左手の恋人

富樫は迷う男である。
アンパンにするか、それともジャムパンにするか。
富樫は疑わない男である。
食べたアンパンが本当にアンパンかなど、思いもつかない男である。

迷いは疑いである。
疑いが自分へ向けられるのが迷いである。
富樫の頬は濡れていた。


富樫は年をとった。額や目じりに皺が入って、この間四本目になる白髪を見つけたばかり。
おめぇも大人になったんじゃのう、いくつもの戦いを共に斬り抜けた、尻のでかい相棒は偉そうに笑う。
フッ…お前は変わらないな。…顔をもっと見せてくれ、輝き透ける睫毛の、日本人離れした美貌の先輩は微笑む。
めいめい勝手、富樫を評す。
しかし、
おまえは、おまえさ。どんなになったっておまえさ。
そう富樫へ笑った男。
その男が消えて既に四日となる。若い頃ならばそれこそ一週間も顔を見なくても鼻で笑い飛ばせただろうに、年をとるとそうもいかない。
その四日で苛立ちや腹立ちがむくむくと育ち、そして不安が腹へ大きく胡坐をかくには十分な時間が過ぎた。
頑丈な肉体に、硬い根性を持つ富樫は意外にも精神面でまだ脆い部分がある。親友が誰にも何にも言わずに消えた、その親友が誰より強いと富樫が一番わかって いても、不安は拭い去れない。

「連絡はあったかよ」
こうした時に虎丸の遠慮の無さは救いである、日日の仕事は決しておろそかにしない富樫の頑固さを突き崩せるだけの力があった。
「……無ェ」
連絡も無しに消えた、誰にも言わず、ふっつりと消えてしまった親友。親友とは親ほどにも近い友人という意味だろうか、富樫はぼんやりと考えた。思考が上手 にまとまらないでいる。
「ま、心配いらないぜ富樫。なんてったって桃だからのう」
「おう、俺ァ心配なんざしちゃいねぇぜ。腹ァ立ってんだ」
あながち嘘でもなく富樫は言った。虎丸が茶化すか、とも思ったが、虎丸は続きを待っている。
「あいつが勝手にいなくなったせいでよ、先週の同窓会フイになったじゃねぇか」
「ハハハそうじゃったな、帰ってきたら怒ってやれや」
「たりめぇだ」
富樫が拳を振り上げる、振り上げたついで、学帽を引き下げる仕草はこの年になっても消える事は無い。おそらく一生。

それを見て案外大丈夫だ、虎丸はそう判断してその日は別れる。富樫を心配していた人間たちにメールなり電話なりで現状を知らせてやった。
富樫のように自分の都合で動けない人間以外は、消えた剣桃太郎の消息を探ることに力を尽くしている。

伊達の人出、虎丸の財力、大豪院邪鬼の人脈、挙げればキリのない力、男たちの作り上げた細かな力の網目をあざ笑うかのように桃はさらさらとすり抜けてい く。
死ぬ男だとは誰も思っていない、だからこそ何がしかのトラブルに巻き込まれたと思うのが自然であった。




一週間が経った。一時間、半日、一日、一週間、半月、一月、期間を表す単語が多いのも考え物だと富樫は思った。
既に一週間というだけの時間、桃が不在であるとわざわざ富樫に教えにやってくるのである。
夜中に目が覚めた。
瞼を焼く真っ白な光が脳天に突き刺されたようで、薄手の布団へ飛び起きる。
遅れて轟音、再びの白光、
「…カミナリかよ」
出した声に、富樫自身が驚いた。子供のように震えている、

『またな』

声が富樫の耳へ染み込んでいる。声の持ち主は二人。
一人は一生かけて背中を追いかける兄のものである。
一人は一生かけて肩を組んでいくだろう桃のものである。
二人共通して、富樫が何より大事に思っている人間である。更に、

『またな』

またな。この言葉が『また』を起こさなかったことまで共通している。兄は死に、
桃は、

「くだらねぇ、桃がそう簡単に死ぬかよ」

呟いた自分が一番それを疑っている、富樫は声に出したせいで嫌というほど知った。
疑いをほとんど知らぬ男である。

「桃ァ絶対に、戻らァ」

また口に出した。口に出さずにいられなかった、その迷いが富樫を打ちのめす。

カ、
カ、
カ、

光が三度空を裂いて、富樫の顔を照らす。カーテンを閉め忘れた窓を雨粒が叩いている、筋となって滑り落ちていく雨に乱されながら富樫の顔が映りこんだ。
蒼白である、もっとも稲光に照らされたのだからそれも当然。しかし、富樫はその蒼白を軟弱と、桃への裏切りとも取った。
信じていると口に出しておいて、疑っている。
迷いではない、それは富樫にとって、桃への裏切りにしか思えない。


