粉挽き水車の音に似て
「お前を見てると、安心するな」
その真逆の事を言われたことは数多くあったが、安心すると言われたのは富樫の記憶には全く無い。初めてだと富樫は思っているし、心臓もギクリと驚いてい
た。
「いきなり何言い出すんじゃ桃」
答えは返ってこない。富樫がムッとして厚い唇をとんがらせ桃の顔を覗き込むと、桃の冴えた目にゆらゆら揺れているのが静かな笑いだったので富樫は言葉を無
くした。富樫は首にきつく締めていたネクタイを外した、自分が思った以上にその動作が急いていたらしく首の後ろあたりで熱が生まれた。一番上のボタンを開
けると詰まっていた首がスッと楽になる。富樫は兄に似て、首ががっちりと太い。それを富樫は男らしさだと得意にしているフシもあった。
「フッフフ、触っていいか」
「あ?」
いいかと聞いたくせに答えを求めていない男である。富樫にすればなんじゃオウといったところだが、小娘のようにイヤァと拒絶する理由もない。虎丸がよく、
「富樫おめえがとにかく桃にあめえんじゃ」とあきれたように言うのもこの辺りに原因がありそうでもあった。富樫は、
「ガキじゃねえんだぞ」
と短く言ったが既に息をついて諦めている。くたびれていた瞼に疲れが浮かんでいた。
「ガキさ」
そっけないやら投げやりやらわからないが一言で言い捨てた桃の手が伸びてきて、富樫のワイシャツの上ちょうど心臓の真上へ手をかざす。まだ触れない、触れ
ないというのに富樫の胸が乱れた。乙女か俺ァと自分に毒づいておいて、赤外線だかなんだかわけのわからぬあたたかい気を発している桃の手を掴む。手首を掴
んで自分の胸へと引き寄せた。べったりとワイシャツ越しに触れた桃の手のひらは思ったのとはまったく違って冷たい。
ごっと、
ごっと、
ごっと、
その音は粉挽き水車の音に似ている。似ていると桃は感じた。
富樫の心臓が一つうつうちに、桃の手のひらがあったまる。真面目な顔をして、いい年した男二人揃って何をやってるんだと富樫は気恥ずかしくなってしまっ
た。今度は腕ではなく桃の体ごとやってきて、どすんとぶつかってきた。そのまま投げ出していた足に正面から乗り上げられる。アイロンがけをしていた母親
が、隣か
ら子供にべったりと甘えかかられるような負担のかかる体勢に富樫はうめく。酔ってるのかと聞くと、
「お前に酔ったかってことか?」
間違いなく酔っている返事が返ってきた。桃の肩を掴むとその場に引き倒す。引き倒して転がす。手近にあった自分の毛布を引き寄せてかぶせてしまう。くんく
んと匂いを嗅いで眉を寄せる桃に、寝ろ寝ろ寝ちまえ、な、――富樫にしては優しい声で言ったはずだ。だというのに桃は有権者にはとてもとても聞かせられな
いような甘えたことを抜かした。
「枕がないぜ、富樫」
膝枕と言い出さないうちに、富樫は部屋の隅に一応客用に用意してあった座布団を折りたたんで桃の頭の下へと滑り込ませた。不満げな声が聞こえてくるのを無
視する、すべてイチイチ全力で反応していたら身が持たないということを富樫はまず社会人になって一番に学んだ。学んだはずなのに、どうしても青臭くブチ当
たりながら猛進するのは完全には治っていない。性分なのでそればっかりはどうにもならなかった。
「桃」
「富樫」
「明日ァ、初詣でも行くかよ」
「行こう」
「縁結びでもするか」
「しねえよ」
塾長の許可がいる。近所の神社に行って来るというだけなら許可はもらえるはずだと思っている。
「そうか、じゃあおやすみ」
「ここで寝たらいい」
「毛布一枚っきりしかねえよ」
「分けるさ、お前にも」
さあさこちらへ。だなどと。
酒の曇りなんて一点も無い、星としか富樫には表現できない光の宿る瞳が富樫を射抜く。ズドン胸打ちぬかれて陥落。
「正月気分なんだ、甘えさせてくれ」
「正月関係ねえよ」
虎丸のあきれるような顔が富樫の脳裏に浮かんだ。
今日年始の挨拶に訪れた桃を塾長は歓迎し、酒を振舞い食事でもてなし、それはそれは楽しんだのだ。そしてデザートのようにして富樫へ甘えている。
塾長も大概桃には甘いが、富樫は富樫で別格に甘い。
しょうがねえ野郎だといいながら端を持ち上げて招いた毛布へ足を突っ込んでくる富樫が嬉しい、桃は笑って更にずうずうしい要求を耳元でした。
さすがににべもなく断られたのでケチだと言ってやると、グゥと何か怒りを殺したらしい声がする。
まったくいい男だぜと褒めているのかからかっているのか桃本人も本気九割のところでそう言って、桃は腕を伸ばした。
抱えきれないほどの富樫を幸せだと思う。
夜が更け行く。
ちんと静まり果てた夜に、とにもかくにも幸せだった。
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