ハローそしてグッドバイ!
誰かのお前を今日見たよ。
知らないお前の知らない俺は?
【交錯】
桜がよく咲いたある春の朝、隣の富樫がいないのに気づいて目覚めた桃は捜して歩くことにした。特に差し迫った約束があるわけでも言いたいことがあったわけ
でも、用があったわけでもない。ただ会ってあのチョビ髭面を拝んでようだとか、おはようとか言いたくて桃は歩くことにした。普段桃は起こされなければ目覚
めない、起こされたって目覚めないのだが、一言富樫が言って出て行った記憶も無いことに首を傾げながら着替えを済ませて寮を出る。
外の水道のパイプからは凍結防止のポリウレタンとビニルテープが剥がされて、パイプの足元には気の早い蓮華が一輪。
その水道で顔を洗っているらしい男の裸の背中が桃の目に入った、近づいていく。
「よう、」
「おっ、珍しく早いのう」
びしょぬれの顔を上げたのは虎丸であった。前髪が濡れて額にかかるとどこか子供っぽい印象になる虎丸に、桃はそうかなと頭を掻いた。
「いつもとあまり変わらないだろう」
「バッカ言うんじゃねえ、毎日寝くたれといてよう」
「そうだったか?」
「富樫が聞いたら泣くぜ、その台詞」
富樫の名前が出たところで桃は目的の人物を思い出す。そうだそうだと言いながら、
「その富樫だが、どこにいるか知ってるか?」
「へ?」
「いねえんだ」
「俺は見てねえが…おっ、あれそうじゃねえか」
虎丸が桃の肩越しに後ろを指差した、言われるままにくるりと振り返った桃はまぶしい春の太陽に目を細めながら校庭をゆく逆光の人影を見つける。
間違えようもなく富樫であった。
「富樫ー!」
口の横に手のひらをあてた虎丸が富樫を大声に呼ぶ。虎丸の呼び方にはためらいというものがまるで無い、桃は富樫を呼ぼうとして何度か虎丸に先を越されたこ
とがあった。富樫がいた、その事実が呼ぶという行動に直結するのが虎丸という男である。
呼び声に気づいたらしい富樫は手を一度二人へと振って、大またに歩いてきた。
おや、と桃は口元に怪訝そうな結びを作る。どこか違うな、と桃はつぶやきかけて、その原因が近づきつつある男のシルエットにあることに気づく。
富樫源次という男を思い浮かべる際にまず思いつくものを挙げよと言えば、
ドス、
傷、
根性、
学帽、
とほとんどの人間がこう言うだろう。中でも見た目でわかるものとして、身体的特徴でもないのにほぼ百パーセント富樫源次と結びついているものとして学帽が
ある。風呂に入っていても脱がないんじゃないかとからかわれるほど、富樫は学帽を手放さない。学帽は富樫の信仰の証かもしれないと誰かが言った。桃もそれ
に頷かざるを得ない、キリスト教徒が常に胸に神を抱いてクルスを下げるのに対して富樫は頭に兄の象徴である学帽を被る。富樫がどれだけその学帽を頼みにし
ているのかを知っている塾生達は、どんなに腹が立ってもその学帽については悪口を言ったりはしなかった。
「おう、早ェな虎ァ。それに桃」
桃と虎丸におはようと挨拶した富樫には、富樫の外見を形作る上で重要な、学帽という要素が欠けていた。カラスのように真っ黒でツヤの無い髪の毛がピンピン
ボウボウと跳ね回った頭を傾げて笑う富樫、その顔は間違いなく富樫、しかし学帽が無いということだけでずいぶんと二人へ与えた印象は違うものになってい
る。
「よう富樫ィ。なんじゃ学帽はどしたい」
桃はまたしても虎丸に言いたかったことを掻っ攫われた。桃は富樫に遠慮をしすぎる傾向がある、そう言うと誰かが「どこがじゃ」とがなりそうであるが事実で
ある。理由やら富樫の考えやら言い方やらをしっかりと考えた上で、自分の言葉で傷ついたりしないように発言するために、富樫に言わせてみれば時折「回りく
どい」物言いになる。
「ああ、断られちまったよ。諦めねえけどな」
「断られ?」
富樫の言葉尻を捕まえた桃は聞き返す。富樫はくしゃりと笑って見せた、胸をうんと張って太く落ち着いただみ声を作る。
