苦い爪
男塾三号生筆頭、大豪院邪鬼。
彼は久しぶりに生家を訪ねていた。大豪院邪鬼はかすかに険しい頬へ笑みらしきものを乗せた。それを見たものはいない、見たのは生家の塀と門それから塀を乗
り越えて花咲く木蓮のみである。
『邪鬼様にも、家族がいらっしゃったんですね』
そう呟いた影慶のいかにも驚いたという顔が思い出されての笑みであった。
『フッ…俺とて女の腹から生まれたのだ、貴様と同じくな』
言い返してやると、影慶も血色の悪い頬にかすかな笑い。
『そうでしたか?』
最近の影慶は変わったと邪鬼は思い返す。影慶は影慶で邪鬼様は変わったなと思っているのでアイコではあった。
歩みを進める。
「若様、お帰りなさいませ」
「うむ」
「今御前様にご報告をいたします、それまでごゆるりと…ああ風呂の準備は出来てございますゆえまずは湯殿へ」
「いや、いい」
風呂に邪鬼は一つ苦い思い出がある。あれは十四になった時の事であった。十四といっても世間の軟弱な男子と違い、大豪院家の嫡男である邪鬼の身体はまだ成
長の余地を残しながらも十分に出来上がっており、大人と大差なかった。何時ものように邪鬼が湯殿で一人身体を洗っていると突然戸が開いて女が入り込んでこ
ようとしている。曲者かと拳を放とうとするが相手は裸の女であり、そして邪鬼にとって全くの他人というわけでもなかった。言葉をかわしたことは無いが正月
など親族の集いの中で顔を見かけたことのある分家の女である。
「何の用だ」
邪鬼は前を隠すこともなくそう尋ねた。隠したり恥じたりするような身体は授かっていない、その通り邪鬼の身体は見事なものであった。美である、畏れに繋が
る美であった。女は邪鬼の身体に顔を赤く染めて、湯殿の床に伏してこう述べる。
「授かりとうございます」
「何?」
「邪鬼様の子種を授かりとうございます、どうか」
どうかお恵みくださいまし―女は細い声でそう述べた。これには邪鬼も面食らう、いかにも老獪な分家の長老方が考え付きそうなことよ―邪鬼はむうと唸って腕
を組む。
「やれぬな」
邪鬼の返答は短い。憤りに、女に対するものではない憤りに髪の毛が根元から立ち上がる。女はひっと声を呑む。
「この邪鬼、種馬の真似はせぬ。そう伝えろ―よいな」
「は、はい!」
女は細い首を何度も上下させて、檜の床に手をついて這うようにして湯殿を逃げ出していく。湯気がすっかり逃げて冷えが変わりに忍び込んできていたので、邪
鬼はふんと息をついて湯船へ身体を沈めた。薬を混ぜてある緑色に色づいた湯が勢い良く流れ落ちていって、身体が一気に軽くなっていく。
ほう。
広い、大豪院の男たちがくつろげるほどに広い湯殿に邪鬼のため息が響いた。そして、
「俺もまだまだ――」
苦笑に滲む呟き、邪鬼の視線は己の股間へあった。邪鬼とて男、それも若い盛りの男である。それはちらと見た女の裸にしっかりと反応を表している。
まだまだ、そう自分の未熟さを笑って邪鬼は身体をくつろげた。
そうした手合いは風呂だけではなく寝所にも現れ、そのたび邪鬼は退ける。六度目の辺りで面倒になり、実家から足は遠のいた。
たまに戻ってきても邪鬼は泊まりをせず、そのまま男塾へと戻ることにしている。そうして今日、邪鬼は実家を訪れていた。
邪鬼が進む廊下は家の北側へと続いている。父にも祖父にも会いもせず、マントすら脱いでいないまま邪鬼は進む。
たどり着いた部屋のドアは硬く閉ざされていて邪鬼を客を拒んでいるようであった。
とんとんと硬い拳の背でノックをすると女の声で返事があった。
「どなた」
「――邪鬼です」
「お待ちになって……どうぞ」
どうぞを聞くなり開く、踏み込む。
邪鬼がノックをする部屋はたったの三つである、江田島平八の部屋、父の部屋、そして、
「母上、」
母の部屋。
病院のようなベッド、北向きで薄暗い窓、弱弱しいレースのカーテン、水差し、側机、
薄緑の布団、シーツは早緑、その肩にかかった上着も柔緑色。優しい緑色でまとめられた部屋である。その部屋の用途を示すように窓際へと置かれたベッドに上
半身を起こして、邪鬼を出迎える女。
「母上」
「よく来てくれました、まあ、また大きくなったようで」
使用人の誰かがその女をウスバカゲロウのようだと言ったが、確かにその雰囲気の透明さ儚さは通じるものがある。邪鬼を出迎えようとベッドから降りようとし
