けやあと銀ブラ

家に帰るなり、十蔵は珍しいものに出くわした。
玄関先に大事そうに大事そうに広げた新聞紙の上に、サンダルが一足転がっている。木製で底が厚く、黒いバンドに足を突っ込む形でつま先が覗く格好である。 ビニルでできたピンクの花飾りが申し訳程度について、安物であると一見して知れた。いわゆる便所サンダルと同じ形である。
おそらく母親の靴である。おそらくというのは、十蔵の母親が履く靴は殆どがかかとのないものだからである。
ハイヒールを履いた母を十蔵は知らない。あんな危なっかしいものをただでさえ危なっかしい女が履けるかと彼の父親は言ったが、まったくその通りであると十 蔵も思う。

「十蔵ちゃん」
母親のあの見ないでも笑顔だとわかる声が、どこからともなく降って来た。父親ほどとは言わないが剣の達人である十蔵には、母親の気配の出所がどことなくわ かる。
というか、声は上から降って来ていた。
つまり、母親はどうしてだか屋根の上にいるのである。そして、返ってきた息子を見つけるや声をかけたのであろう。十蔵はため息をひとつついて、せっかく脱 ぎかけた靴(地下足袋ではない、学ランにはやはり先の尖った靴だと、彼なりのファッションセンスがそう決めている。ブーツはもっての他だ、言わないが)を 再び履いて玄関を出た。
五月の連休直前、空は不機嫌そうにぶすぶすと雲けぶっており、風も嵐のように強く吹いていた。雲の色はねずみ色、おそらく雨のひとつでもそのうち落として くるだろう―、尚のこと母親を早く回収するべきであると十蔵は更にため息をついた。
「おい、帰ったぞ」
「お帰りなさい、十蔵ちゃん」
屋根の上からひょっこりと顔を出した母親は、顔中ほこりだらけで今にも物乞いでも始めそうな格好をしていた。ぼろぼろの肌着の上にあまりに着古したために 十蔵が捨てた金蜥蜴ロゴ入りTシャツ、同じく十蔵が捨てた金蜥蜴ロゴ入りジャージ。こんな姿をご近所は見たのだろうか、十蔵はいますぐ男塾へ帰りたくなっ た。
「そこの梯子、立ててちょうだい」
言われて十蔵、玄関先に転がった長梯子に気づく。少し背中が冷えた、ついぼうっと歩いていたせいで、まさか自分が帰ってきた時に倒したのだろうか。そうで あればみすみす母親を屋根ざらしにするところであった。屋根ざらしにしただけならまだいい、屋根ざらしになって寂しさに泣く母親であれば楽だった。しかし 十蔵の母親ならばあの格好でお隣の家の屋根へと飛び移ろうとするだろう。そして発見され、不審者だと騒がれ、あまつさえ落下、不審者の招待は赤石さんちの 奥様だった――などとなったら大変にはずかしい。
そうなったら父親は怒るだろう、母親を野放しにした十蔵を。
梯子を立てかけ直すと、母親がのそのそと危なっかしくおりてくる。
「ありがとう、お帰りなさい」
手を貸すタイミングを逃した十蔵は小さく頷いた。

なんで、
どうして、

そう聞くのは難しい。まともな答えが返ってこないのをわかっている。
「燕の子を落としてしまったの」
そら始まった唐突だ、こっちの都合なんざ考えてやしねえ――十蔵はそれでも黙って頷いた。母親は金蜥蜴ロゴ入りTシャツの裾でもって顔の汚れを拭った。
「………おう」
「剛次さんの真似をしたら、つい」
「…………おう」
十蔵の頬がひくついた。どうして、をぐいと太い喉へと飲み込む。
「戻してみたわ」
「……………まず、どうして燕を落とした」
「だから剛次さんの」
分厚い手のひらを母親の顔の前へとつきつけて黙らせておいてから、十蔵は考え込んだ。視線がさまよう、さまよった先、庭に転がった竹箒が目に入る。
「あれで、やりやがったな」
「そう」
「なんでだ」
「だから剛次さんの」
険しい切れ眉を更に険しいものにして黙らせておいてから、オランウータンの親類のような姿と成り果てた母親をとりあえず玄関へ押し込んだ。この汚れこの乱 れ、物置で一戦交えたせいであるとはわかっているが、やはり人に見せたいものでもない。



