雨月水晶譚

『お若いお坊さん、アタシの顔、どう?』
『生憎拙僧、目が見えぬ』
『そりゃあ、良かった』
女が手を伸ばしてきた。

【醜女】


それは修行にと篭ったある霊山でのこと。
五月の夜であった。満月である、無粋な人間でもへたっぴいな一句を読んでみようかという気分になりそうないい夜であった。
山奥の小さな庵にいる月光は盲目である、しかし手製の竹笛を少しばかり吹いて夜を楽しんでいた。
嗅ぎ取った夜風の中には雨の匂いがある、肌に触れる夜気もひんやりとし始めたのを感じ、残してあった飯を雑炊にすることを決める。笛を置いて庵の中央にあ る囲炉裏に鉄鍋をかけた。
味噌、
きのこ、
干し芋、
干し肉、
その他色々集めた山菜を適当に鍋へと放り込み、かき混ぜながらしばし待った。
鍋がふつと動く音に耳を傾けている。囲炉裏の火がゆらめくたびに月光の白い頬に朱火が照り映えた。

タ、

常人より何倍も鋭い月光の白い耳は、屋根を打つ最初の雨音を聞きつけた。それにかぶさるようにして雨が降り始める。気温はどんどんさがっていった。肌寒さ を感じ、着ていた胴衣の上に何か羽織ろうかと膝を付いて立ち上がったところ、何か物音がした。

ごとごとと、誰かが力なく庵の戸を叩いている。月光は指を伸ばして庵の板床に投げ出してあった棍を掴み、
「誰だ」
と声をかけた。雨音の隙間を縫うようにして、
「山道を迷ってしまったところ、雨が降ってきて難儀しております。どうぞ休ませてくださいまし」
細い女の声が返ってきた。月光は棍を握る指に力を込め、戸に近づくとからりと横へ開け放つ。
「女の身にこの山道に雨…さぞ大変であっただろう、遠慮なく上がるがいい」
盲目の月光に女の姿は見えない、月光の瞼が感じ取ったのは吹き付けてきた雨粒。それから鼻が女が焚いているらしい香の香り。
女は入れと月光が言ったのにも関わらず動きが無い、
「…どうした、」
「申し訳ありませぬ。あの、あなた目が――」
ああ、と月光は女の戸惑いを理解する。たしかにしっかりと閉ざされた瞼は盲目の人間のものらしいのに、それにしてはあまりに迷い無く戸を開けたり、見えて いるように女の方を向いてしゃべるものだから不思議に思われても仕方が無い。
「ああ見えていない、さあ上がれ。雨が吹き込む」
女ははい、とか細く答えて庵へと足を踏み入れた。月光は戸の横に退いて、女が靴を脱ぐのを盲目ではあるが見守っている。女とはいえ得体の知れない人間に背 を向けて板間に上がることを月光はよしとしなかった。
女が濡れたらしい靴を脱いで板間に上がったのを聞き届けておいてから月光も上がる。女が壁に背中をつけて座ったようであった、
「もっと火に寄ったほうがいい」
月光がそう言うと女が膝でにじりながら火に近づいた。かけていた鍋の存在を思い出して、自分も囲炉裏端へと腰を下ろす。
汁椀は修行中の身の月光、当然一つしかもっていない。仕方なく欠けた飯椀に自分の分をよそい、汁椀を女へと差し出してやる。
「さあ食え、味の保証はしないがな」
女は少し笑ったようだった。月光の思った以上に細い指が一瞬椀を差し出す自分の指と触れる、冷え切った指であった。
「ありがとうございます、お坊様」
今度は月光が笑う番であった。なるほどきれいに剃り上げた頭に盲目の、こんな人里離れた場所に一人篭っている月光は、さぞ墨衣が似合うであろう。
「フフッ、俺はこんな頭をしているが坊主じゃない」
更に年も告げてやる。
「まあ」
今度こそ女は声を上げて笑った。
「あら、まあ、ごめんなさい。わたし――」
「いや、いい。坊主頭じゃ仕方の無いことだ」
いいから食えとれんげを押し付けておいて、月光は自分の椀に取り掛かる。思った以上に煮詰まっていたらしく味噌の味が渋いほど濃くなっていた。
腹が満ちると安堵が生まれる。女はぽつぽつと話し始めた。

「近所に住んでいて、今日は沢にイタドリを採りに来たのです。けれど前に来てからだいぶ経っていたので奥へ奥へと迷ってしまって…」
「明日麓まで送ろう、この辺りにはイノシシも出る」
「ご迷惑をおかけします」
「いや、それより歩き続けていたなら疲れただろう、休むといい」

