六本木遭遇
六本木の真ん中で、愛を叫ぶ。
「女の子とお付き合いしたぁああい!!」
男鬼ヒゲ、カノジョ居ない歴イコール年齢。
夏の蒸し暑い夜のことであった。
鬼ヒゲはむさ苦しい男である。
この現代日本の東京で、胴着にゲタの姿はまさに古き日本男児。
鬼ヒゲは可愛げのある男である。
どうせ破れかぶれに喚いているというのに、「女の××に俺の○○をどうのこうの」と卑猥な事は言わず、お付き合いしたいとわめく程度。
まことに可愛げがあり、そして卑小なところもあったが素直な男であった。
破れかぶれの八方塞、鬼ヒゲは声も枯れよと叫ぶ。
「この、真の男、真の日本男児鬼ヒゲ様に惚れようってェ眼のある奴ァいねぇのかよォ!」
むなしく夜空、夏の夜空に響き渡った声を通行人が笑う。六本木華やかなる街、行き交う人々は誰もが着飾ってどこもかしこもきらきらと明るい。
『なぁお嬢さん頼むからそのワシとお茶でもォ、』そんな鬼ヒゲの哀願懇願は、バケモノ!の一言から唸りを上げてのビンタへ転じた。ビンタだけで済めばよ
かったが、その後男が現れて拳の乱打。顔はひしゃげ袖はちぎれ、みじめ極まる風体へまっ逆さま。
明るいメインストリートから路地へすげなく突き飛ばされて転がり、ゴミだらけになりながら恥も外聞もなく涙をちょちょぎらせながら喚きたてる男。
男は行き交う人々の、きらびやかさをより掻き立てるスパイスとしてそこにますますみじめになりゆく。クスクスと上がる笑い声が男の涙をさらに滑稽なものへ
と貶めていった。
みじめでみじめで、鬼ヒゲはリンゴの皮を額へへばりつけたままアスファルトを拳で打った。
「オウおっさん、カッコ悪いじゃねぇの」
「ヘッヘヘ女がみんな逃げてったのも分かるぜ、こいつァたしかにひでぇ」
「ああ、ひでェひでェ、こんなブッサイク見たこたねぇや」
二人連れの男が地面へ悔し涙をこぼす鬼ヒゲへと絡んだ。遠くからやめなよぉ、と山程髪の毛を盛り立てた女があまったるく制止の声を上げる。
が、その声には媚びた笑が含まれて、道行く視線を集めている事への喜びが滲んでいた。
三人が三人とも夜の六本木が実に良く似合う。良く似合うように考え抜いて飾ってきたのだ、ということがもっと慣れた人間ならわかるだろうが鬼ヒゲにはわか
らないだろう。ただ、自分と違って格好良く、夜の街を人生をエンジョイしているのだろう、その程度しかわからない。
飾り立てなければ踏み入れる事がかなわない街だと、その三人は思いこんでいる。だから胴着に高下駄などという格好で迷い込んできた鬼ヒゲを笑う。笑う事で
自分達はこの街にふさわしいと名乗っているのだ。
「こんな格好でよく来られたもんだな」
「くせぇくせぇ、どこの山奥から来たんだよ」
ははは、男達が笑った。女がさして止めるそぶりも見せず、
「やめなよぉ、悪いよぉ」
とぐねぐねと身を捩る。
笑い、辱め、笑い、貶め、笑い、笑い、笑い、
「俺がこんなツラなら、もしかしたら自殺とかすっかも」
「はははお前そりゃ言い過ぎだって!」
鬼ヒゲがきっと顔を上げた。リンゴの皮をへばりつかせたままだったが、それでもその顔は男のそれ。いざとなれば戦地へ赴く男の顔だった。
「なんだよオッサン、文句あんのかァ?」
鬼ヒゲが何事か言おうとして、その男の顔に言葉を一瞬失った。自らと比べてなんと華やいで、洗練されて、都会らしいのだろうかと。
それに比べて自分はどうだと引け目を感じてしまった。六本木の嘲笑が鬼ヒゲの自信を萎えさせ、自分の泥臭さを恥ずる方向へ歪めてしまったのである。
酒臭い息を吐いて、男達はなおも大いに笑いながら鬼ヒゲを貶めた。
うう、喉を鳴らした鬼ヒゲはとうとう目を伏せかける、と、男達の向こうから一人まっすぐこちらへ歩いてくる人影が見える。
鬼ヒゲにとって六本木は全て敵となりかけていた、この上誰が現れても変わりが無いとすら思っていた。また馬鹿にするだけだろう、そんな卑屈さに囚われた鬼
ヒゲは一晩でずいぶんちぢこまってしまったように見える。
「邪魔」
