入浴前にはカギかけて

モクジ
ちょっと驚いている。はどこか苦笑して、鬼ヒゲが差し出した座布団に腰をおろした。
鬼ヒゲが普段使っていて、尻に敷かれ続けてぺらぺらに薄べったくなった座布団は、今や持ち主である鬼ヒゲ本人とどこか似通っているように見える。
「あのー…」
部屋に連れ込んだ(連れ込まされた)までは良かったが、このあとどうすべきか鬼ヒゲは迷っている。何といっても昭和の安アパート、しかも一階。上のイラン人は毎夜の習慣となったランチキ騒ぎを今宵もぶち上げていた。電気をつけてもどこか薄暗く、じめついており、どことなく男やもめの悲哀が空気にすら漂っているように思える部屋である。そんな湿気た部屋に連れ込むには、は勿体ないという言葉では言い表せない女であった。
うまいことだまくらかして連れ込んだならばともかく、積極的にいくぞいくぞでこんなところまで連れてきてしまった、そのうまくいき加減がたまらなく鬼ヒゲの不安をあおる。
「なあに」
子供のようには答えた。物珍しげに鬼ヒゲの部屋を眺めまわしている。どうかの視線の先にゴキブリなんていませんように!鬼ヒゲは祈りながら悲しい揉み手で笑顔を作る。
「いやぁ、そのォ…ヘッヘヘこんな汚ェあばらやまで来ていただいちゃって…そのォ〜」

『なんでついてきてくれたんですか』

『どうしてキスなんかしてくれたんですか』

『…惚れたって本当ですか?』

『……ワシみたいな、不細工に』

そんなこと聞けるわけもない、そんなこと口に出した途端に喩えようも無い惨めさで鬼ヒゲも押しつぶされてしまうだろう。
しかし言えるわけもないのに鬼ヒゲは物悲しいまでに卑屈な笑顔で言葉を探した。

「ちょっと驚いている」
鬼ヒゲが何か言うよりも早くが口を開いた。鬼ヒゲは自然との前へ正座で座ってしまう。根性が萎れていた。
「へ、へぇ、何にです?」
「どうして惚れたのか、今考えていた」
鬼ヒゲが青くなる、同時に心の中で、ああやっぱりね、なんて諦めを覚えた胸がどこか安堵していた。
「勘違いしないでほしい、惚れてるのは事実だから」
きっぱりとは断言する。鬼ヒゲはついつい反論してしまう。
「いや、でも」
「でも?」
何か不満でもあるのかと言わんばかりにに睨まれて、鬼ヒゲは額の汗を拭いた。
に惚れてもらえるほど、鬼ヒゲは自分に自信は無い。好かれる要素がないとまでは自分でも思って居ないが、こんなに惚れてもらえるほど自分が素敵な男だとは、可愛がってくれた祖母だっておいそれとは口にだせないだろう。
「でも、ワシみたいなんで……」
いいんですか、口に出しかけて萎んだ言葉尻は、またもに遮られる。
「案外面倒なんだ、」
が膝を立てて鬼ヒゲににじり寄る、の手がサッと伸びて鬼ヒゲのアゴを捕まえた。猫をじゃらすときのあのかいぐりかいぐりとした動きで喉をくすぐる、鬼ヒゲはヒャーッと背筋を凍りつかせて硬直した。
「どっこらしょ」
麗涼な見た目とは裏腹に、農作業の爺さんのような泥臭い調子で鬼ヒゲの肩を掴むと畳へ押し倒した。
鬼ヒゲの目が点になっている、構わずには鬼ヒゲの腹へと馬乗りになって顔を上から覗き込む。
はらはらとの肩から真っ黒に込通った髪の毛の束が落ちて、鬼ヒゲの鼻をそのうちの一房がくすぐった。

柔らかい髪の毛にぶしゃん、と犬が潰れたようなくしゃみを立てた鬼ヒゲに、は子供のように笑った。
「あは、なんだぁ、それ」
ぶしっ、ぶしっ、一旦出始めたくしゃみは次次に転がり出てくる。
は鬼ヒゲの口へ手のひらをひたりと押し当ててそれを止めた。

かぐわしい手、磨かれた爪、節の目立たない指。
肌の白さ肌理のこまかさ、その手の全てが鬼ヒゲとは違う。誰に言われたわけでもないのに、鬼ヒゲ自身がそう断じた。
「魂の色って言ったら、笑うかな」
「……」
くしゃみが止まったのを確認すると手を離し、が再び顔を近づけて、鬼ヒゲの額へ自分の額を押し当てた。じっとりと汗ばんだ額で汚してしまうようで鬼ヒゲは身を捩ったがは許さなかった。

「なんとなく魂の色が見えるような気がする」
「た、たま…」
「誰より熱く、輝いていたぞ」
「んな、勘違い…」
尚も認めようとはしない鬼ヒゲにさすがにが憤慨したようだった。
「私をどうして拒むんだ、六本木の真ん中で恥ずかしげも無くカノジョ募集と喚いたくせに」
「拒むって…その…お嬢さんが」
アンタと呼ぶには美しい、
きみと呼ぶには自分が醜い、
おまえと呼ぶには全てが恐い、

「お嬢さんが、綺麗なモンで…」
「うん、そうだ、先にシャワーを浴びて来るといい。私は後でいいから」
「はェ」




会話がまるでかみ合わない。かみ合わないがとにかく鬼ヒゲはシャワーを浴びていた。
もはやこのまま、風呂場を出たら煙のようにが消えて、後には水がジットリ――それでもいいとすら思ってしまう。
修行僧のように鬼ヒゲは冷水シャワーに打たれ続けている。
ナンマンダブ、思わず唱えかけたところへ、
「せっかくだから、私も一緒に入る」

が包み隠さぬ全裸で狭い狭い風呂場へあっけらかんと入ってきた。
思わず振り向き、相手の顔と裸体をしっかと目に収め、
鬼ヒゲは鼻血を噴いたり海綿体を膨らましたりするその前に、

「きゃ―――ッッッ!!!?」
今時女子高生でも上げないような、可憐な悲鳴を上げて自分の股間と胸を隠したのであった。
モクジ
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