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さても寒白 三日月さんは
それもそのはず やみあがり
【雨都都逸】
耳を澄ませてみる、獣がさても狂おしげに悶える声が鼓膜へと突き刺さった。
一声吠えるたびに喉が破れて血を噴き、息が詰まってまた悶える獣がいる。
六月、雨の夜である。
白粉雨が風もないというのにまっつぐに落ちず、窓へとへばりついていた。どれだけ耳を澄ませても雨音は耳へと入ってこない、
漆をどれだけ塗り重ねようとこれだけの黒は出せぬ、そんな闇夜に白粉雨は漂って更にけぶらせた。
おお、
おおお、
おおおお、
また、獣だ。けものではない、けだものだ。苦しみもがくけだものがここ、天動宮の中にいる。
並外れて大きく逞しい邪鬼であるが、その足音はごくごく小さなものである。ずしん、と巨躯をもって地響きを立てる事はたやすい、しかし邪鬼は目指す扉の向
こうを気遣って猫よりも静かに歩いている。その動作にぎくしゃくと肩肘張ったところはまるでない、あくまでも自由に脚を運んでいるだけ。
武具も防具も帯びて居ない、簡素なシャツにパンツ、どこにでもある有り触れた(しかしサイズは大きな)ものである。
しかし邪鬼は大豪院邪鬼である、何が、どこが、そんな枝葉ではなく幹から、いや根から邪鬼は大豪院邪鬼である。その根を育てたは大豪院家、王者の土壌であ
る。
邪鬼が向かう先、小さな扉の前には二人が控えていた。邪鬼の腹心である羅刹とセンクウである。
邪鬼の視線が二人に届くと同時に彼らが一歩進み出た、邪鬼の脚が止まる。
「………」
帝王は先んじて問わない、それは優秀な臣下がいるからである。
優秀な臣下がいるならば、彼らは帝王の疑問を先回りして述べるだろう。
邪鬼は帝王である。
「……また、苦しんでいるようです」
滑らかなうつくしい肌をしていたセンクウは、顔半分に包帯を巻いている。伏せた目は左目のみ、それでも金色に透けた睫毛に陰りは無い。
「既に三日、何も口にしていません」
普段わずらわしいと言って嫌っていたマントをぐるりに纏うは羅刹、おそらくは胸腹背中に火傷を初めとした恐ろしい傷があるからである。
「……そうか」
部下たちの報告を受けて邪鬼はわずかに首をめぐらせた、自らの肩にあるほぼ治りかかった傷が目に入る。ふ、と瞼が和らいだ。
ヒヨッコと甘く見ていた一号生との死闘からまだ日は浅い、硫酸の海へ落下したセンクウも、炎の中へ飛び込んだ羅刹もまだまだ生傷を抱えて療養している最中
であった。邪鬼自身痛みに眉を寄せる日日である、勿論人前でそうしたことをすることはなかったが。
三号生達の傷はこのまま療養を続ければさしたる障害も無しに完治するだろうと怪しげな中国人医師は言った、一人を除いて。
死天王を束ねる男、影慶である。彼の負った外傷は医師が治療したが、影慶の回復の最大の障害それは彼自身が腕へと振り掛けた猛毒であった。
普通なら死んでいる、そんな文句は男塾において白白しいばかりだが、こればかりは本当に助かったのは運が良かったと邪鬼も思う。
さまざまな毒をためすうちに、影慶が毒と馴染む体質に変じていたのが幸いであった。
しかし毒は毒、それも猛毒である。
邪鬼がたどり着いた廊下の最奥、ここは影慶の病室であった。
あの蒼鬱とした、陰りのある物静かな顔が邪鬼の目に浮かぶ。影慶が我を忘れた様など一度たりとも見たことはなかった、しかし今――
おおおお、
おおおおお、
おおおおおお、
あさましのけだものの如く、あの蒼い血管が透けるほど薄い色の額を持つ男がおうおうと吠え狂っている。今にも太い血管の切れるブツリという音が聞こえてき
そうな程であった。
すさまじい、耳を汚すような絶叫が切れ切れにひとしきり上がるとそれきり部屋の中からは物音が聞こえなくなった。
邪鬼の顔を羅刹が気遣わしげに見やる、いかついようでいてこの男は気遣いというものを自然に行う男である。
「どういたしますか、邪鬼様。…すぐには目覚めないかと思いますが」
「…一目見ておこう」
「しかし、」
首を横に一つ振って、できれば中に入れたくない様子の羅刹。そんな羅刹をセンクウはどこか哀れむようにして眺めている。
羅刹の気遣いの先は実は邪鬼ではない、影慶であった。
敬愛する邪鬼に、自分がけだもののように無様に苦しんでいる様など誰が見せたいだろうか。それも激しい痛みや幻覚に昼も夜もなく苛まれ、不眠不休の酷い顔
や汚れた身体を、誰でもなく邪鬼にだけは見せたくないだろうと羅刹は考えている。
