魔除けのルージュ
思えばあのサイコロは奴の手製だった。
今更になって気づく己の迂闊さに羅刹は奥歯をかみ締める。そして隣で呑気にさてどうすっかなどと言っている卍丸の呑気さにもだ。
羅刹、年齢不詳。
意外に気苦労の絶えない強面である。
事の始まりは、卍丸秘蔵のビニ本である。ちょっと食堂の机に置き忘れたらしいそれを(置き忘れるなそんなもの、と一応羅刹は咎めた)一号生の富樫がまんま
と見つけて懐に隠し入れた。そして夜それでもって色々して、それへ粗相をしてしまったらしい。
粗相、つまり引っかけて(何をとは流石に羅刹も聞かない)しまったそのビニ本を捨てようかと思いつつ何の気なしに裏返すとなんと黒々と卍の一文字。ナチよ
りもある意味恐ろしい一文字に富樫は恐れおののいた(名前を書くなと羅刹は叱った)。どうしたものかと虎丸に相談したのが富樫の運のツキ、うそのつけない
男二人揃ってどうしようかと考えているうちにまんまとバレてしまったとのこと。
「ここは男として怒るべきだと思うだろ、な」
な、ではない。自白した富樫を引き連れた卍丸はゴミ箱から愛しいビニ本を発見したそうである。変わり果てたある意味での恋人に卍丸は富樫を少しいじめた。
少し、も。
いじめ、も。
「可愛がってやった」
上記すべて卍丸の談である。羅刹は思わず、
「手を出したのか!」
と怒鳴った。卍丸は肩をひょいとすくめて、
「好みじゃねえ」
と答える。羅刹がほっとしかけたのもつかの間、
「だがまああいつが好みだってのもいる訳で…な」
へへへへ、とタチの良くない笑いを見せた卍丸に羅刹は身震いをするのだった。どんな男だろうが卍丸の口車に乗らない一号生なぞいない。それが富樫というの
であればなおさら。そんなもの信じるなよとわりに面倒見のいい羅刹は舌打ちしたくなるような酔狂に手玉に取られる男である。
その辺りがいいのだといえばそうかもしれぬが、ともかく羅刹は富樫が少しばかり、イタイ目にあったのはわかった。それがどんな目なのかはしらないが聞く気
は羅刹に芽生えなかった。
結局富樫も反省したようだし、この話はそれきりだと思っていたのである。
だが富樫には恐るべきお兄様がいらっしゃったのをすっかりと二人とも忘れていたのである。
「卍丸、羅刹。退屈だな」
そう話を持ちかけてきたのはセンクウであった。小春日和のうららかな日である。死天王のために設けられた十二畳ほどの一室で、テーブルはありの軽い食料も
ありのテレビもありの、一号生達がこぞって住みたがるような部屋で、こうセンクウは切り出す。
「だな」
卍丸はソファに長長伸びながら返事をした。羅刹は文庫本を読んでいたので特に退屈を感じてはいなかったが、
「どうだ羅刹も、サイコロで賭けでも」
と誘われてしまったので本を閉じた。
テーブルに三人揃って着くとセンクウは小粒なサイコロを二つ取り出してカランカランと手のひらで揺すって見せる。
「二つの合計の数を競おう、掛け金はそうだな…まあ身内だ、無くてもいい」
「待てよセンクウ、つまらんこと言いやがって。もちろん一回千円でだな」
「おいセンクウ卍丸、俺は別に…」
羅刹の意思は無関係に賭けは始まった。
「……勘弁してくれ」
羅刹は天井をあおぐ、卍丸は声も出ない。
あれよあれよという間に、二人は多大な借金を背負わされていた。後戻りをしようかと考えるヒマすらなしに膨れ上がった借金の金額は恐ろしいものである。卍
丸が0を数えた。それは想像より一つか二つ多い。羅刹は冷や汗をかく。
「せ」
センクウ―、二人が声を上げるより早くセンクウは真っ白い頬に笑みを浮かべた。
「…ずいぶんと可愛がってくれたようだ」
ギャッ、卍丸が小さな悲鳴を上げる。
お兄様のお怒りはかくも恐ろしいものだと身を持って知ることに相成った。
こうしてとばっちりながらも背負ってしまった借金完済のために羅刹はまず履歴書を文房具店で買うことにした。インスタント写真の出費が痛いが仕方が無い。
律儀に鉛筆で下書きをしてからペンでなぞり書く。机にかじりついていた羅刹の背後に卍丸は忍び寄る、卍丸からしてみれば羅刹は運命共同体である。その背中
