肌香佩薫
俺は今もあの爪のかぐわしさを覚えている。
五時を過ぎてもうすら明るい。ソファにもたれかかったセンクウの目に宿る光の源は街灯や星ではない。
春間際特有の夜冷えはあるものの、真剣に駅まで駆けようかという気になるまでではない温み方であった。
「よう、センクウ」
声をかけた卍丸程ではないが、センクウも目立つヘアスタイルではあった。だが沈み込むように辺りの気配に自らの気配を滲ませて、ぼやかしてあったため注目
を集めることはなかった。
庁舎の一階片隅にあるカフェでセンクウは一人冷め切ったラテを睨んでいた。白いマグカップの半分程度飲んだあたりで手をつけるのをやめたようで、取っ手ま
で冷たくなっている。カフェにはほとんど人がいない、美味いが割高だし、近所にチェーンのコーヒーショップがある。
その一番奥の席にセンクウはひっそりといた。いいかも何もなしに、卍丸はその正面の席へと尻を落ち着けた。
色の薄い睫毛をちらつかせながら瞬き、センクウは小さく卍丸の名前を呼んだ。
「おまえか」
「おごれよ、給料日前で金を使い果たした」
カフェでおごれとは、センクウは白い頬へ皺を作って微笑んだ。給料日前と言ってもあと二週間近くもある、ものは言い様であった。
さて何に使ったのか、その突拍子のなさを聞くのがセンクウは実は楽しみでもある。
「何に使った」
無愛想な店員に合図し、センクウは自分と同じものではなく一番安いアメリカンを頼んでやった。卍丸は寒かったのか手をカサカサ擦り合わせて、悪いなとちっ
とも悪びれた様子もなしに言った。
「靴買った」
「そうか」
案外普通であった事自体が普通ではない、普段わけのわからないものにつぎ込む卍丸にしては珍しいと、センクウはちらりと首を傾げた。
「待ち合わせか?」
「俺か」
「お前以外に誰が居るんだ」
卍丸の好奇心の虫はよほど大型らしく、むくむく這い出てきてセンクウの目の前にあるカップその横に転がる砂糖の空いた袋を見ている。
センクウは基本的には一杯には砂糖を一袋だ、だのにその空き袋は三つ。少なくとも二杯は飲んでいる、業務は終わった、だのに、
何故?
卍丸の目から発せられた質問を敏感にセンクウは読み取った。鈍感でも無理やり気づかされそうな輝き方ではある。
センクウはふ、と笑った。兄がしようのない弟にする笑みである。最近であればまた無茶をやった後輩の富樫へ投げた笑みに近い。
卍丸は背もたれから身を起こしてコーヒーを猫背にすすった。目だけは猫のようにチラチラさせたままセンクウを見つめている。
「……待ち合わせだ」
降参、とばかりにセンクウは白状した。
「女か」
「…女だ」
にっ、唇の際がつりあがった。
卍丸はいよいよ身を乗り出した。これは後で邪鬼様へ報告だ、韋駄天のごとく触れ回ってやろうと身構えている。
「どんな」
「……」
「いいじゃねえか、不満だってなら俺の事なら何でも話してやるぜ?」
「お前の事を知ってどうする」
「なあ」
センクウはちらりと時計を見た。まだだいぶ時間がある。
「挙体異香を知っているか?」
「知らん」
だろうな、センクウはすっかり冷め切ったカフェラテを一口飲んだ。冷めた分甘く味がきつかった。繊細な眉がふわりと寄る。
「身体から、ただならぬ良き香りをただよわせる事だ。古代中国の楊貴妃もこれだと言う」
「におうのか」
「『かおる』のだ」
わざわざセンクウは言い直す。香りについてセンクウは独特のこだわりがあった。
「ふうん」
卍丸は先を促した。
「身体を香らせるために様々な丸薬を飲み、常に身体には香り袋を添わせ、壁にも香料を塗り込める――その努力の後に、手を洗った水にすら香りが移るほどに
までなる」
「で?」
アロマ講座聞きたいんじゃねえ、と口に出さずとも卍丸の顔が言っている。
「挙体異香に俺はあこがれていたのさ、ずっと前から」