たのを邪鬼は手をかざして止めた。
「そのままで」
「ごめんなさいね、みっともなくて。髪の毛も整えていないの」
母はそう言って、耳に背中まで流れる髪の毛をはさみながらベッドに腰を下ろす。寝巻きの裾から出た足首は枯れ枝のように細い。邪鬼はそっと肩へずり落ちた
柔緑色の上着をかけ直す。
「ありがとう」
邪鬼から見て、微笑む母はだいぶ具合がいいように思えた。真っ白な頬に血色があって、唇も生気をうつしている。
(いくつになったのだったか―)
自分の年から逆算して、邪鬼はすこし驚いた。世間で言えば中年という年頃にさしかかっているはずの母は自分が幼い頃見たのと何も変わっていないようにも見
える。
相変わらず透けるように色が白く、邪鬼は星が消えるようにして途絶えそうな雰囲気を持つ母をベッドの傍らに立って見下ろした。
「元気にしていましたか」
「はい」
それはよかった、と言いながら邪鬼の方にそっと手を伸ばした。邪鬼は母がしたいように手を取らせる。恐ろしく冷たい手で邪鬼の手のひらをひっくり返したり
撫でたりしながら、母はそっと呟いた。
「爪の形が、お父様そっくり」
「………」
どうこたえたらよいものか、邪鬼は無言のままである。
「邪鬼さん、お父様へはもうご挨拶は済んだの」
「いや」
「いけないわ、わたくしなぞ最後でよいのに」
ね、と幼い子供へ言い聞かせるように母は邪鬼を睨んでみせた。薄い眉が寄って、白い眉間に皺が出来る。邪鬼は黙り込む。黙り込んで母の目を見据える、瞼は
白を通り過ぎて青い血管が浮いているのすら見えた。
母の具合は良くない―それは邪鬼が幼いころからずっとそうであった。
太陽にあたっては倒れ、
寒さに熱を出し、
季節の変わり目には必ず身体を壊して寝込み、
雨の日には頭痛を引き起こす。
幼かった邪鬼は母とどこかに出かけたり、一緒に眠ったり、遊んだり、そんな当たり前の経験をほとんど持たない。そしてそれはこれから取り返すことが出来る
類のものではない。そんな母に一番に会いにゆくのは邪鬼なりの気づかいである、部屋から出ることも叶わない母と違って父にも祖父にも立派な足がある、会い
たいならばそちらから来るがいい、そういう考えであった。
「学校は楽しい?」
当たり前の母のようなことを尋ねる、邪鬼は当たり障りなく頷いてみせる。
「それはよかった、邪鬼さん。そこにかがんで頂戴、髪の毛をとかしてあげましょう」
「いや、」
断りを口にした邪鬼に、子供のような母は細く骨っぽい首を振って言い張る。
「男の方ばかりで、手入れをしていないのでしょう。わたくしにやらせて頂戴」
そういわれると無碍に断るわけにもいかぬ、邪鬼はその場に膝をついた。邪鬼は男が膝をつくものではないと常々思っていたが、これに関してはその限りではな
いそう思われた。
母は側机からツゲの古い平櫛を取って、邪鬼の髪の毛に差し入れた。ひやりとした指先が邪鬼の耳へと触れる。
「髪の毛がお父様そっくり、癖が強くて、太い」
「む」
「ごめんなさいね」
母は詫びた。母の詫びを邪鬼は聞き飽きるほどに聞いている、聞きたくないからこうして出向いてきたと言うのに――邪鬼は顔をわずかにしかめた。背後で髪を
熱心にとかす母は癖のようにその言葉を口にした。
ご飯を一緒に食べてあげられなくて、ごめんなさい。
一緒に寝てあげられなくて、ごめんなさい。
迎えにいけなくて、ごめんなさい。
見てあげられなくて、ごめんなさい。
側にいてあげられなくて、ごめんなさい。
沢山のごめんなさいを邪鬼は聞いている。それも直接ではない、使用人づてである。病気がうつるといけないからと部屋の戸は硬く閉ざされ、使用人は冷たくそ
の言葉を伝えた。外より嫁いできた母はこの家で一人孤独で、味方である父にも遠慮ばかりしていた。中中子供が出来なかった時分には様々なところから石女、
うまずめ、役立たずと罵られ、生んでからは身体の弱さをしつこく言い続けられる。母はそのたびにごめんなさいを繰り返した。
「公園を覚えていますか」
「はい」
髪の毛をとかされながら邪鬼は答えた。公園、何度かあの頃まだ多少健康であった母は邪鬼を連れて行ったことがあったのを思い出す。
「子供というのは、転ぶものです」
「はい」
「一緒に公園に、なんどか行きましたね」
「はい」
本当に行っただけであったが。そしてその後三日は寝込む母であったが、邪鬼は何も言わない。