にわざわざ気配を消して腕を回して抱きついた。大きく背中が揺れて、もちろんペン先もぶれる。
「アッ!」
「あーあ」
羅刹はまさに羅刹な表情で背中を揺すって卍丸を揺すり落とした。振り向く。
「邪魔をするな!」
「おいおいおっさん、まさかコンビニでいらっしゃいませこんばんはーか?」
「悪いか」
「自給八百五十円で返せる額じゃねえだろ」
「…もとはと言えば卍丸、貴様のせいだろうが!」
たまりかねたように羅刹は大声を上げた。この履歴書には手間がかかっていた。写真も貼り付けが済んでいた。
「だから悪いと思って誘いに来てやったんじゃねえか」
「誘い?」
おうよ、と卍丸は得意げに胸を張って腕を組む。
「楽して稼げる仕事を持ってきてやったぜ」
「…断る」
羅刹は失敗した履歴書をびりびりと破いて丸めながら断った。
「なんでだよ、まずは話をだな」
「いらん」
「おい人がせっかく言ってやってんだ、そりゃねえぜ」
「いらんと言ったらいらん」
「おい」
「貴様が持ってくる話だ、胡散臭くないわけがないだろうが!!」
とうとう羅刹ががなった。既に人差し指と小指はしっかりと構えられている。予期せぬ借金と慣れぬ机仕事に苛立ちはいい加減にふつふつ煮えていた。
「そんな事言うなよ、悪かったと思ってんだ。な」
その、
な、
にほだされたわけではない。だが確かに卍丸の言うとおり普通に働いて返せる額でないことは羅刹もうすうす感づいてもいる。
羅刹は案内しろと太い声で言って、卍丸の背中を小突いた。
降りた駅が新宿だったあたりで、なにかいかがわしい臭いを嗅ぎ取るべきであった。入った店がまた裏通りで三丁目にあったことに不審を抱くべきであった。
羅刹は今せつせつと酷く後悔している。
棒立ちの羅刹のたくましく張った胸を誰かが今も揉んでいった。
今も勝手に腕にすがりつかれている。
「いやぁ、素ッ敵ィ!」
「あっららこれはすごいワ、ね、ね、ちょっと触ってもいい?キャーッ触っちゃった触っちゃった!」
「ずっるーい!!アタシも触るゥ!」
「やぁんすっごい二の腕ェ、かぶりつきたいワァ!」
この羅刹、生まれて初めてこんなにモテたかもしれん。羅刹は冷静にというより半ばあっけに取られて自分を取り囲む茶色い声にされるがまま。
「おいマリーあんまりベタベタ触るんじゃねえ、素人なんだから」
「えーっ、そうなのォ?卍ちゃんが連れてくるからクロートさんかと思ったわァ」
マリーと呼ばれた中年はオホホとウフフの中間の、野太い声で笑った。
「見ればわかんだろ」
卍丸はそっけない。マリーはずいと羅刹に顔を寄せて、
「ね、ね、…もしかしてェ、バージン?」
身の毛もよだつようなとはまさにこれ、おっそろしいことを煙草くさい息と共に耳に吹き込んできた。のけぞってその唇から逃れた羅刹は、マリーがごっついハ
イヒールをはいていることを差っぴいてもなお、羅刹とさして身長が変らないことに気づく。
間近で見れば、マリーの口の周りは青青としている。
さらに良く見れば、喉のところにあってはならぬ凸がある。
「お、」
男、羅刹が言うより早く、卍丸の人差し指が羅刹の唇をぴたりと塞いだ。卍丸は両手にウツボカズラだ。
ぱちんと弾けるウインクが憎憎しい。
「おねえちゃま方に、今日からよろしくお願いいたします。だろ?」
「ウフフ、よろしく!」
「可愛がってあげるワ」
オカマの軍勢に囲まれて、羅刹は背中にぞわりと粟立つものを感じた。
「なあところで俺たちは、」
ようやく質問が許されそうだったので、羅刹は恐る恐る尋ねた。
「ああ、ゲイバーのお楽しみストリップショータイム」
急に羅刹の主線が掠れた。
控え室で二人は待っている。ダンサー達が普段使用しているものらしく、メイク台があり、衣装がずらりとハンガーにかけられて並んでいた。
待っているものを羅刹はあまり考えないようにしている。これから始まることも、羅刹を待っている人たちのことも。
考えないようにしていた。
