金曜日はカレー曜日
春の夜空は酔っ払いだと、珍しく詩的な物言いをしたのは富樫だった。
いきなり熱くなったり冷えたり、節操なしに小便をジャッと垂れる、そんな言い方だったと桃は記憶している。
勿論富樫が自分の考えでそんなことを言うとも思えない、桃にはそれが誰の影響を受けてのものかおおよそ見当はついていた。
別に富樫が影響を受けにくいとは言わない、むしろ感化されやすいほうだとは思う、しかしこと富樫が好んで真似をしたり仕草を真似たりするのは、
あの兄をおいてほかには無いだろう、そう桃は結論を出した。
富樫の家には電話がある、一人身の貧乏暮らしには過ぎた設備だと思わないでもないが仕事柄どうしても必要なのでひいている。仕事に必要であるということで
江田島が金を出してやったのだ。そのせいもあって富樫のアパートは元男塾塾生の寄り合い場所、伝言板代わりになっている。富樫の電話の横には二つの大学色
のノートが置いてあり、オレンジ色は仕事関係、薄水色は塾生関係と分けられていた。
塾生達も社会に出てから金というもののありがたみ、それから恐さを思い知ったとみえて、伝言に様々な工夫を凝らすようになった。
『飛燕から富樫へ 今週土曜日夜九時 会えるか』
富樫が応と言えばそれで約束が成り立つ。電話を会話のためではなくて伝言板のような扱いである。
電話が鳴れば富樫が取り、挨拶ヌキに本題から入るのであった。『虎丸から伊達へ 金返せ 今週金曜日六時取りにいく』など。
それを富樫は手早くごちごちとした文字でノートへメモしておく。そうして本人しかわからぬように書き出すと家の前に張り出しておくのであった。
男塾という巣を出て、寂しさを感じるようになった男たちは好んで富樫へと連絡を取り、会う約束を取り付ける。
給料日にもなると余裕が出て、公衆電話で五分と定めて会話することもあった。わざわざ富樫の家に来て、相手からの電話を待つものもいた。
若い時代である。
四月の半ば、くすんだ、富樫言うところの酔っ払いの夜空が広がる午後八時である。
その日富樫は珍しく、富樫から電話をした。富樫から電話をするということは相手も電話をひいている、相手は桃であった。
富樫が同級生からの伝言板がわりを請け負っているのとは対照的に、桃の元へ入る電話の相手はもっぱら上級生、例えば邪鬼や死天王、赤石などで、時折伊達が
かけてくる。この辺りが富樫と桃との違いであった。
「よう桃、元気か、俺じゃ、富樫じゃ」
『お前の声を間違えるはずもないさ、どうした?』
電話の受話器を通すと桃の声は一段低く掠れて聞こえる、富樫は以前に俺の声はどう聞こえるかと尋ねたら、くすぐったい声だと返ってきた。
くすぐったい声、富樫にはよくわかる気がした。桃が感じているようにかどうかはわからなかったが、富樫の耳に桃の声は酷くくすぐったい。常に何か笑ってい
るような、甘い酒かなにか舐めているような声であると富樫は思った。
「おう、飯、食ったか」
『いいや』
「明日休みじゃろ、どうだ泊まりに来ねぇか」
『ふゥん?』
桃はおそらく電話のむこうで、目を伏せて下からすくい上げるような目つきをしているに違いが無かった。あの見透かそうとするような、いや既に何か怪しいと
確信を持ったかのような目でいるに違いなかった。
「……あんじゃい」
富樫の声に警戒が潜む、桃ははははと朗らかに笑った。
『お前が俺を誘う時は、何か頼みごとがあるときだからな』
「ち、ち」
ちがわい、と言いかけた富樫の声を桃は含み笑いで制した。
『そのくせお前、俺がかけると冷たいしな』
「そりゃあおめえ、おめえがッだらねえことばっかり言うからじゃねえか」
電話での桃は本当に桃かと疑うほどにくだらない事ばかりを言う。富樫は唇を尖らせた。
『声が聞きたいからって俺が言ったら、お前切るだろう』
「たりめえじゃねえか」
『…それで?何を頼みてぇんだ?』
「……来たら話す、」
富樫はチャンと受話器を置く。富樫は部屋の隅に積みあがったスーパーの袋を眺めて大きなため息をついた。