「桃、」
名前を呼んでみた。できるかぎりこの迷いを晴らすべく、普段のように仕方が無ェという響きを滲ませて呼んだ。

とん、
とん、
とん、

窓を誰かが叩く。何か、では有り得ない、意思のある叩き方である。富樫はみっともないと思う暇もなく布団を跳ね上げて立ち上がる。窓辺へ駆け寄ると、雨が 吹き込んでくるのも構わずに窓を開け放った。
とたんに大きな雨粒が雷鳴と共に入り込んできて、富樫の頬をびしょびしょと濡らしていく。

「桃!」
富樫の声に迷いが無い、疑いも無い。どうしてだか、今自分が呼んだ、だから桃が窓を叩いた。そんな方程式が富樫の頭に成り立ってしまっている。
「桃っ!!」
もう一度富樫が外へ向かって声を張り上げた。魂を震わせて桃を呼ぶ。窓枠を掴む指先が真っ白く、雨に冷やされていく。その右手首を、
誰かが強く握った。

「桃、てめェ今までどこ行ってやがっ……」
掴まれた腕を振り上げ、
た、
を言いかけた富樫の目が大きく見開かれ、口を半開きにしたまま全ての動きを止める。

稲光。
轟音。

富樫の手首を掴む手、その手はまさに手。
手首だけが富樫の手からぶら下がっていた。






驚きが過ぎると声も出ないらしい。富樫はのろのろと窓を閉め、多少表面が濡れた布団に腰を放心状態で下ろす。
右手首を掴んだままの手首、その手首の断面図は血管や骨が稲走る度に見えた。しかし血は滴って居ない、人体模型のようである。
「………」
ほとんど浅い眠りにうんうん唸っていた富樫は、必要以上に枕の上で寝返りをうったせいで出来た寝癖の頭を傾げた。
迷う、
これを、桃と呼んでいいものか。
「もも」
そっと富樫が唇をかすかに動かして呼ぶと、手首がひくんと応えるように震えた。富樫の手首を離して布団へ落ちる。
その手首を富樫はそっと両手で包み込むようにして持ち上げた、よく見えるように目線のあたりへ。
「……桃」
どうやら左手のようであった、というのも先日戯れに桃が料理を作り、火傷をした時の痕が残っていたからである。
その痕は富樫への福音となった。やはり桃である、富樫の胸が熱く燃えた。
「…桃、」
繰り返し呼ぶと手首がひらりと舞った、手首だけだというのに富樫に掴まれたまま力強く進むと富樫の頬へ触れ、指の背で頬を撫ぜる。
『泣くなよみっともねぇ』
そう言われた気がした。
富樫の頬は濡れていた。雨粒にだ、とっさに富樫はそう胸のうちに呟く。

「相変わらず、わからん野郎だぜ」

呟きには富樫本来の前向きな力が次第に満ちている。死んだり生き返ったり、そんな破天荒を繰り返した富樫の順応力は並外れていた。
手首が再び力を持って、単に手首以外が見えていないだけで実体があるかのように富樫の胸を押した。不意を突かれて富樫は背中から布団へ倒れこむ。
手首が仰向けの富樫の顔へまたがった、人差し指がそっと富樫の唇へと触れて、わずかに口内へと入り込もうと指をくねらせる。

「ン」

富樫が唇をわずかに開いてやると、嬉しそうに人差し指を中へともぐりこませてくる。富樫の舌へ指先を絡めて、手首がふるふると笑った。笑ったような気がし た、
桃が笑っている、富樫は軽くその指先を噛む。硬い爪も、富樫が覚えているものである。

『フフフ、酷いな』

そう言われた気がした、肩をすくめて笑う桃を富樫は思い浮かべる。
手首は身軽に富樫の喉元へと飛び降りて、寝巻きの中を這いずり回っている。
時折の濡れた感覚、無遠慮でからかいを含んだ、しかし真剣な手。
富樫の知る、桃の手そのものであった。

「桃、」

富樫はもう一度、桃を呼んだ。

『…富樫』
呼ばれた気がした。深い満ち足りた安堵に、今度こそ富樫は目を閉じる。
髪の毛を梳き、戯れる指先を富樫は覚えている。








それからたったの三日で、富樫は疑ってしまった。
「本当に桃なのか?」
迷いが生じた。口に出してはいけない迷いであった。口に出した途端それは疑いとなって、富樫を撫でる手首へ向かう。

この手首が桃のものである、その点に関してもはや富樫は疑っていない。
しかし、これが桃かと言われれば困る。
「桃よう」
せめて、話せれば。そう思いかけて首を振る。
なら、唇が、舌が桃か。そうではないと富樫は首を振る。
いつになく富樫は迷っていた、

何が桃か。

例えば、桃が不慮の事故で左手首を失ったとしよう。
「事故っちまったんだ」
そう桃が笑うだろう。その時富樫は、
「てめぇ本当に桃かよ、」
そう尋ねるだろうか、そんなことは絶対にない。だからといって、胴体だけ放り出されてもそれが桃だと思うだろうか。
桃の何パーセントが桃になるのだろう、富樫には分からない。
桃の目があれば、桃だと思うだろうか。
いや、目玉だけでは桃に足りない。

