。言いつけられた漢字書き取りの課題を横にうっちゃってお休み中である。
ぐごご、ぐうぐう、
ぐごごご、ぐうぐう、
一定のリズムで上がるイビキ、それはやかましいものだったが不健康とはかけ離れ、昨今問題になっている睡眠時無呼吸症候群の悲鳴のようなイビキとは似ても 似つかない。

飯の支度が進んでいる。漂う匂いは味噌である、男塾で何か香ばしい匂いを立てるものは大概味噌で、他は醤油が焦げただとかそういったところだ。
虎丸の丸い鼻がひくんひくんとうごめいた。しかしまだ目を覚ますには至らない。いただきまーすが聞こえてきたら飛び起きて、それからダッシュで食堂へ。そ れで十分だと思っている。
書き取りの課題、ガリ版刷りのプリントには『とら丸りゅうじ』と名前を書いて、それから課題一の江田島平八を終えて、課題ニの級友の名前を書くを終えたあ たりで鉛筆が止まった。
夢にはたくさんのカレーパンが出てきて、揚げ立てアツアツ。
夢にはたくさんのしょうが焼きが出てきて、特盛ごはん。
夢にはたくさんの豚汁が出てきて、七味をぱっぱ。
夢にはたくさんの肉うどんが出てきて、とろろ昆布のせ放題。




「ぬしよ、ぬしよ」
ごうごうと冬のつむじ風のような声が虎丸の前髪を吹き上げた。やけにカビ臭い風である。
「あるじよあるじ、我らのあるじ」
真夏のエアコン室外機のような熱のある声が虎丸のもみ上げを絡め取った。やけにこちらもカビ臭い風である。
呼ばれて虎丸、目を開く。あるじと呼ばれるのもぬしと呼ばれるのも心当たりはなかったが、虎丸は何故だか間延びした声を上げて身体を起こす。
机の上のガリ版刷りのプリントにはヨダレの染みが広がっていた。とろろ昆布を欲張った辺りまでは覚えていた。
ぱちぱちと瞬きをすると、まだ夕日は落ちきっていない。六時を過ぎたというのに。
梅雨とはいえ晴れていれば夏の日の長さが虎丸にも分かった。

「ぬしよ、どうしてぬしは我らを避けるのじゃ」
ぴょこりと虎丸の前、プリントの上を虎が駆けた。屏風に描かれる立派なものではない、輪郭がいびつに歪んでそのくせ丸々としていて、やたら丸々と目のでか い、縞の入り方も適当で五歳児が描いたような。猫と虎との間のような手足の短い小さな虎が駆けた。
「あるじよ、わし等をもっと誇らぬか」
ふわりと虎丸の前、プリントのヨダレ湖の上を龍が飛んだ。中国人が袖に両腕突っ込んで奉るような堂堂たるものではない、尻尾はやたらピロピロと細く、目が つぶらで、緑のうろこは手抜きのように少ない、ドラゴンボールの神龍を真似して描いて見て途中で飽きた、そんなしょうもない龍が飛んだ。

虎がごうと蒼い息を吠え、龍がぼうと紅い火を吐いた。

「………ナニ?」
虎丸、まるきり寝ぼけている。虎も龍も恐いだとか立派だとかそういうものとは無縁で、漫画なものだから目の前でごうごうぼうぼう息巻く二頭をぼんやり見て いた。

「ぬしは、我らをしたがえしものぞ!我らをしたがえたぬしはキングであるぞ!」
虎が吠えた。キングのあたりがやけに上っ滑りである。
「わし等をもっと、もっとアッピールするがよかろう!」
龍も吠える。アッピールの発音がやたらネイティブであった。
虎丸も吠えた。もとい、あくびをした。鼻がうごめく。夕食何かな、呑気にもう一度あくびをした。