電話を置くなり財布だけ持って家を出た桃は酔っ払い夜空の小便つまり春雨にかち合ってしまった。傘を持ってきてはいなかったため、このままでは到底寝られ
ないぬれねずみである。富樫の服を借りることになりそうなのは見て分かる、その詫びと手土産をかねて駅でシュウマイを一包み買い求めた。
富樫の部屋はアパートの二階にある、雨水に濡れて掴むと鉄錆が手のひらにべったりとくっつきそうな手すりを無視して階段を上がる。
二階に上がると富樫の部屋のあたりから真っ白な湯気がもくもくと噴出していく、桃は始めてみる光景に目を細めた。
料理をしないものにとって換気扇は単に煙草の煙と風呂の湿気を吐き出すだけなのであるが、どうやら部屋の主はなにやら料理をしているらしい。
桃の鼻へと匂いが漂ってくる、これは間違い無しに――
「カレーだな」
カレーの匂いをさせている湯気の出所が自分の家であったときの嬉しさと言ったら!桃の顔にくだけた笑顔がにじむ。
桃は靴下までしっかりと濡れた靴をズボズボ言わせながら、富樫の家のドアを叩いた。
「よう、カレーか?」
「入るなりなんでえ、意地汚ェな」
そう文句を言いながらも富樫の顔は得意げだ。台所の電球に照らされた顔は富樫の肌色を良く見せていて、愛嬌が強く際立った。
「フフフ腹が減った、なんせお前が来てくれなきゃイヤだと切ない声でダダをこねるから食うや食わずで駆けつけたんだ」
「変な言い方すんじゃねえよ、おう服こっちよこせ、そこで脱げ」
「………」
「あ、ら、う、ん、だ、よ」
「わかってるさ、そんな恐い顔しなくたっていいだろう」
「テメエが馬鹿抜かすからだろが、靴下も底で脱げ、濡れる」
言われるまま桃は富樫の家の狭い玄関で全裸になった。下着は脱がないでおいたがずぶ濡れであるのは目に見えている、富樫がそれもじゃと言うので脱いだ。
「傘ぐれぇ買えよ」
富樫が手渡したのは下着のみである、この間まで寒かったから何かしらTシャツなどは着ていたが基本体温の高い富樫は寝る時は下着一枚のためであった。
鍋に調味料をドバドバと目分量で投じる富樫は既に縦じまの下着一枚である。
「すまん、ああこれ、後で食おう」
桃は濡れないように自分の体でかばった、シュウマイの包みを下着を受け取る代わりに差し出した。富樫はそれを受け取るとくんくんと匂いを嗅ぐ、
「シュウマイか」
「警察犬みたいな真似するなよ」
桃はほぐれるように笑った。富樫は腹を空かせたむしろ野良犬のような顔で、歯を見せてヘッヘと笑う。
「ありがとうよ、俺ゃこれが好きでな」
富樫はシュウマイの包みに一瞬目を細くして伏せた、短い睫毛がかすかに震えたのが電球の明かりが大げさに桃へと伝える。
臭いタオルで頭を軽く拭いてから上がりこむと、桃は富樫の畳んで壁際に追いやってある布団に背中を預けた。富樫のことだから万年床にしそうだと予想をする
ものは多かったが、その予想は外れて意外にもきちんとした面もあるようである。桃は富樫の部屋を眺め渡した。
壊れかけたテレビ、自分と富樫とを繋ぐ電話、カレンダー、布団、下着一枚でカレー作りをする富樫、部屋干しの洗濯物、ボゴゴとなにやら不穏な音を立てる炊
飯器、
「洗濯機はないのか」
富樫はカレーの鍋をかき回しながら桃の問いかけに答えた。
「無ェ。下の階の奴に一回五十円で借りてんだ」
「へえ、」
「おら食うか、悪ィそこのちゃぶ台出してくれ」
言われるままに桃は壁に立てかけてあるちゃぶ台の脚をばきんばきんと立てて置いた。
富樫は残り時間がまだ後三分ある炊飯器を容赦なく開けて、二枚の皿へと飯をうずたかく盛り付ける。桃の前に小さな皿、富樫の目の前に大きな皿で並んだがこ
れはべつに意地悪ではない、富樫の家には皿が同じ大きさのものを二枚そろえていないせいである。一人暮らしならではの光景であった。
「そのへんにジャンプあったろ、置いてくれや」
「ああ」
体は大人、心は子供、男はいつまで経っても少年ジャンプを手放せぬ。桃もそのうちの一人であった、まだ桃が読んでいない号であった、