何と何を満たせば、どんな要素を満たせば桃となるのか。
富樫は桃の左手に頬を撫でられて慰められつつも、そればかり考えていた。
もし桃の生きた生首が転がっていれば、自分はそれを掻き抱いて桃と確定をするだろうか。
わからないでいる。
しかし逆に、桃が手足を失ったと考えれば、それを桃と疑いはしないだろうとも思っている。

「なあ、オイ――」

どこからが桃なんじゃ、どれだけ揃えば桃なんじゃ、
「てめぇは、本当に桃かよ――」
手首が全体を震わせて、笑った気がした。






「富樫、」
呼ばれてはっ、と富樫は目を開いた。おかしい、今の今まで目を開いていただろうに。
見知らぬ部屋の見知らぬ布団の上に、富樫はあった。
「どうしたんだ」
桃が覗き込んでいる、富樫の視界に入るかぎりの桃がいる。富樫の喉を突いて、意味の無い声が噴出す。
「うあっ、あ、あ、あ、ああ、も、」

桃、桃、桃――悲痛な叫びが次から次へと喉を突く。桃が困ったように笑いながら、富樫の前髪を指先で払った。
桃へ抱きつこうとしても手足がまるで動かない、それどころか首から下の感覚が無い。


ぞっとした。
自分が生首となって、桃の前に現れたのだと富樫は瞬時に思った。
首だけの自分は、果たして自分、富樫源次の条件を満たしているだろうか、富樫は無性に不安になった。
不安に駆られて富樫は叫ぶ、真っ白な部屋に声が幾度も割れた。
「桃、桃、俺ァ、俺ァ、富樫かよ!」
支離滅裂な問いかけにも、桃は一瞬驚いたような顔をしただけで笑いはしなかった。慈しみを込めた眼差しが富樫の揺らぐ眼差しとかち合う。
「ああ、お前はお前だとも」
「俺が、う、腕いっぽんっきりになっちまってもかよ!」
「そりゃあ困ったな…だがな富樫、」

「おまえは、おまえさ。どんなになったっておまえさ」
その言葉は富樫にとってはまるで疑わしい、今富樫は疑っている。自分が富樫でいいか、迷っている。
そんなこと言ったって、腕一本、下手すれば髪の毛一筋になったらどうなんじゃ、そんなことを口走りそうになる。
「だ、だが、だがよ――」
「眠れ」

静かだが、桃が命じた。富樫は急に力を失う、代わりに正気が戻ってくる。


「散り散りになったお前を、俺が集めてやる。俺だけじゃねぇ、富樫。お前を思う全員で、お前を取り戻してやる」

ホントかよ――
疑いを口にしながらも、富樫は安堵に闇へと沈んでいった。
自分を疑いながらも、桃を信じる。それは富樫にとってとてもたやすい事であった。







「疲れただろう、飛燕」
「お互い様ですよ。それにしても…全身火傷で、よくも意識が戻りましたね」
担当医が飛燕だったことも大きな要因だったが、
「根性というものが薬に出来れば、世の中から病気がなくなるかもしれません」
富樫の根性、精神力が回復のカギであったと飛燕は語る。飛燕の部屋は病院だというのに白ではなく、薄いグリーンに壁が塗られていた。
居心地がいい、桃も微笑んだ。
「そうか。だいぶ混乱していたようだったが…生首だけでも俺か、とか」
「ああ、感覚がないから――よくあることです。もう一度意識を取り戻したらけろりと忘れているでしょう」
「そうか?ああ、飛燕―」
「はい、なんでしょう」


「人は何パーセント揃えば、人として成り立つんだろうな」
飛燕が答える前に、やっぱりいいと桃は答えを聞くのをやめた。病室を後にする。
梅雨明けも間近、桃は窓から差し込む梅雨休みの晴れ間へ左手を透かしてみた。
朱色に透けて、血色が明るい。
左手の手の甲には爪あとがあった、富樫がつけたものである。

先日塾長宅へ投げ込まれた火炎瓶は、塾長の邸宅を焼く事は敵わなかった。
かわりに正面から受け止めた富樫の全身をくまなく焼き、命を奪いかけたのである。
それが七日前のことであった。
七日間、桃は時間の許す限りに左手を富樫へ握らせていた。

もも、
もも、
どこじゃ、
もも、
あんちゃん、

喉を焼かれて潰れた声を上げながらうわごとを言う富樫へ桃は左手をしっかりと握らせ、いつもしているように触れてやったのだった。焼け爛れた顔に喜色を浮 かべた富樫を桃は忘れられないでいる。

「何パーセントで、俺は俺か…か」
呟いてみた。

「フッフフ左手だけで満足されちゃあ、俺も立つ瀬がねぇ」

限りなく百パーセント、全力でもって富樫に与えたいと桃は強く思った。
晴れているというのに、どこかで雷鳴が低く唸っている。
モクジ
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