羅刹は今、ほぼ裸に剥かれている。下着一枚のほぼ裸である。褌ではなく黒いボクサータイプのものだったが、筋肉で張り出した尻をすべて隠しきれるわけでは
ない。若い娘が居たら目をキャッと隠すくらいに見事な身体を晒していた。
腕組みをして乳首を隠すだけの恥じらいだけは捨てきれぬ羅刹を卍丸は笑う。
「おいおいおっさん、そこだけ隠すの逆にいやらしいぜ」
「黙れ」
卍丸が星型のシールを取り出したのを見て、羅刹は頭が痛くなる。
卍丸ときたら黒いつやつやとした、薄っぺらなサテン地の腰巻をくるりと巻きつけただけであった。下には何もはいていない、ヒラリとしたらそれこそ見えてし
まいそうな危ういものがあった。現にパイプ椅子に腰掛けている卍丸のそれは羅刹の座っているところからは見えている。
「…おい、見えてるぞ」
「見せてんだよ」
羅刹の胃が痛んだ。何で自分も持っているモノをわざわざ見せられなくてはならないのか。
卍丸は伸び伸びとパイプ椅子の上でくつろいだ様子で、ペットボトルからごくごくとお茶を飲んでいる。
「今日の段取りだがな、お前はまあ素人だからそのムチもってせいぜい恐そうに歩いてくれればいい」
そのムチ、と顎をしゃくった先にあったのは見事な革の一本ムチ。太く強そうな外見のそれはいかにも羅刹に似合いそうでもある。
「恐そうに?」
「そ、間違ってもネコ見せるんじゃねえぞ」
「ネコ見せるってのはどういう意味だ」
「カワイコちゃんになるなって事だ」
まるきり意味がわからん、と羅刹は憮然とした。とりあえず言われたとおりに締め付けるような細い革のパンツに足を突っ込み、ムチを手にした。
「オカマのおねえちゃん達は、恐いぜ?」
ふふふふと卍丸は楽しげに笑っている。恐いといわれるまでもなく、これから二人が上がるステージ目掛けておうおうと太い声が飛んでいるのが先ほどから聞こ
えていた。
「慣れてるのか…ゲイバーでこんな、ストリップなんぞ」
「まあな」
さあ行くか、卍丸は立ち上がる。羅刹もおっかなびっくり立ち上がる。その動作は卍丸言うところの、「ネコ見せる」ところに当てはまった。
ヒゲ面の強面が上半身裸でおたおたしている。外の海千山千のオカマのおねえちゃま方にかかれば赤子の手をひねるようにして骨までしゃぶりつくされてしまう
だろう。
卍丸、一計。
メイク台から真っ赤な口紅を一本抜き取って、自分の口にべっとりと塗った。鏡を見ながらでない塗りだったために唇の輪郭を大きく外れてしまったが、そのま
ま卍丸は羅刹に接近した。
その道化のような赤い唇に羅刹の男らしい眉が寄る。
「なにをしてるんだみっともない」
「魔除け」
短い返答と共に、卍丸は羅刹の耳を千切り取る勢いでひっつかみ、唇を合わせていた。子供がやるものではない、一号生達がおっかなびっくりするものではな
い、卑猥で大胆な接吻である。
たっぷり十秒数えて卍丸は唇を離した。羅刹の浅黒い頬に血色が上っている、唇の端から頬にかけてべったりと卍丸の口紅が付着していた。
羅刹が口を押さえる、卍丸は鋭く止めた。
「拭くな、魔除けだって言っただろ」
「何を…!!」
じきに分かる、と言うなり卍丸はステージへ走り出した。
しなやかな獣のようにランウェイ中央にある銀色のポールに絡み付いて腰を振り立てる。
爆音に包まれるホールの熱気に卍丸はビッと中指を立てて舌を突き出して見せた。悲鳴まじりの歓声があがる。
舞台袖からマイクをひったくると、
「今日のダンサーがバージンだって目の色変えてんじゃねえぞ!?お手つきだ、オ・テ・ツ・キ!」
俺のッ、と自分の胸を親指で突いて卍丸は高笑いをぶちかました。
その日ストリップデビューした羅刹は口紅の魔除けのおかげもあってか一応無事に生還することが出来た。
が、
「今週金曜日な、今回は縛りもあるから覚悟しろよ」
捨て身のストリップにもかかわらずまだ借金は完済されていないのである。
羅刹は残った履歴書を再びせつせつと書き始めた。
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