「後で読ませてくれ」
「おう」
ちゃぶ台の真ん中に少年ジャンプ、快活に笑う主人公の顔の大写しの上にどっかと行平鍋が乗る。
鍋からは勢いよく湯気が立っていて、カレー独特の腹の減るにおいがただよう。富樫はスプーンとお玉を持って戻ってくると、桃の目の前に向き合って座った。
あぐらをかく。
「いただきます」
「いただきます」
男塾の躾は骨の髄まで染み込んでいる。二人はしっかりとスプーンを両手に挟んでカレーをおがんだ、声がぴったりと揃う。
「桃、テレビ点けてくれ」
「おう」
これはご愛嬌、一人暮らしの楽しみなどテレビやラジオくらいしかないのである。桃は畳を膝でにじって、ガチャガチャとチャンネルを回す。
騒がしいバラエティ番組が二人のいる部屋に音を与える。富樫はお玉でぐりぐりと鍋をもう一度かき回しておいて、
「おらよ、おかわりはあっから好きなだけ食えや」
などとシミッタレ富樫にしては豪勢なことを言った。桃はいいのかと野暮を言う、しかしいいったらいいんじゃいと返ってくるのをわかりきっての野暮である。
「それじゃあいただくぜ」
桃は富樫からお玉を貰うとなみなみとすくい、飯にかけた。小さな皿に盛り付けられた飯が急斜面を作っていたためカレーがこぼれそうになるがそこは桃であ
る、すこしも零しはしなかった。一方富樫は大きな皿を使っておきながらいかにも富樫らしく欲張って皿の端からあふれさせていた。
「おわ」
「富樫、使え」
手近に転がっていたトイレットペーパーを富樫へと渡す、富樫は少し頭を下げるとクルクルと引っ張り出してちゃぶ台を拭いた。男の一人暮らしにはクリネック
スもネピアもましてや鼻セレブもない。
「気ィ取り直して…そんじゃ、食べっか」
「ああ」
食べるかと言っておきながら富樫の視線は桃から外れない、桃がスプーンでカレーをすくう、口元へ運ぶ、口に入れる、もぐもぐ、ごくん、その一部始終を見
守っていた。途中テレビから大きな歓声が上がった瞬間だけチラとそれはしたが、食い入るように見つめられて桃が気づかぬわけも無い。
その視線が感想を求めているものだとわかり、桃はいかにも桃といった頬に微笑を浮かべた表情でその視線へと応じてみせる。
「……富樫、お前も食ってみろ」
「……おう」
感想ははぐらかされてしまい落胆を隠しきれない顔で、自分も一口カレーを食った。
「………すまねえ」
「いいさ、」
まずいとしか表せぬ味であった。
「いや、こんな筈じゃなかったんだがよう」
「いいさ、これ食わせたくって呼んだんだろ」
「なっ!桃おめえ知ってたんか」
「お前の顔見てりゃわかるさ」
「…そうか」
「で?」
「で?」
で、ってなんじゃい、富樫は惰性と貧乏性からスプーンを口へ運びながら聞き返した。
「毒見役か?」
「バッ、味見って言え味見って」
桃の辞書にも出された物を残すという言葉は無い、やたらに水っぽくとげとげしい味のカレーを再度食べ出す。
「その味見をどうしてする必要が出来た、お前が気前よくなるのは給料日だけだからな」
「さ、散々言いやがって…」
「だから俺は給料日直後しかお前に誘っても貰えねえ、寂しいことに」
「ウ…」
唸り声ひとつ上げて黙り込む富樫、更に桃は追求の言葉を口にした。スプーンで富樫をつつくように示す。
「誰か女でも出来たか」
「ち、違わい!塾長が―」
「塾長が?」
「…塾長がこのアパート引き払って自分の家に住めって言ってくれたんじゃ。家賃はいらねえってんでこりゃいいと思ってみたら炊事掃除洗濯やれって条件で
よ、」
「それで俺を実験台に」
「悪かったな、残していいぜ」
「ごちそうさま。そうだなとりあえず明日になったらもっと美味くなってるんじゃないか」
シレッとして手を合わせた桃の顔と空になった皿とを富樫は見比べた、自分の作ったまずいカレーを平らげた男気に嬉しさがこみ上げていく。
「あ、あり」
「カレーってのは一日寝かすと化けるぜ、期待しよう」