「おう、『源次おめえにはまだ早い。おめえが立派な男ンなったらこれをやらあ』ってな。ヘッヘヘ厳しいぜ」
誰かの口調に声色までを真似てそういう富樫は厳しいと言いながらも嬉しげで、虎丸と桃は同時に顔を見合わせた。
簡潔でズバリと物を言うのが身上の虎丸ですらちょっと口ごもって、
「のう富樫、どういうこっちゃ」
そういうのが精一杯である。富樫はそう聞かれてワシワシと頭のてっぺんから掴んでかき混ぜる、学帽を被りっぱなしの富樫には今までなかったクセであった。
「…どういう、って」
「お前あれほど毎日学帽被ってただろう、どうして今日は被っていないか不思議だったのさ」
振り出しに一度戻して桃は聞き直す。富樫は怪訝そうな、訳のわからないものを見る眼で桃を見ると更に頭をかき混ぜた。硬い髪の毛がもつれ合って質量を増
す。
「どうしても何も、俺だって毎日被りてえがあんちゃんが許してくれねえからだろうが」
虎丸と桃、そして富樫との間に何かカーテンのようなものが走りぬけた。しかしそれに気づかなかったのか虎丸はウーンと腕組みをして悩んでいる。
「おっかしな事言うのう、おめえは入学してからずーっと被っておったのに」
「ボケたか虎ァ、おめえも俺が毎ン日あんちゃんトコ通って頼んでるの知ってるじゃねえか」
あんぐりと虎丸は顎を落とした。桃を見ると富樫をチラと指してくるくると頭の上で左巻きを作ってみせる。
「富樫、」
「おう」
桃はその時混乱していた。混乱していた上に、これから桃がどれだけのことを積み重ねようと決して届かぬその男から、富樫の視線を取り戻そうとする桃らしく
もない焦りも芽生えていた。珍しく端的に桃は切り出した。
「お前の兄貴は三年前、この男塾で死んだだろう」
「へ」
本気で何を桃が言っているかわからない、理解できない、という顔の富樫。その顔に桃は更に一歩踏み出して続けた。
「お前は毎日、兄貴の学帽を形見だと被っていたじゃないか」
「も、桃おめえそりゃ冗談が過ぎるってモンだぜ…」
富樫の声が戸惑いながらも湧き上がり始めた怒りの色に揺れている、それをわかっていながら桃は追求を緩めない。
「お前は兄の敵討ちにここへ入塾したんだろう、目を覚ませ」
「てめえッ!」
その拳には迷いも遠慮も無かった。純粋な怒りに満ちていて、桃の左頬を捉える。桃は痛みに顔をゆがめたが一歩も後退したりはしなかった。
「富樫!おめえ何すんじゃ!」
「うるせぇ!!あんちゃんが死んだなんて、じょ、冗談でも聞きたくねえんじゃ!桃、桃俺はおめえを、おめえを心底見損なったぜ!」
普段のいさかいや喧嘩とは訳が違う、本気の拒絶であった。桃の謝罪を受け付ける気もないとばかりに富樫は駆け出した。
切れた唇の端から血を一筋流して、桃はただ立ち尽くしてその後姿を見送る。虎丸に肩を揺さぶられても中中立ち直れない。
「………」
「桃、桃とりあえず中入ろうや。な」
「ああ…そうだな」
授業が始まる。春のほこりくさい濁った風が強くなって、二人の学ランの裾を跳ね上げた。
その日富樫は教室に現れなかった。
秘密の花園というには質素で、見た目も単なる鉄骨組みのビニルハウスだがそこは間違いなく花園である。暖かくなった上に陽だけ受け入れて風は遮るその花園
はムッとするほどに暑かった。深い緑の香りがする、名前も知らぬ花達がやかましく香って渦巻いていた。
センクウは泥に膝が汚れるのも構わずしゃがみこんで、ただ一人コトリ草の手入れをしている。コトリとは小鳥ではない、服用すればコトリと死ぬだろうその毒
性を表していた。
と、荒々しく土を踏む男の足音を耳にし、センクウはすらりと立ち上がった。このような場所へと訪れる男で、若く激しい足音を立てる男をセンクウは他に知ら
ない。
「…どうした、富樫」
「センクウ先輩」
富樫は顔を真っ赤にしていた。別に恥らっているわけではなく、怒りと混乱と不安に頭に血が上ってしまっているのがセンクウには見ただけでわかる。何かあっ