玄関に戻ると、先ほどの便所サンダルがまだ転がっていた。片付けていないのだから当たり前でもある、母親はそのサンダルを見てポン!と手を打った。
「そう、このサンダルを見てたらつい、真似をしてみたくなって」
「腹が減った」
「おやつに揚げまんじゅうがあるわ」
「……なんで揚げんだよ」
「少し古いの」
「捨てろ」

ぶつくさ言いながらも茶の間で、十蔵はとりあえず揚げ饅頭をギトギトと食った。そば茶と何故だかよく合って、四つもギトギトと食ってしまう。
母親はようやく手ぬぐいで顔を拭いてさっぱりしたようで、揚げ饅頭を一つ頬張りながら、
「けやあ――っ、ってやったら手から箒が飛んで、燕の子を落としてしまったみたいで」
「だから」
「あのサンダルを剛次さんが買ってくれてね、けやあ――っと」
「……だから、」
「見てたら、つい。でも帰してあげられてよかった、悪いことをしてしまったわ」
「もういい」

まったく話にならなかった。返ってきた父親に十蔵がサンダルについて聞いてみてもフンの一言のみ。
腹に何かどんより重たい気分で、十蔵はクイズ番組をそこそこに切り上げて早く寝た。
「答えは三番、美髯公!」

母親の明るい声が聞こえてきた。どうやら十蔵、揚げ饅頭の油に当たったらしい。







「それじゃあ、剛次さん、その刀で何でも切り倒して来られたの?」
私はなんとか着物の裾をさばいて、急いで歩く。剛次さんはたっぷり私より脚が長いし、歩くのがとっても早いのね。うらやましい。
私も袴にすればよかったかしら。
五月にもなると日差しは真夏のようだわ、剛次さんは白熊のようだからきっと暑いでしょうし、どこか涼しいところに入れて差し上げたい。
けど、剛次さんは刀の話になるととても雄弁になって、私もその話をもっと聞きたい。だから、どこか座りませんかなんて、剛次さん言うところの軟弱を言い出 す気にはなれないわ。
私は懸命について歩きながら、剛次さんが切り倒した者達、もの達のお話を聞き続ける。私はもう半ば小走り。
「そうだ、フフフこの兼正…こいつに切れぬものなのどない」
フフフ、ですって。嬉しそうに剛次さんが腕をふるった。背中にはその兼正がちゃんとくくりつけられている。いいなぁ、背中。
「その兼正って、とってもすごい刀なのね」
「フフフわかっちゃいねえ、確かにこの兼正、古今無双の切れ味よ…だがな、こいつ、この豪刀を満足に扱える人間が何人いるか」
「あ、そうね。そんなに重たい刀、振り回すだけで一苦労だわ」
剛次さんの白いシャツの背中には汗染みがある、兼正の重み。
「そうだ、この刀に使われているうちは半人前というわけだ…フフフもっとも、俺は今後こいつを手放す気にはならんがな」
背中をゆすって、剛次さんは兼正をあやしたようだった。そう私には見えた。私よりも、とても仲がいいみたいで、いいな。
「こんな重たいものをびゅんびゅんと振り回すのは、それはそれは大変でしょうね」
少し黒い眉を持ち上げて、剛次さんは右手を上げた。そういえば、眉は黒いのね、不思議だわ。
「てめえも料理を少しはするだろう。重たい包丁でもって切るのは、実はそんなに大変でもねえ」
「ええ、確かにそうだわ」
そう、ぺなぺなのふぐ引きなんかより、出刃包丁の分厚くて重たい刃のほうがよほどザックリと機嫌よく切れるのだったわ。
「この重みが、切れ味を更に増す一因でもある」
「まあ」
「それに…俺が背負う刀だ、フフフ桃の野郎のダンビラのように、軟弱に軽くてどうする」
「うふふふ」

