寄せろ寄せろ上げろ
火をつけた、貴方の責任、最後まで
【このオトシマエどうつける?】
松尾と田沢、連れ立って肉屋の戻り。二人して手には熱々のコロッケを持っている。
五月も近いということもあって日差しは夏のように暑かった。二人して学ランの前を大きくかっぴろげて風を入れ、暑いと文句を言いながらもコロッケを口にす
ることは止めない。まったく授業をサボタージュしての買い食いというのは、なんともたとえようのない魅力がある。
ざくざくとパン粉を飛び散らせながら、最後に指についたあぶらを舌でぺろぺろと舐めてしまいにすると、松尾は前を行くOLの後姿に気づいた。
田沢のわき腹を肘でもってチョイとつつく、田沢がメガネをずり上げて松尾へ顔を向けるのに、顎で前方を示した。
素晴らしい脚線美がカッカカッカと白けたコンクリを突き刺さりそうなハイヒールでもって叩いている。おそらく夜に生きる女のようで、職場に向かうらしい後
姿の勇ましさは歴戦のつわもののようであった。
「田沢よ、いい足じゃのう」
「松尾、おめえはなーんもわかっとらんな、フフフ…」
「ええ?」
田沢は自分の胸の前でラグビーボールほどの弧を描いておいて、女は乳じゃオッパイじゃと大声で言った。商店街の人間が二人を振り向く。
爺さんは頷くもの首を横へ振るもの。
婆さんはあらあらまあまあ。
子供はオッパイオッパイ大声で繰り返す。母親に叱られた。
若い女性は顔をしかめる。
中年男性はムフフ若ェなと笑う。
そんな視線をものともしない田沢に、女の子ならなんでもいい類の松尾はそんなもんかのうと丸い顎をさすった。
「そうだなあ、田沢。ワシもオッパイは好きじゃ」
「そうだろ、脚は俺らァにもついてるが、オッパイは女にしかねえからな」
「なるほど!」
それはそうだ、と松尾はオッパイの価値を見直した。自分が持っていなくて、女だけが持っているとなるとそれだけで貴重な気がするのだから不思議だ。
「松尾、触ったことあるか?」
「ええ?」
「オッパイじゃオッパイ、」
「……無い」
「そうか、俺もじゃ」
田沢は男前に白くて分厚い歯を見せて笑った。松尾も笑った。
そんな二人にどこか遠いところにおわす神様がごほうびをくれたに違いない。
吉も凶もなんだって風に乗ってくるのだ。
それ、いわゆる女性用下着である。
昔は乳バンドなどとも呼ばれていたらしいそれ。今では多種多様に種類が増えて、目的別によって女性は買い分けているそうな。
服の外からでは見分けのつかぬほどに底上げすることも可能なジェル入り、などというものもある。
そして今くるくると突風と小石とともにきりもみ回転しながら飛んできて、ふわさと松尾の顔にかぶさったのは、
いわゆる天使のブラであった。
「わー!前がみえんぞ!!」
「お、落ち着け松尾!ただのブラジャーじゃ!」
「ああー!?」
ブラジャーがどうして、『ただの』ブラジャーで、そしてどうして、『ただのブラジャー』が自分の目を塞ぐのか。
田沢がヒョイと手を伸ばしてそれを取り除くまで、松尾は両足をばたつかせて混乱した。
「で、でかした松尾ォォ!!!」
一号生緊急集会が、談話室にて行われた。車座になって狭い和室に詰まっている、膝突き合わせてその輪の中央にあるものを睨んでいる。
議題は勿論、
「それでだ、この―ブラジャーだが」
田沢は重々しくブラジャーについての会議を宣言した。
ワッ、と室内の温度が急騰した。沸騰である、ブラジャーへと手を伸ばそうとして、塾生達の黒い学ランが折り重なって将棋倒しになった。
最前列のブラジャーへ一番近いところに座っていた秀麻呂なぞ肺が潰されそうになって悲鳴を上げている。
「ど、どけ!重い重い重い!!」
秀麻呂が三度叫んで、ようやく塾生達は再び折り詰め弁当のおかずよろしくきっちり正しく座り直した。
正座である、
どうして正座かといえば、ブラジャーだからである、
どうしてブラジャーかといえば、女性用下着だからである、
どうして女性用下着かといえば、それが塾生達にとって縁とおい、女の持ち物だからである。
「フフフこいつァ松尾の顔に導かれるように飛んで来たんじゃ、神のボウシメシっちゅうやつだぜ」
「さ、触らせてくれ!」
のびてきた腕に、オット、と田沢は手のひらを見せて制止する。
「待て、こりゃ松尾のモンじゃ。松尾からっちゅうのが筋だろうぜ」
自分だって触りたい、しかし筋は通す――田沢も漢である。松尾の手にその真っ白いレースのあしらわれた薄水色の清楚なブラジャーが渡った。
松尾はそれを神々しいもののようにそっと両手のひらに乗せ、つぶさに見た。
だが、
(こ、ここじゃどうにも出来んぞ…!)