たらしいなと読んでわざと落ち着いた声で呼びかけた。
センクウの名前を呼んだきり、富樫は肩を荒く上下させて押し黙った。鼻息で髭がフッフと揺れてその勢いが強いことがわかる。
「………」
続きをせかしてはいけない。虎丸あたりならなんじゃなんじゃ、早く言わんかいと突っ込んで結局話し出せなくなってしまうのだがそこは三号生の落ち着き、押
し付けがましくない程度に黙って待ってやる。
「…その、その、あんちゃんが」
さすがにセンクウの眉が寄った。あの闘い後わだかまりは少しずつ少しずつ富樫から解け消えていったように見えてセンクウはとても嬉しかったが、こうして改
めて名前を出されるとその胸はまだ痛む。納得してお互い力を尽くして戦ったのだとセンクウは自分に言い聞かせるが、そうして言い聞かせること自体言い訳が
ましいようで気分を落ち込ませる。
「あんちゃんがいねえんだ――」
その声があまりにも悲痛なものだった、心からのものであった、それだけにセンクウは心を深く突かれた。
自分を傷つけるためにそういう言葉を持ち出してくるともセンクウには到底思えなかったし、またそうした回りくどいやり方をする男では実際ない。
「……」
「朝は桃の野郎が、し、し、死んだなんて抜かしやがった!教官に聞いてみても、何訳わからんこと聞きやがるだとか、そ、」
そんで、というところで富樫は言葉を詰まらせる。息継ぎすら上手くいかないほどに焦っている。センクウは胸の痛みにただ耐えて、一言、
「落ち着け」
そう言った。
「落ち着いていられっかよ!!朝会ったばっかりのあんちゃんが死んだなんて、そんな事あってたまっか!」
噛み付くような勢いで、拳を固めて怒鳴る富樫。しかしすぐに相手が先輩であること(あるいはそれ以上であること)を思い出してか言葉の切っ先を下げる。疲
労の色が濃い目元が一つ瞬きに震えた、泣くかな、とセンクウはその目元を注視した。
「色々おかしいんじゃ」
ぽつりとそう呟いた男は一般的に見ればむさ苦しい、老け顔でいかつい男。しかしその目には不安や頼りない色が瞬きのたびに現れては移り変わり不安定な雰囲
気をかもしている。
ああ子供のようだなとセンクウは思いながらその肩へと手をやった。掴んで、
「行こう。お前の聞きたいこと全てに答えてやる」
そう富樫を支えて歩き出す。
「いいか富樫、何を聞かれても決してハナから突っぱねず、一度すべて聞け。お前の疑問にも答えてやるし、俺は決してお前に嘘はつかない」
本当に兄が弟に対してするように富樫へ説きながら、塾生達を集めた教室を見渡した。富樫はぎこちなく頷いて椅子に腰掛けてセンクウと同じように集まった塾
生達へ目をやる。桃の上を通過するときだけわざわざ視線を急がせたのがわかって、桃は少しうつむいた。
「まず馬鹿馬鹿しいだろうとは思っても、一つ一つ答えてくれ」
「お、おう」
「フッ…そう緊張しなくていい」
富樫の顔に初めてホッとしたような安らぎが浮かぶ。
そして富樫へ、年はいくつか、出身地は、兄の名前は、兄について、桃について、虎丸について、基本からずらずらと根気良く訪ねていく。最初こそからかわれ
ているのかと機嫌悪そうにみえた富樫だが、自分を取り囲む級友達の顔が真剣なのを見て真面目に答えていく。
「伊達についてだ」
「ああ、二号生筆頭で…」
え、と誰かが声を上げた。ここぞとばかりにセンクウは聞く、
「富樫、お前の中で赤石は何号生だ」
「え、…さ、三号生」
ざわりと波打つようにささやき交わす級友達。富樫は肩を縮こまらせて居心地悪げにしている。
「よし、わかった。そして富樫、お前の兄は…」
「二号生」
ざわめきが強まる。
「富樫。おおよそのところはわかった」
センクウが肩を叩くと富樫はすがるようにその先輩へと顔を向けた。センクウは首を振る、横に。
「違っているんだ」
一瞬だが富樫は打たれたように身体を跳ねさせた。そして震える声で、