朝からカレー、それもまたカレーの楽しみである。朝だというのに黄色の色合いが華やかで、どこかハレの匂いがする。朝だからと平皿ではなく茶碗によそった
ご飯にかける中途半端さもまたよい。
「ありがとな」
「おう、そうじゃ…シュウマイ食おうか」
思い出したように富樫は膝を打つ。せっかくもらったシュウマイの包みを、火を消したガス台の上に置いておいた。電子レンジなどというものはないがこれで十
分あたたかい。富樫は立ち上がるとシュウマイの包みを持って戻ってきた。空いた手には練りガラシと醤油。
「買ってきた袋に確か箸が入ってる」
桃に言われて放置してあったビニル袋を覗き込む、たしかに紙袋につつまれた箸があった。
「おう…ん?一膳か、ちっと待ってくれ」
たしかこの間弁当屋でワリバシ多くつけてもらったっけか、富樫は台所の引き出しをガサガサやり出した。
「………」
富樫が箸を見つけて顔を桃へと向けると、蛍光灯の下だからか白っぽいうら寂しい笑顔を浮かべた桃と目が合った。目が合うとそのどこか白けた気配は霧と散っ
て、代わりに苦笑が浮かぶ。
「なんじゃ、桃」
「……フッ、俺も面子を気にするようになっちまったと、そう思ってな」
「あ?」
ちゃぶ台へと戻ると八個入りのシュウマイのうち四つを箱に残したまま四つを小皿へと移しながら富樫は桃の呟きを聞きつけた。
「『お箸いくつお付けしますか』って聞かれたんだ、反射的に一膳って答えた自分が…俺はなんだか情けない」
「なんでじゃ」
「たしかにこの折り詰めは一人前さ、だけどこれから富樫の家に持って行くんだ、箸は二膳必要になるだろう」
「おう」
「一人前を二人で分け合うのが恥ずかしいと、そんなくだらん見栄を張ったんだ」
「いいんじゃねえのか、別に」
事も無げに富樫は言った、ワリバシを一膳桃へと突き出しておいて自分は四つの小皿に載せたシュウマイに醤油とカラシを絡めている。
「俺だって男塾に居た頃ァ、煙草一本一本買ってたぜ?だけど今じゃそれも出来ねえんで一箱ずつ買ってるぜ」
「……ああ」
「いいんじゃねえのか、変わったって」
「そうか?」
「俺が見た限りじゃ、桃おめえナンも変わっちゃいねえよ」
「……そうか」
外の雨に反して桃の顔は遥か先まで晴れゆく。二人揃ってシュウマイを二つずつ食べた。
「そういや、それ…」
腹もくちくなったところで、桃は思い出したように箱に残ったシュウマイを指差した。
「あ?」
テレビ画面から桃に顔を向け、それから示されたシュウマイに気づくとああ、と頷いてみせる。
「明日な、明日にとっとく」
「そっか」
富樫はそのシュウマイを小皿に移し、醤油をビタビタとかけまわしながら目を細めていた。その横顔にはっきりと濃く漂う思慕を桃は問う。
「……どうした?」
「…あんちゃんがな」
「……ああ」
桃の応答には一拍間があった。
「バイトの給料日には肉屋で買ってきてくれんだよ、6つ」
「ああ」
「三つ三つの半分ずつにして、俺はそれを晩飯に二つ食った。残り一つは醤油かけて置いとくんだよ、明日食うからって。ワクワクしながら眠ってな」
「そうか」
「朝起きて醤油ひたひたのシュウマイ見たら、二つになっとるんじゃ。あんちゃんに聞くと、不思議じゃのうって」
「…………」
「俺ァ馬鹿だから、不思議の一言で片付けっちまってた。それを、思い出したんじゃ」
「……富樫」
「明日ァ、カレー美味くなってっといいな、桃」
桃はとってつけたように明るく笑った富樫の頬に指で触れた。優しく触れた。膝でちゃぶ台をよける。腕を伸ばす。膝で立ち上がる、肩を掴む。
「…ああ、そうだな」
鼻同士を擦り合わせるようにして、二人揃って笑った。
そうして次の朝、何がどうやったのやら大化けに化けた激ウマカレーと、熱々の飯に埋めたカラシ醤油びたしシュウマイに二人は炊飯器を空にするほど舌鼓を打
つのであった。
雨がきれいにあがって、空は洗いたて。
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