紺青に根性で踏み込め、今生を勝ち得よ
どこまでも行こう。
「海が見たい」
そんな八十年代のドラマみたいな事を言い出した、飛燕がそういう事を言い出すのがちぐはぐで、富樫はそれを了承する。
年齢的に富樫たちは大人になった。富樫は塾長秘書見習いとなり、飛燕は医師駆け出しとなった。
梅雨もそろそろ明けて、晴天である。
からりとはいかない、昨日降った雨がアスファルトで熱されてむっとするような熱気が這い上がってくる。生来暑がりの富樫なぞ既に襟首やワイシャツの脇を汗
に濡らしていた。
「あまり汗臭いのはかなわないな」
美麗、という表現がぴったりな飛燕の眉がひそめられて、富樫へとハンカチが差し出された。飛燕とてシャツにスラックス、富樫とさほど変わりの無い服装であ
る。だというのに飛燕の周りには涼やかに乾いた風が層となって吹いているようで大変涼しそうに見えた。
軽く目線で礼を言って、差し出されたハンカチを富樫は受け取って額の汗を拭う。一度額を拭ってから、そのハンカチがしっかりとアイロンをかけられたものだ
ということに気づく。
(相変わらず女みてぇに、気がつく野郎だぜ)
富樫の視線を含み笑いで飛燕はそらした。白い頬は柔らかそうであるが、それが驚くほど強靭に視線や毒を弾き返す事を富樫は知っている。
「ふふふ、…ああ、見えた!」
上ずって明るい声、飛燕が歩みを速めた。海に近い駅で電車を降りてもう三十分は歩いたところ、飛燕が歩みを止めた靴の下でアスファルトがふっつり途切れて
いた。そこからは白くキメの細かい砂が道を覆っている。
「靴を頼む」
飛燕はその場で靴を脱ぎ捨てて、白い素足を晒して軽やかに駆け出した。軽く手を広げて走り出したその後姿は名前の通り、鳥のようで富樫の目を細めさせる。
きらきらと長い髪の毛が光を弾いて、上下するたびに羽ばたいているように見えた。
「おい!ガキかてめぇはぁ!」
白と青が横一文字の線でまっすぐに分かたれている。
一人アスファルトと砂との境目に取り残された富樫はあきれ返って学帽をずり下げる仕草をとった。兄の学帽は今、部屋のタンスの上にある。
海の匂いが富樫は好きではない。自分が昔、兄と暮らした街は海が近く、兄は道路工事だけではなく漁師の真似事もやっていた。
一度兄が嵐に巻き込まれて二日間帰らなかった時の恐ろしさを、富樫はずっと忘れられない。
海は与える、しかし根こそぎに奪う。
気まぐれな海へ向かって、飛燕はヤク中のような明るさで駆けて行った。
富樫が引き止める間も無く、燕のような素早さで。
「富樫!早く来い!私の靴を忘れずに!」
飛燕は既にスラックスの裾を捲り上げて海へ足を踏み入れている。黒いばかりに真っ青な海に白い脚が二本突き刺さって、こわいようだと富樫は背筋を冷たくし
た。
普段の冷たさや皮肉さは全てかき消して子供のように笑い、飛燕が富樫を振り向いている。大きく手を振るたびに風をはらんだ桜髪が羽ばたいた。
(あの野郎、本当に綺麗だな)
飛燕を綺麗だと思うことは、富樫にとって恥ずかしい事でもなんでもない。その通りなのだから。
しかし思うばかりで口にすることはそうそうあることではなかった。
飛燕が時時口にするナルシスティックな言葉を富樫も聞いている。事実綺麗だと言われなれている風だったので、特に面と向かって綺麗だと言うことは無い。
それが正しいかどうかを富樫は考えた事は無い。
「富樫!聞いているのか!」
「るっせぇなぁ!今行くよ!!」