「…せ、センクウ先輩…アンタまで、アンタまで俺が間違ってるっていうんか!」
「間違ってはいない」
「じゃあ!」
「違ってるんだ」
そのやり取りを最初から真剣に聞き続けていたある塾生がそっと呟いた。呟きは静まり返った教室に跳ねる、低くさびているが豊富な知識に裏づけされた頼もし
い声である。
「ぬぅっ、あれは…」
普段であれば我も我もと「知っているのか、雷電!」そう声を張り上げるのであるが今回ばかりは声が上がらない。声を発したのはたった一人。
「知っているのか…教えてくれ、雷電」
一号生筆頭、剣桃太郎であった。
「羽羅零瑠世界でござる」
「パラ…なんだって?」
ぱ、ら、れ、る、と一音一音ゆっくりと発音してから、塾生達の前へと進み出て説明を始めた。
「羽羅零瑠世界、中国唐の時代に発祥した概念で詳しくは省略し申すが、もう一つ…いや幾通りもあるであろう平行世界の事でござる。話をずっと聞いており申
したが、どうやらこの富樫、拙者達の知る富樫ではないように思いまする」
「な、なんじゃと―っ!?そ、そんじゃあ雷電よう、ここにいるのは富樫じゃねえってのか!?」
こんなにソックリなのにぃ!虎丸が雷電へと噛み付く。虎丸のまっすぐで打てば響くような裏表の無い物言いは救いである、重たくなりかかっていた空気に風が
通る。
「富樫は富樫でござる。しかし、拙者達の世界の富樫ではないのでござる」
「ウウウわけ、わけわからんのう…ほんじゃ雷電、俺らァの富樫はどこいっちまったんじゃ」
「おそらく…この富樫の世界に迷い込んだのでござろう。何らかの要因で二つの世界が交錯して、その拍子に富樫が入れ替わったということになろう」
ざわめきが動揺に大きくうねって、後はめいめい好き勝手な(しかし真剣な)憶測と心配と意見とで教室が沸騰寸前へと追いやられる。誰かが静かにしねえかと
声を張り上げても踏み潰され、収拾がつかない。
収めてみせたのはやはり一号生筆頭であった。背からダンビラを抜くと、渾身の力を込めて床を突く。耳障りな金属音と、生じた衝撃に一瞬にして教室は静まり
返った。
「雷電…それで、戻る方法はあるのか」
「安心めされい。自然と、そう最長でも一日でねじれた世界は戻り申す。世界は違いを許さぬように出来ていると、そう記憶している」
「そうか」
うん、そうか、うん。桃にしては噛締めるような、子供っぽい頷きを繰り返す。虎丸からは桃の背中しか見えなかったが確かにその背に安堵を見た気がした。
「も、桃」
勝手に戻るとわかれば後は呑気なもの。向こうの世界の自分について聞いたり暮らしぶりを聞いたりと質問攻めに一通りあわせた後は自然に散開。その単純さが
いかにも些細な部分にはこだわらない男塾の塾生達らしかった。最後にセンクウは富樫の背中を優しくさすった後で、
「言わなければならない事がある…そうだな?」
そう背中を押し出して去っていった。富樫もわかっていた、押忍、そう答えて自分のもといた世界でも変わらずに大事な先輩に深い一礼をして見送る。
自分の頬をビシャンと真っ赤に腫れあがる程強く叩いて気合を入れ、桜の樹に背中を預けて眠っているらしいその男へ、富樫は声をかけた。
「も、桃」
喋り出しからしてどもってしまった。富樫は自分の緊張に舌打ちをしたい気分だったがとにかく足を投げ出している桃のすぐ側へと膝をついてしゃがむ。
桃の瞼は下りていて、富樫の言葉に微かに震えたばかりだった。
富樫の視線はその瞼から真っ赤に痛々しいほど醜く腫れ上がった頬へと下りていき、最後にまだヒリつく自分の拳へとたどり着く。
悪かったな、そう言おうと富樫は口を開いた。
「悪かったな」
「な」
富樫が言おうとしていたそのまま、桃は目を閉じたままそう言った。富樫が目を白黒させているのは目を閉じているため見えようもないが、勝手に繰り返す。
「悪かった」
「悪かったのァ、俺のほうじゃ…知らなかったとは言っても、それ」