「わくわくしていました」
「…はい」
「邪鬼さんが転んだら、わたくし、駆け寄って抱き起こしてあげようと思って。それが母親のすべきこと、そう本に書いてあったので」
くしけずる手が止まった。邪鬼が頭を軽く引くと手が再びとかしだす。
「邪鬼さんも転びました。けれど、わたくしが行こうとしたら自分で立ち上がってしまうのですもの」
転んだ記憶、邪鬼の記憶にそれは見当たらぬ。しかし邪鬼にとって転んだなどとは好んで思い出したい記憶でもなし、口を結ぶ。
「わたくし、出番がなくなってしまいました」
「ああ」
「でもそれが邪鬼さんですもの、わたくしの手を借りず恐い顔をして立ち上がる――それが邪鬼さんなのでしょう」
「……」
はいと答えれば母を不要だと言うことになる。
いいえと答えれば甘ったれだと言うことになる。
どちらにせよ、邪鬼は答えを迷う。
背中をとん、と冷たい手が押した。とかし終わった合図に邪鬼は立ち上がる。
邪鬼が振り向くと母は笑っていた、記憶の中では常に真っ白だった頬には赤がさっと入って具合がよさそうに見える。
「わたくしを呼んで、泣いてくれない貴方をちょっと恨んだりして…ごめんなさい」
「母上」
母は笑っている。母はもう長くない―邪鬼はそう聞いていた。そう長くないとずっと聞かされ続けていた、このまままっとうに続けることは難しいであろう。だ
ましだましやりながらも確実に病魔は母を蝕んでいる。
「立派になって」
少女のような、死体のような、妖精のような、どの表現も当てはまらない母は夢を見るような眼差しで邪鬼へと手を伸ばす。今度はその手を邪鬼が掴んで、隣に
腰を下ろした。
母の膝に置いたままの櫛を取り上げると身体を無理にねじって、母の背中中ほどまである後ろ髪をとかしだす。
肉などどこを見てもない母の肩がかすかに驚きに揺れて、それから大きく呼吸に上下。
「邪鬼さん」
「はい」
シーツへ母の髪の毛が櫛にとかされて数本落ちていく。それを邪鬼は横目に後で拾い集めることに決めてから返事をした。
母はのんびりと、
「わたくしがしてあげられたこと、ありました」
そう言い出した。
「……」
「爪です」
爪、邪鬼は思わず自分の爪を見た。母が先ほど父そっくりだと言った、四角くて厚みのある硬い爪。
「邪鬼さんは何か悔しいのか、怒っているのか、爪を噛む子でした」
記憶を探ってみても出てこない事実である、母は目を伏せて続けた。目を伏せた拍子に首が傾いでとかしづらくなる、邪鬼は頭を抱えるようにして上を向かせ
た。両手の平で頭を抱えるとその頭蓋がなんとも小さく貧弱なものであることに気づかされる、指先へ力をこめればいともたやすく砕けそうな薄い頭蓋。
記憶にはないが爪を悔しげに噛む邪鬼は想像はつきそうなものである。まだ思いのままにならぬ身体に、一人で生きていくことのままならぬ世界、悔しくて歯が
ゆくて爪を噛む邪鬼。幼子にそんな意識があるかどうかは不明であるが、邪鬼ならありうるとも思える。
「わたくし一計を案じて、お父様にとびきり苦い薬をお願いしました。センブリや、ニガヨモギ―それらで作ったとてもとても苦いお薬を毎晩、邪鬼さんの爪に
塗りました」
「…む」
「それだけ」
もういいわ、ありがとう。
母はそっと頭を引いた、邪鬼の手にある櫛から髪の毛がするすると抜け出ていく。邪鬼は手早く落ちた髪の毛を拾い集めて母の横顔を見た。
と、母の頬へ一本の髪の毛が張り付いているのが見える。汗というわけでもなくたったの一本、思わずそれへと邪鬼は手を伸ばして指をかける。
ぺり、
乾いた微かな音を立てて髪の毛は頬から剥がれた。何かノリのようなものでくっついていたのか、目を凝らしてみるとそれは、
(血だ)
頬に塗り広げられた血に張り付いているのであった。よく見ればその広げた痕に指紋の筋が見える、血色を良くするためにノックから返事の間に針か何かで指を
傷つけ、その血を頬に塗ったに違いがなかった。
そうまでして、息子に元気な自分を見せたいのが母親である、邪鬼は畏れすら抱く。
「母上、」
「はい」
なんでしょう、細い声。
「お元気で」
「…はい、邪鬼さんも」
母はにっこりと、心の底から嬉しそうに笑った。
お元気で、
お元気で、
どうか。
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