その考えがわからぬ邪鬼ではない、一つ頷いて見せてから、
「先の闘いの結果を、俺は大将として見届ける必要がある」
静かな口調だったが、紛れも無く獅子の言葉である。羅刹もそれ以上は何も言わず、ただ軽く一歩を退いて道を明けた。邪鬼が進み出ようとしたと同時に、邪鬼
が歩いてきた廊下をかけてくる足音がした。
「邪鬼様!」
「卍丸、どこへ行っていた」
咎めるような羅刹の物言いもどこ吹く風、卍丸は邪鬼に向かって小さなガラスの瓶を差し出した。中身は暗い廊下に見えづらいものの、沈んだ黄金が見て取れ
る。
「調理場行って蜂蜜を貰って来たんです、水が飲めたらこれを渡してやってください」
「うむ」
邪鬼の手に渡ると蜂蜜の瓶は本当にいよいよもって小さくなってしまっている。
ドアを細く開いた。
けだものの匂いがする。汗と、垢と、体液の混ざり合った匂いが邪鬼の鼻をついた。
窓は締め切った上に厚くカーテンで覆われていた、明かりが影慶の毒になるとの配慮からである。
ほぼ完全と言っていい暗闇の中、邪鬼は迷い無く寝台へと向かう。邪鬼の目はただの目であるが、この程度の暗闇を見通せぬ目ではない。
寝台の側に立つと、ちょうどベッドを囲むようにして雪景色が広がっているのがわかった。
一瞬なんであろうと邪鬼の目が泳ぐ、しかしすぐにそれが痛みに耐えかねた影慶がズタズタにした枕の中の羽毛であるとわかる。
どれだけであろうか、その痛みは。
邪鬼はベッドサイドのテーブルに置かれた水差しを取って、側に準備してあった脱脂綿に含ませる。
死体のように眠る影慶の口元へ、その水したたる脱脂綿を近づけていった。
かさかさに乾いた唇はまるで血の色を浮かべていない、鼻からも唇からもなかなか呼吸を感じ取れないでいる。
唇にそっと、その脱脂綿が触れると唇が薄く開いた。貝殻の中身のように開いた部分はわずかながらも血色がある、邪鬼は安堵して詰めていた息をつく。
水をそうして繰り返し繰り返し含ませてやると影慶の険しい眉間がゆるんだ。邪鬼はべったりと脂の匂いをさせている前髪を払ってやり、かさかさとした頬を指
の背でもって撫ぜる。
影慶は目覚めない。ただ死んだように落ちている。
と、卍丸が渡した蜂蜜の存在を思い出して、ガラス瓶の蓋を開く。
人差し指と中指にたっぷりと蜂蜜をすくい、薄く開いた唇の中へと差し入れた。頬では感じ取れなかった人の体温が十分に熱すぎるほど口内にはあり、邪鬼の安
堵をより深いものとする。
さきほどの水に潤った舌に蜂蜜を塗りつけるようにして与えると、舌が息を吹き返したようにぐるりと邪鬼の指を締め上げた。
人差し指と中指へ舌がのろのろと絡みつき、蜂蜜をねぶる。
全てが無意識であろう、けだものの生である。
が、影慶の投げ出していた手が痙攣を見せた。
重たげに閉ざされていた目が、
かっ、
と見開かれた。けだものの目である、理性というもののないぎらぎらと切迫した目である。幻影を見てか、それとも痛みに狂ってか、それは判断がつかぬ。
開かれたのは目だけではない、口が大きく開くと犬歯が邪鬼の指に食い込んだ。狂人、けだものの力に手加減は無い。さすがに邪鬼の眉が寄った。
「影慶」
呼ばれても影慶の歯はますます食い込むばかりである、
「影慶、」
喉の奥から低い唸り声、けだものの声、鼻息は荒く犬のごときあさましさ。
邪鬼の力を持ってすれば影慶の口をこじ開けて指を取り戻すことも出来た。
しかし邪鬼が、大豪院邪鬼がしたのはただ宣言することだけであった。
「よかろう」
おしろい、白粉雨が散る夜。
おん、けだものが吠える。
「よかろう、手ずから蜜をやるでは不足、この指までも欲しいと言うならば……よかろう、影慶貴様はそれだけの男である」
よかろう噛み千切るがいい――
その言葉を聞いたけだものは、人にしか許されていないといわれる感情、表情、笑むということを見せた。
にんまりと笑った。
そうして、皮膚を食い破られて血を流す邪鬼の指を、いかにも名残惜しそうに舐めてから解放したのであった。
「という風に、邪鬼様は俺に手ずから蜂蜜を下さったのだ」
誇らしげ、というよりは自慢げに影慶は言う。聞き飽きた、という顔をできない羅刹はあいまいに頷く。
「それは良かったな」
「ああ、でな、羅刹」
「…ああ」
「邪鬼様の血を、俺は飲んだのだ」
「だからどうした」
「実はな、身長が六センチもその直後伸びたんだ」
「!?」
特許取得成分配合。
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