「聞いておるのか!」
龍がかっ、と虎丸の顔面の前で口を開けた。確かに龍の口であったが想像力か何かの欠如かで、その口の中は適当に赤かっただけだった。
紅い火花が虎丸の前髪をちりちりと焦がす、たまらず虎丸は覚醒する。
「ギャッ!な、ナニすんじゃい!!」
「ぬしが我らを無視するゆえ、あまりのことに飛び出てきたのだ!」
「わし等をもっとあるじに知ってもらおうと思うたのよ!」
虎と龍と虎丸龍次が騒ぐ、それはとてもやかましい。
ぎゃんぎゃんと火を噴き風を起こし、教室は風雲乱舞と化す。

「とにかく!俺の名前が最高にカッコイイって事じゃろ?」
「しかり!」
「さよう!」
虎と龍が大きく頷いた。虎丸もそれには満足そうに不精髭の顎をなでさする。
「剣桃太郎より?」
「剣とな」
虎が唸った。青白い火花が散る。
「桃とな」
龍も喉を鳴らす。紅い火の玉が膨れた。

「剣すなわち太刀よ、力よ」
「桃は実りよ、聖なる果実よ」
「おお、それってスゲェってことか」
「しかり!」
「さよう!」

ふうん、と虎丸は頷いた。ふと頭にあの憎たらしいオットコマエの顔がよぎる。

「のう、そんなら伊達ってナァ、どうじゃ」
「文字一文字ではなく、伊達という名前に宿っておるぞ!」
「そりゃあもう、オットコマエということよ!」

「………へぇ、伊達ってのはオットコマエって事かよ」

面白くは無いが、それはすごいな、と虎丸は思う。





「なんじゃい、伊達はオットコマエだから伊達なんか」

起こそうと伸ばした手が止まる。急に名前を呼ばれ、伊達は手を引っ込めた。
そろそろ飯だから呼んで来てくれ、呼ばないとうるさいから。そう言われて渋渋教室までやってくれば虎丸はぐうぐう寝ている。
殴ろうか、そう思って手を伸ばした途端やけにはっきりと寝言が伊達の名前を呼んだ。鼓動が躓く。

「オットコマエって、伊達ちゅう意味かよ」
誰かと喋っているかのように、虎丸の言葉は明瞭である。日が暮れた、紫色の空の端にまだピンクがしがみついている。
逆だ。伊達が反射的に思いかけて、眉間に皺を寄せる。

自分の名前は自分のものではない。それは伊達の胸の決して浅くは無い部分に影を残していた。
名前、魂に刻むような固体識別のそれすら誰かから奪った自分は何者でもないとも。
しかしそんな女々しい感情は切り捨てるべきだったし、今更別の名前を奪うわけにもいかぬ。

「すげー…伊達、オットコマエで良かったのう。名前がオットコマエでも、恥かかんでよかったのう」

にしゃ、と虎丸が笑った。握ったままの鉛筆が線を引っ張る。
伊達が腰を屈めた、プリントの上に書かれた、

『とら丸 りゅうじ』

に視線を落とした。優しい海のように伊達の瞳は凪いでいる。

「てめぇは確かに、龍で虎だよ…馬鹿野郎」

そっと虎丸の頭に手をかざす。きっと夕日と体熱でもってあたたかいだろう頭に触れそうな直前、虎丸が一応済ませた課題二が眼に入る。
『友だちの 名前を 三回 書く』
そこに伊達は、見慣れた、しかし未だ魂に馴染まぬ名前を見た。
虎丸のごちごちとした字でもって書かれた伊達の名前。むしょうに伊達は胸が痛い。自分は桃の名前を書いて、桃に含みのある眼差しで素直でないと咎められた のに対して虎丸のまっすぐさときたら。


伊達は更に顔を近づけた、誰かと喋っているらしい虎丸の意識がしっかり夢の中なのを確認してから。
息遣いがわかるところまで近づけて、とうとう伊達の唇が虎丸の頬へたどり着こうという寸前。

伊達は見た。


『伊達 巨人』


律儀に十回繰り返された、『伊達 巨人』
ふつ、と伊達の額に青筋が浮かぶ。


「誰が巨人だッ!!幼稚園からやりなおせ!!」
がしゃーん。虎丸はわけもわからぬまま窓から蹴り出された。
モクジ
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