脱ぎ散らかされた靴、それから靴下。普段の飛燕ならば考えられないような乱雑さ、左右散り散り、靴下は丸まったまま。
それを富樫は腰をかがめて拾い集め、海へと歩き出す。
青い、
青い、
使い古された、吸い込まれそうな青だという言葉がしっくりくる。
その青に今、飛燕の白い脚が吸い込まれている。風が起こした波に、膝上まで捲り上げたスラックスの端がすっかり濡れている。
気まぐれに波が大きくうねれば腰までも浸すだろう。
富樫は靴をその場に脱いだ、靴下を放り出す、スラックスを乱暴に捲り上げる。飛燕の靴をその隣へ並べるなり駆け出した。
駆け出して、ネクタイを引き抜いて胸ポケットに入れ、足の裏を砂浜の熱さに焼いた。
「飛燕!」
大声で飛燕を呼ぶ、富樫が波打ち際にたどり着くにはまだ遠い。
呼ばれて尚、飛燕は知らぬふうで笑っていた。
静かに笑っていた、その表情が抜け落ちて、冷えた。
黒いばかりに海は青い、風が突然ごうと強まる。
「わ」
飛燕が首をすくめる、髪の毛が風に煽られて大きく膨らむ。
背後より波が迫ってくる、飛燕へと波が迫っていく、
「あぶねぇぞ!おい!」
富樫が怒鳴ったにも関わらず、飛燕は笑っている。
うつろに抜け落ちた笑みが寒々しい、今もこれだけ太陽が灼熱だというのに。
既に飛燕の中身は海にさらわれている、富樫の背筋が冷えた。
「飛燕!!」
富樫が跳んだ。飛燕のように軽やかでも、美しくもないけれどがむしゃらにただ前へ跳んだ。
飛燕の腕を掴んだと同時に、大波がざん、と二人の胸の高さまで打ち寄せた。
「ん」
腕を掴んだまま富樫は自分の胸へと飛燕を引き寄せる、揺らいだ飛燕の目にしっかと自分の熱く生きた目を合わせて、
それから唇を不恰好に猫背になりながらぶっつけた。
「!?」
唇をすぐに離す、誘われて見に行ったロマンス映画のようにいかず、ただぶつけただけの稚拙なものだったが飛燕を揺さぶるには十分すぎる。
「と、富樫!?」
「テメェが腑抜けっちまってたからよ、人工呼吸じゃ」
カッカカ、と富樫が笑った。顔が赤い、その赤い顔を隠す学帽は今は無い。
富樫の胸に抱かれながら飛燕はすさまじい勢いで心拍数が上がっていくのを感じている。
どっく、
どっく、
どっく、
どっく、
顔にも血液が集まってくるのが飛燕にはわかる。しかし心穏やかではいられない。今自分は富樫の腕に抱かれて、そのうえさっきは接吻までしてしまったのだ。
目まぐるしく頭が回転して、飛燕は必死にさっきの唇の感触を思い出そうとしている。しかし富樫はそれを許さない。
腰まで海水に浸かって、さぞ重たいだろうに飛燕の腰を富樫は抱え上げた。荷物のように、いや、山賊が村娘をかどわかすように。
「富樫!?下ろせ、自分で」
歩ける、そう言おうとしたが、自分を担いだ富樫の横顔が滅多に無いほど真剣だったので飛燕は言葉を失う。
この顔に飛燕は見覚えがある。死地に挑む時、仲間の戦いを見守っている時、富樫がするどこか寂しいような顔だった。
飛燕は結局砂浜に打ち捨てられた看板の上に下ろされるまで、無言で富樫の顔を見つめていた。
「菅谷さんが死んだよ」
ぽつりと飛燕が話しはじめた。七月も程近い熱気と、太陽光に濡れたスラックスやシャツは乾き、ぱりぱりと塩を浮かせている。
「………そうか」
医者となって初めて担当したのは難病の子供で、その子の名前が菅谷であることを富樫は聞いていた。余命いくばく、といわれ続けた少女である。