それ、と言って富樫は桃の頬の腫れていない部分へと指を滑らせる。桃はぱちりと目を開けて瞬いた。
「痛かったろ、桃。すまねえ」
「いいさ、お前らしい」
桃は笑った。富樫は申し訳なくって頬から手を放すと頭を掻いた。
「なぁ富樫、向こうの俺はどんなだ?」
「どんなだって言われても…桃は桃じゃ」
「そうか…お前もお前だな。さして変わったふうもない」
唯一無二の、兄の存在以外は。
「向こうの俺に伝えてくれるか?」
「おう、なんじゃ」
風が強く吹いた。あちらもこちらも変わらないだろう桜が騒いで花びらで視界が埋め尽くされる。富樫と桃との隙間を真っ白い花びらが飛び交って、二人は目を
細めた。桃はなおも笑う。
「がんばれ、と」
「…何を頑張るんだかさっぱり意味がわからねえ、それっぱかりでいいのかよ」
「ああ」
花びらを叩きながら意味がわからなくて不満げな富樫へ、桃はそっと手を伸ばした。ためらいなく富樫はその手を掴んで、ぐっと握る。
富樫のその腕が動きの鈍い桃の身体を一本釣り、無理やり引き起こすと顔を寄せた。身体同士がぶつかりそうな勢いだったが、接触はわずかばかりににとどまっ
た。それもすぐに離れる、掠る程度の接触である。
接触被害は唇同士。
富樫の唇は荒れて皮が剥けていた、それがちくんと桃の唇の表面を痒いほどに刺していった。
桃がこぼれるほどに目を丸くしている。富樫は口を横に吊ってニターっと笑った。
「なんじゃ、こっちの桃ァえらくまっとうじゃねぇか」
珍しい日である。まったく珍しいことに桃が言葉もなくなっている。
「……まいった、」
言えたのはようやくそれっぱかり。
「ヘッヘヘ桃、それじゃあな」
もう一度強く風が吹く。桜が再び二人の間へ割り込んで、視界を埋め尽くしていく。
花吹雪が晴れた時、富樫はぐうぐうと桃の横で寝ていた。
確かめるまでもなく学帽はしっかりその頭に乗っている。
「伊達」
「俺は牧師じゃねえ、懺悔なんぞそこらに捨てろ」
漫画を読む伊達は素っ気無い。漫画がそれほどまで面白いのではなく、桃の話を伊達は聞きたくなかったのである。大体何かあると桃は伊達へ聞いてくれとやっ
てくる。聞いてやって伊達がいい気分になったことは一度としてない、大体は犬も食わない類のものだったり、胸にしまいこんでやらねばならない類のものなの
である。夕暮れの教室で一人漫画を読んでいた伊達は自分の無防備と、呼ばなくても来るくせにこうした時にてんで現れない無精髭とをあわせて呪う。
「富樫はどうした」
桃の話が始まる前に伊達は聞いてやった。漫画から目は離さない。
「ずっと寝てる。雷電はじき目を覚ますと言っていた」
「ついてなくていいのか」
「いい」
桃はいつの間にか伊達のすぐ側に行って、椅子に身体を預けている伊達を見下ろした。
「『あんちゃんは?』とか聞かれたらさすがに俺でも立つ瀬がねえ」
「てめえがそんなタマかよ」
机の上に積み上がった漫画を一冊取り、伊達の正面の席の椅子へ後ろ向きに桃は無言で座る。陽が落ちて薄暗いが、廊下の蛍光灯でまだ十分に明るい。
「………」
「おおかた、いい夢見たとでも言うだろうよ」
「そうかな」
「さあな」
自分から言っておいて伊達はひどく冷たい。その冷たさに桃は眉尻を下げて薄く苦笑する。
「いいからとっとと行け、」
「…もうちょっと」
伊達が何か言い出そうとした同時に、廊下へ誰かがどやどやと走る音が近づいてきた。
「も、桃ーっ!!すげえぞ!!あんちゃんが、あんちゃんが!桃、桃どこじゃ!」
向こうで兄に撫でられたか励まされたか褒められた抱きしめてもらえたか、その声に満ちているのは採れたて新鮮ぴっちぴちの喜びである。見なくてもその顔が
興奮に真っ赤で、目がキッカキカで、そうなっているのがわかる。
伊達は短く、
「良かったな一番に探してもらえて」
桃は教室を飛び出した。
「…あ、あの野郎三巻持って行きやがった!」
Copyright (c) 2008 1010 All
rights reserved.