私は嬉しくて嬉しくて、更に足を速めた。
剛次さんもついつい喋りすぎたなと後で少しムッとするぐらいに喋ってくれた。それがまた嬉しかった。
東京駅八重洲口から、とうとう築地まで歩いてきてしまうぐらいに私は剛次さんの話と、太くてやさしいこわい声と、ぬっとした横顔の鼻筋に見蕩れていたの だった。


「……おい、てめえ草履をどうした」
「失くしました」
正直に言ったのに、怒られた。
「どうして脱げた時にすぐ言わねえ、」
ふん、と荒い鼻息を吐き出すと今きた道を剛次さんは見渡す。とても申し訳ない気分になってしまった。
「さっき気づいたのだけれど、だって、随分前にきっと失くしてしまったのだと思って」
「だからって黙っている奴があるか、片方足袋でみっともねえ」
「ごめんなさい、でも、邪魔されたくなかったの」
「邪魔?」
「どうやって桃様のお墓を切り倒したか、もっと聞きたくって」

ムッ、と剛次さんは眉間によっつ、皺を作る。よっつともすごく深くって皹のようだわ。
ずかずかと剛次さんは私の手を引いて、道際の靴屋へつれて行ってくれる。剛次さんの手はすごく大きくて、そして手のひらは硬かった。指の一本一本は松の幹 のようで、手のひらは何度もマメがやぶけてはまたマメができた繰り返し。
靴屋さんは銀座や有楽町の洒落たものではなくて、健康サンダルやズック、それから近隣小学校指定の運動靴と上履きがずらりと並んでいた。壁の時計は六角形 でおもりがふたつついた古いもの。おじいさんが一人煙草を吸いながら、新聞を読んでいる。こんにちは、と挨拶をすると老眼鏡をズリ上げて笑ってくれた。


「これをもらうぞ」
剛次さんはおじいさんに向かって、ビニル紐でくくって天井から吊るしてあるサンダルの束を指差した。ストラップや値札、イロイロなところにすずらんテープ を通して、千羽鶴のようにぶら下がっているサンダル達。私を剛次さんはオイと手招いた。
「はい」
「どれがいい」
「え?」
「人買いみてぇに見られるのは御免だ、置いてかれたくなければとっとと選ぶんだな」
私はとっさに、ピンクの花飾りのついたものを指差した。剛次さんは手をかざして、私に離れるように示す。私は店の壁際まで下がった。

「いくらだ」
「あい、吊るし五百円」
安いな、と剛次さんは言って、おじいさんに五百円をポケットの小銭から支払って、

「もらうぜ」


そして、不敵に笑った赤石剛次は背中から、しら、と兼正を抜いた。





「それでね、けやぁ――っ!」
「いきなりでけえ声出すんじゃねえ!」
十蔵は怒鳴り返した。部屋にフルーチェを持ってきた母親は、先ほどの話を蒸し返しをしたのである。
「けやぁ――って!、そのサンダルだけを切り落としたの。本当に素敵だったわ、たくさんの紐が絡み合って、手で解くのだってきっと大変だったでしょうに」
「………それで、あの便所サンダル見てたら真似したくなったのかよ」
「そう、ねえ十蔵ちゃん、十蔵ちゃんもあれができるようになったら、デートの時にやってあげてちょうだいね」
「まずそんな間抜けを連れ歩く趣味は、ねえ」


それじゃ、信長くんや獅子丸くんにでいいわ、そう母親は聞き捨てならない事を言ってから、フルーチェおいしいと笑った。
次の日から十蔵は千羽鶴の中から赤い鶴だけを切り落とす特訓を始めることになる。
モクジ
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