「ああお前匂いフェチだったものな」
身もフタもない言い方である。その上、今の今匂いに敏感だと言ったセンクウを前にしてタバコいいかなどと言い出す。センクウは首を横に振った。
舌打ち、文句が出る前にとセンクウは話し始めた。
「俺は昔その挙体異香に出合ったことがあってな」
あれは自分がまだ男塾に入塾したばかりの時であった。十六やそこらであった、と記憶している。あまりにむさくるしいその室内に何か華やぎを、と思い、鋏を
片手に深夜の町を花盗人にうろついた時のことである。この頃センクウが夢中だったのは薔薇であった、字面から姿から何もかも美しいその花を求めてうろつく
うちにある一軒の旧家へと行き当たる。都内であったがたいへんに広い屋敷であった。
庭へ忍び込む、身のこなしには自信があったセンクウはいざ警備のものが出てこようと逃げ切れようと踏んで庭をさくさくと進む。
日本庭園にしては鬱蒼としていたと記憶している。その後彼が傾倒していく毒草が茂っていて、何かよどんだような空気が漂っていた。
ハシリドコロ(この時彼はこの植物の名前を知らなかった)を知らず踏んで、さてどの花を、と庭園を見渡していると、
「これ」
と咎める女の細い声がした。声の調子からして三十代の女のようである。はっとすると小さな東屋のような建物へようやく気づく、暗闇の中輝くような白い壁
の、しっかりしたそこから何か香りが漂ってきてセンクウの鼻を刺激した。
立ち去るべきかと一瞬迷っていると、
「踏まないでちょうだい。せっかく葉がよく茂っているの」
と哀願する響きの声が届く。センクウが足元を見れば、青々とみずみずしい葉を茂らせた植物があった。足をどける。と、
靴跡の辺りに何か輝くものがあった。気を惹かれて腰をかがめ、指を伸ばす。
蛍石のイヤリングであった。何かがまた、鼻へと香る。どの花だろうかとセンクウは見渡した。
そのちらりとした輝きが東屋から見えたらしく、
「あれ」
と驚いた声が上がる。どうやら女主人のものらしい、塾生にしては繊細だが小胆ではないセンクウは一歩踏み出した。
「貴方のものですか」
「探していた、ありがとう。持ってきておくれ」
しなしなと柳のような声に言われるがままその東屋へと踏み込んだ。
薄暗いそこへ踏み込んだとたん、急に眩暈がした。
ぐら、と踏み出した足がもつれる。焦って息を吸い込み直すといっそう眩暈が酷くなって吐き気がした。
(――なんだ?)
は、と息を吐き出すと舌に何か甘ったるいものが触れる。鼻から抜けた吐息が甘い、甘いと言うよりも、
痺れる、
目の前がべったりと覆いつくされたようにぼやける。とうとう膝をついた。
呼吸をするたびに頭を左右にかき混ぜられるようで、センクウは苦しげに眉を寄せる。
「あれ、いい鼻をお持ちのよう」
ころころと女が笑う声が、大きく膨らんでからわあんと割れて響いた。
身体を支えようと手をつく、だがついた手はぐにゃりとまるで言うことをきかない。
(倒れる―)
倒れる、というすんでのところで伸びてきた助けの手は小さかった。センクウの手をとって支えると、滑るように小さな手のひらが薄暗闇にひらりと舞って、セ
ンクウの鼻をぴったりと塞ぐ。その小さな手のひらは濡れた手ぬぐいで覆われていたので、直には触れないままであった。
「香りを吸ってはだめ、」
息を詰めているらしく、吐息のまったくかからない声がささやく。
(香り―)
そう、センクウの神経を揺さぶっているのは香りであった。狭い東屋満ち満ちた香りにセンクウは膝をつかされたのである。その小さな人影は引きずるようにし
てセンクウを庭へと転がした。
人影が離れる。
「吸って」
離れ際に背中を叩かれ、濡れた手ぬぐいを鼻に軽く当てたままセンクウは咳き込むようにして空気を吸った。全身へ絡み付いていた香りがするすると夜の大気へ
