手の間の小石

そっと盗み見た横顔が、喜びか悲しみか、そのどちらでも ないような微笑みを浮かべている。
それが邪鬼の、大豪院邪鬼の母にして大豪院鐘鬼の妻の顔であった。


「影慶」
「はい」
防衛庁長官である邪鬼は多忙である。重要な部分だけを抜粋すれば、A4の紙五六枚程度に収まりそうな内容の書類は厚さ一センチ近いそれへ目を滑らせなが ら、ぽつりと邪鬼は尋ねた。腹心の影慶は邪鬼の傍らの席でスケジュールを確認し、少しでも多くの業務を円滑にこなせるように苦心していたところであった。 影慶の立てるスケジュールは容赦と言うものがない、常人であればたちまち過労を起こして倒れてしまうだろう。
邪鬼に対する深い深い信頼と、わずかばかりの影慶の願望で出来たスケジュールの隙間の時間であった。

「影慶貴様、見合いをした事があるか」
「は、…ありません」
まさかすすめられるのか、影慶は一瞬身を硬くする。しかし邪鬼は影慶の気持ちも知らず更に続ける。
「ならば恋愛はどうだ」
「れ」
――恋愛、影慶は言葉を危うく飲み込む。
防衛庁長官、大豪院邪鬼。華華しいキャリアや、その立派な体格、厳格なる顔立ち。それらの持ち主が発するには軟派とも取れそうな単語である。
「知りません」
影慶は知らぬとハッキリ答えた。薄暗い瞼の辺りに揺らめいているのは微かな怒りである、からかわれた事に対してか、あるいは邪鬼の鈍感さに対してか。
付き合いの長い羅刹や卍丸、センクウをして二人の関係だけはわからぬといわれ続けて何年。

邪鬼はぽつりと呟いた。
「俺の母の話をしてもよいか」
「聞かせて下さい、邪鬼様――ああその前に、コーヒーを淹れてきます」

ここ六日ばかり邪鬼は眠って居ない、もともと眠りを欲しない体質ではある。本当に人間かと、一度影慶ならずとも尋ねてみたいところであった。
邪鬼が昔の、男塾時代のことや家の事を語る時は大体疲労がたまっている時であるのを、影慶は知っている。疲れた頭が脳内の資料てんでめちゃくちゃ、忘れる ほど古いものを脳裏の表舞台へ引っ張り上げるのだろうかと、そんな仮説を立てた。

熱く、痺れるほどに甘く、胸焼けしそうなクリームを注いだコーヒーを手渡され、邪鬼の眉が寄る。影慶はその険悪な視線を受け流した。

「貴様の母の話を聞いたことはなかったな」
「北国の生まれで、昔はよく似ていると言われましたが」
「そうか、ならば美しいのだろうな」
「…………っ」
なんという不意打ち!
影慶の指先に力がこもる、これだからこの人は侮れない、息が荒くならないように必死である。

「貴様の父と母は、仲睦まじかったか」
「さあ…他と比べたことがありませんので。不仲ではなかったかと思いますが」

そうか、短く邪鬼は応じてこめかみの辺りを人差し指でもって揉み解す。肉体の疲労よりも、眼精の疲労のほうが酷い。というのも男塾に居た頃などはあまり目 を使うことがなかったためである。

雨が降り出す。先日入梅が宣言されたばかりだが、雨は勤労であった。





手を繋ぐ事を、母はしなかった。抱きしめたり、頬を寄せたり、幼児に対してあたりまえに行う肉体的接触を母は極力避けている。
その時邪鬼は邪鬼のすぐ横を歩いていた母が、ぐらりと傾いだのを見た。
六月の半ば、晴れの日ともなれば真夏とさしたる変わりもない。体の弱い母は日傘を手にしてはいたが、さしてはいなかった。
母は額に手をやって体勢を立て直す、邪鬼は危なっかしい母の様子に気をとられ、そしてとうとう小石に躓いて転ぶ。

「あっ」

母が小さな声を上げて駆け寄ってこようとするのを、幼い邪鬼は睨む。強く、まだ現在ほど険しくなかった眼差しや、たくましくない眉で、目にグッと力を入れ て制した。
少年だったとはいえ、邪鬼は大豪院邪鬼であった。自分が倒れたのだから、誰の手を借りる事もならぬ。一人で、一人きりで起き上がるべし。
擦り剥いた手のひら、食い込む小石を叩き落とすと邪鬼は立ち上がる。母は食い入るようにその様を、白い顔で見ていた。
嬉しそうにも見えたし、悲しそうにも見えた。邪鬼の知る母は何時もどこか困ったような微笑みを浮かべていたように思う。
今思えば、母は拒絶されたような気持ちになっていたのだろうか。
母の手を借りた事は一度として記憶に無い。

「父は、はるか先で俺と母を振り返っていた」
「お父上もいらっしゃったのですか?」
「ああ、父の顔を覚えている。無感動な顔を」

立ち上がった邪鬼を、母は今度は混じりけのない嬉しそうな顔でもって迎えた。母の顔色は先ほどよりも次第に青くなりつつある。
しかし父ははるか前方にて待っているため、母は急ぎ歩き出した。手にした日傘をどうして使わないのだと、幼い邪鬼は腹を立てた。
汗をかいた邪鬼の額にも、怒りの熱が湧く。