甘さやあたたかみというものをまるで感じさせない女の声がした。進行方向にゴミ箱があったからつい呟いた、そんな調子。
次いでがつんと大げさな音、男が鬼ヒゲがもたれかかっていたビルの壁へとつんのめりながら突っ込んでいく。そこへはだれぞの吐瀉物があったが勢い良く服を
汚しながら頭から倒れ伏した。
眼を丸くしている鬼ヒゲが顔を上げると、もう一人の男も同様に動揺に眼を丸くしている。
「て、テメェ、何してんだよ!」
「……」
どうやら男をゲロへ向けて突き飛ばしたか蹴飛ばしたかしたらしい女はまるで聞こえていないようで、鬼ヒゲを仁王立ちに見下ろした。
女の突き刺さるほど高いヒールの足元しか、今の鬼ヒゲに見ることはかなわない。急いで顔を伏せる鬼ヒゲ。
「オイ、アンタ関係ねぇだろ!」
まるで無視された格好の男が慌ててそう止めにかかると、
壁へ突っ込み、服をゲロまみれに汚した男が激高の怒鳴りが割って入る。
「テメェ…なんなんだよ!」
なんなんだよ、というのは、いきなり何をするんだよ、と言う意味だ。少なくとも鬼ヒゲはそう思った。
だがいきなり現れた女は、貴様は何者であるか、そう問われたと思ったらしい。
月を背負って、
六本木を踏みつけ、
誰も彼もを見下ろして、
ただひたむきに鬼ヒゲを見つめ、
「美女だ!」
そう事も無げに、しかし高らかに宣言したのだった。
美女である、そう宣言されて誰もがその女へ注目した。鬼ヒゲも勿論反射的に顔を上げてその女へ視線を注ぐ。
「うお…」
殴られたせいで切れて血の滲む唇が薄く開いて、間の抜けた感嘆の声を漏らす。
確かに美女だった。この美と金が力を持つ街で美女を名乗る度胸を持った女は、言うだけあって確かに他を寄せ付けぬ美女であった。
鬼ヒゲの語彙力では表現しきれぬが、とにかく白い小さな顔に睫毛羽ばたく眼を吊り上げて、黒髪を背中にざんと流し、短いワンピースからのびた長い脚で六本
木を、世界を踏みつけにした女は美女であった。
厳しい審美眼に晒されているのか、お世辞にも好意的とは言えない群集の視線を白い頬は全て苦も無く跳ね返した美女は鬼ヒゲの前へ膝をつく。鬼ヒゲの前へは
生ゴミが散らばっていたが構わずしゃがみ、形の良い膝を汚した。
「あ…」
鬼ヒゲの顔へ女の手が伸びてくる、重たいものなど持った事の無さそうな薄い手のひらに華奢な指。淡紅色に塗られた爪がひらめくと、鬼ヒゲの額に張り付いて
いたリンゴの皮を摘んで投げ捨てる。
鬼ヒゲはかっと赤くなった。無様な自分と美しい女という対比に恥じらい、そして何より屈んだ女の胸元が眼に入って、嬉しいよりも滅相も無いという気分。
蹴り飛ばされた男も、無視された男も、そして飾り立てた女も、誰もが美女だのたった一言で喧嘩に負けた犬のように大人しくなってしまっている。
「真の日本男児だって?」
美女に優しく問われて、最後の矜持とばかりに鬼ヒゲは頷いた。自らのためばかりではない、敬愛する塾長、愛する教え子達のためにもこの質問を逃げる事は死
を意味する。
鬼ヒゲが頷いたのを見て、女は笑った。にこりとではなくニヤリと笑った、鬼ヒゲの手を引っ張って立たせる。
何がなんだかわからないでいる鬼ヒゲへ女は尚も笑った。
「眼のある奴は居ないのかって、言ってたのが聞こえた」
女が吐息のかかる距離で、鬼ヒゲの顔を眺めている。髭が伸び放題の頬へ手が滑り、猫をあやすようにすべすべと撫で回す。
ああお月さんきれい、鬼ヒゲはほとんど忘我である。息すらかぐわしいのだが、息を止めている鬼ヒゲは気づけない。女の胸が自分の胸へ押し当てられているの
に気づく余裕すらない。
動揺が一回りしてもう一回りしてしまって、ぼかんと呆けてしまっている。
「美女が惚れに来てやったよ、色男」
女の唇が鬼ヒゲの唇に合わさった。合わさっただけではなく舌までぐいぐいねじ込んでくる。
「!!!?」
とある押しかけ女房のお話。
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