とほどけていく。
「迷い子、出ておいき」
東屋の中からまた女の声がした。先ほどの笑いは掻き消えて冷え切っている。春夜のごとくに気まぐれに冷たく冷えてなお香りは未練がましく熟れてセンクウを
追いかけた。
女の顔ははっきりと見ないままだったが、センクウには朱唇からあの香りを吐き出す様はやすやすと想像が出来る。
「これを」
人影が近寄ってきた。先ほどの少女であった、少女というよりも幼女である。五歳ほどだろうかというところ。
月の光の下で見た顔はホラー映画のキョンシーのように眉がなく、青白い顔をしていた。泣き出しそうな顔をしていたことだけははっきりと思い出せる。
幼女がたどたどしく震える指で摘んで差し出したのは丸薬であった。
「のまないと、いけません」
この時センクウは逆らっても良かったのだ。怪しい香りで人を地面へ倒しておいて、この上丸薬などと冗談ではないと憤ってもよかった。
けれどセンクウは膝を地面についたまま、少女が差し出す丸薬を舌へとのせて飲み込んだ。
何故、それは今になっても理由ははっきりとしない。
皮を剥いたばかりの林檎に似た香りが少女の爪の先から漂った。漂ったのを確かにセンクウは嗅いだ。
「さようなら」
センクウはその丸薬を飲み干したと同時に立ち上がり、後ろを振り向くことなくその屋敷を逃げ出した。
その日センクウは酷い昂ぶりを覚え、吐くほどに何度も自らを慰めることになる(ここは卍丸には言っていない)
「――と、そういうわけだ」
卍丸は唐突に訪れた終わりに間抜けな顔をした。卍丸のコーヒーはまだ冷めはじめたばかりだった。
「お、終わりかよ」
「いいや」
なんだよ、卍丸は眉を動かして口を尖らせる。センクウはまあ待てとなだめて、再び時計を見た。
コーヒーが冷めぬうちに日は落ちている。センクウは街灯の光を瞳に受けて続きを口にした。
「この間、Yの屋敷に行ったのを覚えているか」
「ああ、あのヒヒじじい」
卍丸が嫌な顔をした。Yというのは前財務大臣をつとめた、歴史の古い華族系列の政治家の名前である。連綿と続く財力と人脈でのし上がったその男は先日病死
を遂げている。相当後ろ暗いところがあったと噂であったが、真実は今のところ闇の中であった。
そこを大豪院邪鬼の命を受けた死天王は先日夜中屋敷へと踏み込んでいた。
「そうだ。覚えているだろう」
「……流石に酷かったな」
華族とあったがもとは陰陽の関係だったらしく、噂の中にはほとんどオカルトなものもまじっていた。
――秘薬を嗅がせた少女を人形と操り、思うが侭にする。
――牛の水子を食わせ続けたムカデたちを集めた蟲毒。
――女の死体の腹を割き、そこへ犬を入れて寝かせ式紙を練る。
おぞましい噂には尾ひれがつき物だが、尾ひれを差し引いても吐き気を催す数々の邪法。
もし黒であればその場で消してかまわぬと言われた死天王は、噂以上の物を目にすることとなった。
幼女趣味があったのか定かではないが、屋敷のいたるところで壊れたようになっている少女達を保護しながら屋敷のもっとも奥へと進む。
主人の寝室に近づいた時、センクウの背中はぞくぞくと粟立った。額に汗が噴出す。
「どうした」
羅刹が声をかけてきて、センクウは手振りで一旦部屋を離れるように促す。不思議に思いながらもそれに従った死天王に、鼻を押さえて決して息を吸い込まぬよ
うに指示をした。
大きく息を吸い込み、口と鼻とを押さえたままその部屋のドアを蹴り破った。
香りが氾濫していた。嗅がずとも見ただけで、目から香りが染み込んでいきそうであった。
卍丸が思い出したように鼻を押さえる。
「あの後着てた服も捨てたな」
「ああ」
部屋の中央にはそれらしきものが転がっていた。それは人の形をしていなかった。
影慶などは、
「柿が落ちたかと思った」
などと評していた。なるほどぐしゃりと柔らかいものが潰れた様に良く似ている。