月光は自分が使う上掛けを女へと差し出した。女は恐縮していたが礼を言って受け取る、しかしいつまで経っても眠ろうとする気配がない。
どうしたことかと月光、もう一度眠るようにすすめようとして思い至った。

(なるほど、盲目とはいえ見知らぬ男と場所を同じくして、やすやすとは眠れないな)

月光は出来る限り優しい声を出す。
「これは配慮が足りなかった。すまない」
「!いいえ、いいえ、その…」
「いいのだ。そうだこの鈴を…」

月光は修行に用いていた小さな鈴を掲げて見せた。女の眼には囲炉裏の火に照る鈴が見えたことだろう。ちりり、と雨音や火の爆ぜる音にも負けずに涼しく鳴る 鈴を月光は自分の左手薬指へと結びつけた。

「俺が起き上がったり動いたりすればこの鈴が鳴る。ついでにこの棍もお前が持っているといい」
女は何も言わず、ただ深く頭を下げたようであった。その夜一度も鈴は鳴らなかった。



翌朝はすっきりと晴れ渡り、女を麓まで送ろうと申し出た。が、
「あら、雨では全く分からなかったけれど…ここからならわたし、道が分かります」
「しかし」
「いいえ、これ以上ご厄介になるわけには…今度改めてお礼に参ります」
「いや、礼には及ばない」
「いいえ、…それとも、ご迷惑でしょうか?」
「………いや」
月光は言葉を濁した。見えていなくとも交わした視線がむず痒いようで顔を背ける。
女にはわさび葉を混ぜた飯で握り飯を作って持たせてやり、その包みを渡す時に、
「俺は月光と言う…その、」
「月光様、私は……ユキメと申します」
「ユキメ」
「月光様、昨日の鈴を貸していただけませんか?」
「鈴を?」
「次に来るときには何か食べるものを持ってこようと思うのです。けれどお留守の時に来てしまったら戸口に置きますね、そのしるしに鈴を軒下に下げておきま すから」
「ああ」

鈴を借り受けて下山した女はそれからたびたび月光の庵を訪れるようになった。月光のために山菜を用いた手ずからの料理を持ち、何かしらの話をするだけ。
女に対して特殊な感情を持っているわけではない、そう自分に月光は言った。
しかし月光は当初一月の修行の予定を既に二月にかかろうかと言うところに延ばしている。
待ち望んでいるのは間違いが無かった。



ある日月光は下山し、麓の村に必要な物を買出しに出た。入山した時に物を揃えた小さな店へ出向くと、前回と同じ老人が店番をしていた。
「荒縄をひと巻き、それから炭を一箱」
注文を言った月光の顔をまじまじと見た老人は大声を上げた。
「お坊さん、よっく無事でしたなァ!」
だから俺は坊主じゃなあい、確か前回も月光はそう言ったはずであった。しかしこの手の人間は言っても無駄なことが多い、月光は何かあったのか尋ねた。
「何かあったなンてもんじゃあ無い、ワシャてっきりもうクリヌキにやられっちまったモンだと思ってましたがね」
「クリヌキ?」
「この辺りじゃあもう十人以上はやられっちまってる、妖怪ですよ。目ン玉をね、こうくじり取るってンだから恐ェ恐ェ」
「…目玉を」
「おお、お坊さんアンタそういや目くらでしたなぁ、そんなら妖怪も襲いやしねえかもしれませんね」
「なるほど、それでその妖怪は?」
「最近は襲われるのも少なくなったよ、お坊さんにも一応教えておいてやろうか」
「何をだ?」