「最後は、ありがとうと言って、死んだよ」
「…………そうかよ」
富樫も一度会った事がある、どこが悪いのか一見してはわからないほど頬がふっくらとしていて、笑顔が可愛らしい少女だった。後で聞いたことだが、頬に脱脂
綿を詰めていたためらしい。
『私は今、ロスタイムを生きているのよ。なんて、上手い事言った?』
無理にも笑う少女の顔を富樫は覚えている。
「だけどな、飛燕」
引き摺るな、
お前は良くやった、
これからを、
富樫源次はそんな陳腐で耳障りの良い言葉を口に出来る男ではない。
「そんなら先に言え、心配さすんじゃねぇ」
バァロ、と短く罵っておいて富樫は顔をしかめた。飛燕はうつむき加減の富樫の顔を眺める、そろそろ朱の混じる西日が富樫の肌を染めていた。
再び飛燕は砂浜へと立つ、体重を感じさせない足取りで海へと向かった。
海も西日に染まりかけ、一見温かそうに優しく輝いている。
富樫はまたも海へと向かう飛燕へと手を伸ばしかけ、やめた。
飛燕の横顔が晴れていたからである。
飛燕は波打ち際に立って、下を向いた。富樫の方からは砂浜に長く飛燕の影が伸びて、影を踏めばたやすく捕まえられそうである。
「富樫!」
飛燕が首だけ傾げて富樫を振り向く、手招きに応じて富樫も腰を上げた。駆け出していく。
波打ち際に飛燕と並び立ち、富樫は示されるままに下を向いた。
「ほら、足元の砂が持っていかれるだろう」
「……ああ」
波が引いていく度に足の裏の砂が持っていかれて、身体が沈んでいく。棒倒しの棒のように、最後はコテンと倒れてしまうのではないだろうかと富樫はかすかに
不安を覚えた。
「海は持って行くのだと聞いた、」
「………」
「よく、海にバカヤロウと叫ぶそうだが聞いたことはあるか?」
「まァな、漫画や映画とかじゃな」
「山にバカヤロウと叫ぶ事は無いだろう?」
言われて富樫、唇をムッとさせて考え込んでみる。
「……無ェな」
「生活廃水も、海へ流れ込む。今に始まったことじゃない」
そんな海に今まで浸かったのだといわれたようで、富樫は顔をしかめた。
「汚ェぞ」
「海は不浄を吸い込んで、そして浄化して打ち返す」
「今は私の不要なものを持って行ってもらって、そして…」
そのうち、飛燕が声を掠れさせる。
「そのうち、また受け入れるさ」
飛燕の頬が真っ赤になった。西日が更に赤く金色を交えて夕日となった、照る。
「飛燕」
「……うん?」
振り向いて微笑んだ飛燕の顔は憑き物が落ちたように清浄で正常だった。富樫は深い安堵に小さなため息をつく。
もう大丈夫だ、富樫も笑う。富樫の顔も夕日が照って、真っ赤である。決して飛燕に見とれたわけではないと富樫はムキになって言うだろう。
クラゲのように夕日がとろけって、真っ赤な海へと沈み行く。群青が空の端に早々と追いかけてきている。もういくばくかすれば星が輝く。
「にしても濡れたな。富樫、泊まって行こう」
「へ?まだ電車あるぜ?」
「馬鹿、こんなナリの私を電車に乗らせる気か、泊まるんだ」
飛燕はさっさと靴を手にすると歩き出した。
慌てて富樫も後を追う、
「手間をかけさせた礼に、今日は私が洗ってやろう」
「え?」
「服か、お前をか、どちらでも好きなほうを選ぶといい」
「!?」
ははは、飛燕が笑った。
群青が手広く空を覆いつくして、朱色が往生際悪く輝いている。
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