ウハウハとほお擦りしたりだとか、それから色々いけないことをしたりは到底出来ない。衆人環視の中松尾が出来たのは、ただ胸を収めるカップらしいところを
ちょっといじって、眺め回すだけであった。
が、
「おい田ー沢、こりゃあナンじゃ」
そのブラジャーの肩ヒモのあたりに細い樹脂の糸がついている、その糸のわっかには紙切れがくっついていた。
「……タグ、じゃな」
田沢はその紙切れを調べると落胆の声を漏らした。
「どゆこと?」
誰かが疑問の声を上げる。田沢はメガネを鼻でもってフンと押し上げると、
「靴下買ったらチョウチョみてえな留め具ついてるじゃろ、あれと同じで…」
「つまり、未使用ってことか?」
「…そうだな」
一気に場が白けた。アーア、と誰もがのけぞってがっかりしながらグチを口にする。
「アーア、そんじゃそれ、かわいいギャルはまだ着ける前だったのか…」
「それじゃあただの布と同じか」
アーア、と白けっちまった場に送れてやってきた虎丸。だらけた級友、輪の真ん中には薄水色のブラジャー。
状況が飲み込めていなかった虎丸へ誰かが教えてやる、と、
「おう松尾、ちっとそのブラ、俺に貸してみんか?」
「虎丸どうすんじゃ、これ未使用じゃけど」
「ワッハハおもしれぇ事すんだよ、おもしれぇ事」
不器用に分厚い瞼がウインク!両目つぶったことは目をつぶっておく。瞼だけに。
「よーっし、誰か倉庫に水風船の残りあったろ、去年の、あれ持ってきてくれや」
うすうす虎丸がナニをやらかそうとしているかわかったらしい秀麻呂、畳の上に立ち上がると勢いよく談話室を飛び出していった。
「名づけてトラ子のお色気大作戦じゃ、ウフン♪」
再びの、バチコンと星と火花が飛び出しそうなウインク。両目つぶったことは目をつぶっておく。瞼だけに。
「アイデデデデデ!も、もちっと優しくできねえのかよクソッタレ!」
談話室にひしゃげた悲鳴が上がる。
「クソッタレはこっちのセリフだ!なんだって俺が…」
虎丸は上半身をよじりながら、汗をかきかき必死になっている富樫へと笑って見せた。
「でもおめえも見てみてえだろ、フフフ富樫ィ」
「……まーな、よっ、と!」
「アイデデデデ!乳首、乳首取れる!」
トラ子のお色気大作戦―文字通りである。あの可憐なブラジャーを太い胴へと身に着けようとしたが、体が硬い虎丸は後ろに手が回らず結局相棒の富樫の手を借
りることにしたのであった。だがもともと女性のつけるもの、虎丸の胸へワイヤーがギチリギチリと食い込む。虎丸はそのたびに痛ェ痛ェと鼻にかかった声で文
句を言った。
「ヨーッシ、ホック留まったぜ。どうだァ虎丸?」
「おーう、中中キュークツだけど具合いいぜ、そんじゃ仕上げじゃ」
秀麻呂が倉庫より持ち出してきた水風船に、割れない程度、人肌のぬるま湯を詰めて膨らませて準備していた。その水風船をブラジャーのカップへそっとしのば
せる。
誰かが調達してきた白いTシャツを着こんで完成だ。
談話室にじわじわと拍手の波が広がりつつある、次第に大きくなって最後には歓声となった。
「どうじゃーい!見事なデーカップじゃろ!」
下半身はフンドシ姿なのはさておき、虎丸はふっくらと突き出した胸を張ってみせる。見事に乳山が出来上がっていた。
難を言えば賢明なる女性は白いシャツの際には色のついた下着は身に着けないというところであるが、薄く赤とオレンジの水風船がチラと覗いているので今更と
言うところでもある。
「すげー!ほんとうに女の子みたいだ!」
そう椿山は言っておいて、首から上が虎丸の顔であることに気づくとなんともいえない顔になった。隣の秀麻呂はわかるぞ、と頷いてやる。
「ほんじゃ、まず誰から行くかのう」
ターゲット、ターゲット。
真っ先に松尾は声を張り上げた。
「そりゃあもちのロンで、Jじゃろ!」
談話室の誰もが、ニヤリとした。あの堅物の友人がどんな反応をするのか、見物である。
虎丸は大鐘音のエールに送り出されながら出陣した。
Jは校庭横で柔軟運動をしていた。どうやらこれから本格的なトレーニングをするらしい。虎丸はしめしめとばかりに駆け寄って、
「おう、背中、押しちゃろか」
と声をかけた。
「THANX 頼んでいいか」
きまじめなJの口調に、虎丸はムフフと口元がゆるむ。地面に腰を下ろしたJの背中に自分の胸をぎゅっと当てて押した。
「………」
上半身を倒しながら細く息を吐き、身を起こすときには息を吸う。それを三度繰り返した時、Jは何かに気づいた。
後ろから押してくれているのは虎丸である、共に風呂に入ったり、そして褌一丁で戦い抜いた男であると知っている。
しかし、ならば何だ。Jの太い眉が寄った。
(これは何だ)
これ、背中に当たる二つのやわらかで温かいもの。考えたくないが、常識で言えばアレであろうと想像がついた。
しかし、
(虎丸は男だ)
知っている、見ている、聞いている、他にどうやってそれが違うと立証できようか。
Jはとうとう振り向いて口を開いた。
「虎丸、その――背中に当たっているんだが」
「あっ」
虎丸の顔が真っ赤になった、ようにJには見えた。胸の辺りを押さえて、うつむく。上目に虎丸はJの顔をうるんだ目でもって見つめてきた。
(……!?)