鈴だよ、と老人は言った。

「その妖怪が来ると、りんりんと鈴が鳴るんだ。もし鈴の音が聞こえたらすぐ目を閉じて、瞼ァ手でもって押さえたまンまに、とにかく目くらめっぽうに逃げる のよ」


月光は炭俵を担ぐと礼を言って庵へと戻った。












ひもじい、
ひもじい、
ひもじい、
ひもじい、
見て、私を見て、

ひもじい、
ひもじい、
ひもじい、
ひもじい、
見ないで、私を見ないで、

わたしは月輪を跳んだ。












女はその日、コゴミの和え物とネマガリタケの味噌煮を持ってきた。月光は器を受け取りながら、
「いつもすまん」
と言った。
「いいえ、わたしも一人で暮らしていると寂しくなってしまって…月光様にお会いするのが楽しみなのです」
「そうか」
「はい、どうぞ召し上がってくださいな」
月光は女が釜からよそった飯を食いながらぽつりと言った。
「雨だな」
「はい」
女が来るのはいつも雨の日であったと月光は思い出す。味噌の匂いのほか、濡れた地面の匂いが忍び込んでくる。ほのかにカビの匂い、そろそろ布団を干す時期 である。
月光は眉間に皺を寄せた。うすうすわかっていたのだ。しかしケガでもしたのかもしれないと都合のいい解釈をしていたのだ。
目の見える人間ですら、見たいものばかりを見るのだというのに。
盲目の月光の視界は心そのもので全てが想像、それも月光が望む世界を自由に形作る。
状況を考えれば月光の、最も見たくない世界が、一般の人間が見て、月光の見えない世界であると予想がつく。
しかし月光には見ることができない、見えないのならばわからない。

―鬼と女は、目に見えぬぞよき―

月光は小さく呟いた。
女が顔を上げたらしかった。
「どうなさいました」
「クリヌキ」
「は」
月光は箸と椀を置いた。傍らに置いていた棍を取り上げる。
「……あの、月光様?」
「怪我でもしているのか?」
「いいえ、月光様。どうしてそんなことを?」
「血の臭いがする」
「―――ほほほ、女には障りというものがございます」
棍を床に立てて、月光は立ち上がる。女は未だに床に正座をしたまま首をもたげて月光を見上げている。
「出会ったその日から、ずっとだ」
「………」
「―――クリヌキ、しかし俺は別の名前を知っている。醜く蔑まれた女達が化け果てた姿――」
「………」
「『醜女』、男の目玉をくりぬく化生だな」




雨が突然爆発するように激しく降り始めた。視覚のない月光を助けているのは聴覚、触覚である。騒音は月光の妨げであった、しかし今月光の耳が聞き取るのは 女の息遣いだけである。雨音が耳に入っていないようであった。
「ほほほ、突然、何をおっしゃいますの?」
女の笑い声が不自然にひきつれた。月光の胸に広がる感情を、胆力でもって押し込む。
「この辺りに出る醜女、クリヌキが現れる時に鈴が鳴るそうだな。鈴の話が出たのは――お前がこの庵に来てからだ」
「………」
「目玉を、目玉しか食えないのだったな」

ごう、と音ではなく気が風となって月光の頬へとぶつかった。盲目の月光にも確かに『見えた』
床に座っていたはずの女の輪郭が一度小さく縮こまる。しかしそれは一瞬にして庵の天井に届こうかという大きさへと膨れ上がった。
女のあの華奢な身体はたちまちにしてぶよぶよと醜悪な、くすんだ緑色のゼリーのような柔らかさの巨体へ変じ、細くさびた声も野太いものへと成り果ててい る。たるんだ皮膚の表面にはぶつぶつと膿みを涌かせるいぼがあり、それが鼻をつくような臭いを生み出していた。
顔には黒い襤褸を被っている。鬼が吠えるとその襤褸が鼻息でぶわぶわと膨れた。


「おう、おう、見破ったか。坊主、カカ、そうだ、おれがクリヌキよう」
「……」
今度は月光が見上げる番である。囲炉裏の炎によって化生の影が大きくなったり小さくなったりと揺れて、影自体が生きているようでもあった。
しかし目の見えない月光にそれはまったく関係ない。しかし息づく化生の気配は肌が感じ取っている。
「坊主、何でわかった」
「ユキメ殿が名乗っただろう」
「ああ?」

化生が襤褸からこぼれた生臭い息を月光の顔に吹きつけながら身を乗り出す。月光は手にした棍の先で火影がおどろに踊る土壁へとけずりながら書き付けた。

『醜女』

その隣に、

『酉 鬼 女』


「酉…ユ、と向こうでは読むな。ユキメ、自分が醜女であると彼女は名乗ったのだ」
「おう、おう、なんと」
「醜い故に蔑まれ、虐げられて死んだ女に鬼が憑いて醜女となる…哀れな、」