そしてそのグズグズに溶けたものを抱きしめたまま女が一人死んでいた。女は初老と言ってもいい年である。
女は死して尚その男の首(らしき部分)を抱え込んだまま離そうとしない。白く粉を吹いた顔は凄絶な笑みを浮かべたままであった。
「ここは危険です」
と言いながら、その死体の傍らからすっくと立ち上がるものがあった。中国の絵皿に描かれるようなすとんとした服を身に着けた小柄な少女である。
切迫した声でもって出て行くように繰り返し言うその少女に、死天王は顔を見合わせた。
とりあえず生存者ということで保護をし、屋敷の庭へと連れ出した。息も限界であった。
少女は風下に立って、ふらふらと頭を揺らしている。息を盛大に吸い込んで肺を満たしている仲間を横目にセンクウは話しかける。
仲間へは、自分に後の処理は任せてほしいと頼み込んで帰らせた。広い庭へ二人だけになる。
庭、
正確には庭ではなかった。
スズラン、
ベラドンナ、
デルフィニューム、
トリカブト、
ジギタリス、
キョウチクトウ、
その他、図鑑には載らぬ毒草たち。
毒草園であった。
「挙体異香だな」
「そうです」
少女は短く答えて、足元に咲いていたハシリドコロを摘む。その青葉を口へと放り込んで咀嚼してみせる。
センクウは息を軽く吸う。少女から鮮やかに跳ねるような香りを嗅いだ。
「母様は、中国から」
「そうか」
「あの男を殺すためにと言って、体身香の他に沢山毒を飲みました」
口調が幼い。少女の眉は薄かった。
「あの男、母様の香りにとうとう骨までとろけてしまいました」
「それで」
「母様はそのまま、死にました」
「ああ」
「たくさん居たきょうだいたちも、死にました」
センクウへ向けて、少女は何かを差し出した。
あの夜のように丸薬だろうか、とおかしなことを考える。
しかしセンクウの予想はあっさりと裏切られる。少女が差し出したのは、
「……鋏」
「お返しいたします」
鋏であった。紛れもなくあの夜、センクウが落とした鋏であった。
センクウは声も出ないでいる。
少女は微笑むかわりにただ薫っていた。
「――とまあ、そういう事でな」
「へっ」
卍丸がまたもや間抜けな声を出した。コーヒーが冷め切っている。
「ちょっと待てよ、終わりか?」
「終わりさ」
あっさりと言ったセンクウはソファの背もたれにかかっていたスーツに袖を通す。待ち合わせの時間は迫っていた。
「終わりって…その女どうなったんだ?」
「どうなった?」
センクウは不思議そうに聞き返した。そして顎に触れて、ああ、と思い出したような声を上げた。
「お前知らなかったか、今日会っただろう」
「あ?」
「飯を食いに行ったじゃないか。そうだその時も俺が奢ってやったな、あそこの皿洗いだ」
「え」
今度こそ卍丸は沈黙した。てっきり店の娘か何かだと思っていた、あの貧相なのが今の話から繋がるのかと混乱した。
卍丸はあの時ほとんど顔を見ていない、だが今のキョタイイコウだのなんだのの話からさぞやな美女が出てくるものかと思っていたのだった。
「だがあれじゃせいぜい中学生だろう」
「あれで二十歳近い」
「まさか」
目を伏せ、声を少し小さくしてセンクウは言った。
「彼女が出来る前から母親は体身香や毒草を摂取していた、そのせいだろうと影慶が言っていた」
「それで」
「ゴム手袋して皿洗いだ。中華なら匂いもまぎれる」
「ンな、アホな」
と、センクウは瞬きを一つした。鼻にたどり着く肌香佩薫のかぐわしさと、中華料理特有の――
「マーボー豆腐だな」
一つ呟くと、じゃあなと別れを告げてカフェを出た。
暗がりを走ってくる人影に小さく手を振る。
「あっおい、奢ってくれるんじゃねえのかよ!」
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