怒りは父に対してである。普段あれだけ母が、体の弱い事で親族や使用人達から陰口を叩かれているのだ、手を貸すぐらいすればよいと思った。
なのに遥か前方、陽炎が揺らめく路上でただ邪鬼と母を振り向くだけ。

母は真っ青な顔のまま、ふらふらと歩き出そうとしている。邪鬼は立ち上がるなりそのまま母へと迫り、右手でもって母の左手を掴んだ。

「邪鬼さん」

やはり母の顔は、嬉しいのか悲しいのかよくわからぬ、困ったような顔だった。
いや、今思えば困っていたのだろう。病気のある母は、邪鬼に触れたのを親族達に見られると酷く責められた。しかし母はそれを懸念したのではなく、邪鬼に本 当に病気がうつりはしないか、それを案じていたようである。
邪鬼がどれほど幼くとも、母は一度として邪鬼を呼び捨てた事は無い。父のことは邪鬼の前ではお父様と呼び、親族の前では名前に様をつけて呼ぶ。


母の手を掴んで邪鬼は歩き出す。母の手は酷く冷たい、触れたことはないが、幽霊はきっとこのような手をしているだろうと想像し、その想像を慌てて不吉だと 振り払った。

「痛くはありませんか」
「はい」

どうしてふらつく自分を省みない、邪鬼の方向の定まらぬ怒りは強まる。母の手を強く握る、払いのけ損ねた小石が邪鬼と母の手のひらをちくりと刺した。
父の姿は逆光と陽炎にゆらめきたち、巨像のように見えた。ボッボッとゆらめく様は虚像のようでもある。邪鬼と母とを睥睨し、ただその場から動かぬ父はやは り巨像のようであった。




「俺は父を、憎く思ったぞ」
邪鬼の声に混じるのは笑いであった。甘い甘いコーヒーに口をつけて、伏せた瞼にも微笑みがともる。
影慶は邪鬼の顔をただ眺めていた。こんなに安らぐような顔の邪鬼様は昔では考え切れなかったと思いながら。
「お父上は…その、…」
母上を疎んじていたのか、それは流石に聞けぬ。影慶は口に出しかけて酷く後悔した。

「フッ…影慶、貴様もそう思うか」
「は…その、失礼しました」
「よいのだ。俺も最近までそう思っていた」


六月の夕暮れである。雨のせいで時間がわかりづらかったが、夜が雲にしみこんで、濃く色をつけていた。






「邪鬼さんは怒ったように、わたくしの手を引いてくれましたね」
「………」
真珠貝で作ったような母の手が、笑いを隠すように口元に当てられた。病床から起き上がった母はまるで年をとっていないように邪鬼には思える。
まるで年を取らずに、青い顔のまま今も母は困ったように笑う。
「もし、わたくしを思って、お父様をあの時怒ったのでしたら……それは違います」
「違うとは」
間違っているとは言わなかった、違っていると母は言う。
背中に流れる髪の毛の豊かさにごまかされるが、その痩せた背中のなんと頼りない事か。今でも酷く咳き込むこともある。
「待っていて下さったでしょう。駆け寄って邪鬼さんを抱き起こせば、わたくしの手を引けば事足りるのに」
「………」
母は手首を擦る。白い寝巻きの袖が捲れ上がって、点滴や注射の跡が白い肌に生生しい。

「暑い暑い道路の上で、先に行かず、かといって戻らず。ただ待っていたのはどれほどにか胆力のいることでしょう」

戻って手を引くことは、大豪院の家長という重責が許さぬ。
妻子を放って先を急げば、父という情が許さぬ。

父に許された道はただそこで待つことだけであったと、母は邪鬼に言った。普段の困ったようなものではない、嬉しそうな微笑みで。





「俺にはどうも、その夫婦や恋人やらの情というものがよく理解できぬ」
脚を組んだ邪鬼は背中を椅子に預け、ぽつりと呟いた。
「……俺にもわかりかねます。多分、そういうものは当人同士にしかわからないのではないかと思います」
「そうか」
「恐らく」

影慶のその返答は邪鬼の気に入ったらしい。ふふふと低い声で笑って、耳を軽く引きながら言った。

「俺が家庭を持たば、わかる話か」
「え!?」

思わず腰を浮かせかけた影慶、邪鬼は愉快そうに喉を反らして笑った。

「冗談だ、馬鹿者」
「………!!」

その日それから影慶の返答があまりに素っ気無いものに変じたので、邪鬼も流石に困り、羅刹やセンクウに仲裁を頼むことになるのだった。
雨は勢いを増す。
終業後の帰りがけ、影慶は偶然に邪鬼の母がどうして日傘をささなかったのかを知った。
傘を差したものと並んで歩くと、相手を気遣うために距離を開けることになる。
邪鬼の母は隣を歩くために、あえて傘を使用しなかったのだろう。
教えて差し上げたら、邪鬼様は何と言うだろう――影慶はひそやかに笑う。
が、その機会は後に取っておこう。


何故なら仲裁の結果、食事でもという話になったまでは良かったが、死天王全員に邪鬼が肉を奢るというハメになってしまったからである。
この話、邪鬼の母の話を聞いたのは自分だけ。そんな自負のある影慶は、二人きりの機会を待った。






店へと急ぐ卍丸が振り返って、早く早くと邪鬼達を呼んだ。雨も小降りとなったようである。

モクジ
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