鬼が身をよじった。影が躍る。

「おう、おう、何が悪い」

鬼が吠える。ごおおおお、と地響きのような音が庵に満ちた。月光はそれが何であるかはわからない。それは鬼の腹の音である。

「醜い醜いと石を投げ、苛め、散々に蔑んだ奴らから目玉をくりぬいて、何が悪い」
「……」

鬼の切れ上がった目尻から血が噴出す、血涙であった。血涙が床へぼだぼだと落ちていく。どんな顔をしているのかは襤褸が隠している。

「この女とてそうよ、身分の高い家に生まれついたまでは良かったが、婿に来た男には毎日火箸でもって打ち据えられたわ」

「………」

「しまいには女を作り、財産目当てにその女を井戸に放り込んで殺したのさあ」

「…………」

月光の顔に浮かぶのは痛みである。鬼が血涙を流しているのと同様に、月光の閉ざされた瞼には確かに涙がある。目には見えぬ、しかし月光は泣いている。


「おれがだから、味方になってやったのよう。おう、坊主、どうして醜女が目をくりぬけるか知っているかあ?」
首を振ったり、知らぬと月光が言ったわけではない。しかし鬼は続きを吠えた。
「おれのな、この布を取って顔を見せると誰もが醜さに目をカァッと開くのよ、あんまり目を開くから、零れ落ちるのよう」

それを犬のように拾って食うのだと、鬼は血涙を零しながら吠える。吠えるたびに肉がゆさゆさと震えて笑っているようにも、泣いているようにも見える。

「あさましかろう、あさましかろう、」
「…いいや、」

月光ははっきりと言った。
雨音が一瞬絶える。
鬼が静止する。


「目しか食らうことが出来ない、しかし人の目を食いたくはない。……哀れだ、」
哀れで、いとおしい。
呟いた月光は自分の瞼へ触れると人差し指で瞼を持ち上げて、中指をその中へとねじ込んだ。鬼が息を飲む、影が震えた。

眼疾にかかって目玉をくりぬいたその痕へ、瞼がへこまぬようにと収められた一対の水晶。それをぐるりと中指をかき回してくじり取った。
手のひらに転がすと、文字通り珠同士が触れ合う涼やかな音がする。その珠を鬼へ向けて差し出す。

「これを食らえ」
「ああ!」

月光が鬼の手のひらへと水晶を落とし、それをのろのろと鬼が口へと含んで飲み下した途端、鬼のではない、あの女の細い悲鳴のような声がした。その悲鳴に打 たれたかのように鬼の輪郭が大きく波打つ、そして皮膚がぶすぶすと煙を上げ出した。
苦しみ悶えて鬼が身体をよじるたびにその巨体が少しずつ萎んでいく、中から火にあぶられているような女の苦痛に満ちた悲鳴が切れ切れに上がった。

「ユキメ殿!」
それが真の名前ではないと知ってはいたが、棍を放り出して月光は名前を呼んだ。
縮み、もとの女の大きさへと萎むと、女は胸を押さえて涙を流す。月光はその傍らへと膝をついた。

「ああ、ああ、月光様…」
「苦しいのか、すまん、やはり俺の目は本物の目では無かったからか」
「いいえ、いいえ、わたしは――」



女が土気色の頬に微かな笑みを浮かべた。
「いいえ、わたし―もう十分にいただきました」
細い右手が上がる、その手を月光は捕まえた。力を込めて握るとずるりと腐肉が剥ける、既に女が死人であると視認はできずとも指が知った。
「………」
握った右手に何か硬いものがある、月光はそれを見えもしないのに覗き込む。
―――鈴。
空ろ、何も入っていない目が確かに見開いた。女が絶え絶えな息で告げる。
「また、お会いしたいです――それまで、お借りしておきますね」


いいとも、と月光が答える声を待たず、女はざらざらと腐り果てた。











「―――先生、それで?」
「それで、とは?」
じれったそうに少年が身を乗り出す。手にしたどら焼きは一口口をつけたっきり、雷電の語る話に聞き入ってしまっていた。
「それで、どうなったんです?」
雷電は茶を一口飲んだ。
「どうもせぬよ、フフフ、やはり生まれ変わってからの浪漫とやらを期待するか」
そうからかわれると少年は顔を真っ赤にして首を振った。
「そういうわけじゃあありません、けど――」
「けど?貴殿、この話をどう思う?悲しい話だと思うかな?」
「いいえ、ぼくは――よかったな、と思います」
雷電の目が春の海のように優しく揺れた。知性に光るその目が少年に注がれる。
「先生は、どう思いますか?」
おそるおそる少年が尋ねると、雷電はジロリと睨んだ。ヒャッと肩をすくめた少年に、雷電はおごそかな口調で、

「勿論、拙者とて浪漫を解する気持ちぐらい、持ち合わせてござるよ――貴殿と同じく」
少年は嬉しそうに笑った。
楽しいおやつタイムは終わり。少年は理科の宿題を見てもらう。








盲目の月光は時折立ち止まって、静かに耳を澄ます。
鈴の音、
鈴の音、
鈴の音、

鈴の音を、待つ。
モクジ
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