富樫であったら、虎丸の頭を叩いて気色が悪ィと怒鳴っただろう。しかしJである。普段動くことの少ない表情が困惑に曇った。
虎丸の手がそっと伸びてきて、Jの手を掴む。Jはされるがまま、その手が虎丸の胸に導かれるのをぼうっと見つめている。
「だ、誰にも、言わんといてくれな?」
な?と首を小鳥のように傾げながら、虎丸は自分の胸へJの手のひらを押し付けた。
あたたかく、ぽわぽわとやわらかい、胸。ついつい指先に力を込めてしまうと、虎丸の目がキュッと細まった。慌ててJは手を離す。
「―――ッ!?」
「そんじゃ、な」
最後にちょっと儚い感じの笑顔を作って、虎丸はそっとJと別れた。Jは呆然と手のひらを見詰めている。
それを見ていた一号生の誰もが、虎丸の演技女優っぷりを褒め称えた。
「虎丸ゥー、おめえは男塾のマリリンモンローじゃ!」
次なるターゲットは我らが一号生筆頭、剣桃太郎である。
親友である富樫はふふふと尖った顎をさすりながら、骨の浮いた頬に悪い笑みを浮かべている。
「桃の野郎ぽやーんとしとるからな、実はオンナノコじゃの一言でコロッといくぜ」
「そ、そうかぁ?」
丸刈りにされた挙句油風呂へと放り込まれた過去のある秀麻呂は不審顔である。しかし富樫が言うならと虎丸はその作戦で行くことにした。
裏庭での目撃情報があったため、全員揃って急行。それを目撃した二号生などは何をやっているのだと呆れ顔である。
裏庭で一番大きな桜の古木の根元が桃の寝場所である。もうしばらくしたら毛虫がボタボタ落ちてくるのだけれど、そうしたらどこからともなくつがいの白鳥が
降りてきて、桃の顔の上で一羽が羽根をさしかけるのであった。そしてもう一羽が近づく毛虫を次から次へとついばんでしまう。
男塾の新たな風物詩の場である。
「あいつ神様かなンかに、貸しでもあんのかよ」
それは富樫の言葉であったが、ともあれ一号生筆頭は桜の木に背中を預けながら寝ている。
虎丸はソロリソロリと近づくと、桃の側に膝をついて座り込んだ。
「もーも」
「……ン」
桃は起きるそぶりを見せない、口元に微笑を浮かべたまま寝息を立てている。虎丸は唇を耳に寄せて、
「もーも」
と甘ったるい声でもって再び呼んだ。
桃はくすぐったそうに柔らかい頬に含み笑いを浮かべて、薄く目を開いた。
「どうしたんだ、可愛い声出して」
「エヘヘ、そのゥ…」
虎丸はモジモジと身体をくねらせながら、
「わしなァー、実は、オンナノコだったんじゃ」
と告げた。
桃の薄く開いていたまぶたがそっと持ち上がり、視線が虎丸の上を上下する。
そしておもむろに虎丸の膨らんだ胸へと手が伸びて、軽く掴む。
計画では虎丸が手をそっと導いて触らせる予定だったので、虎丸は目を見開いて硬直していた。
突発事項に弱い男である。
「……ああ、本当だ」
桃は寄りかかっていた木から身を起こすと、そのまま虎丸の胸を枕と見立てて寄りかかった。
「ヘェ!?」
「お前の胸柔らかいぜ、ありがとう」
桃はそのままスースーと寝入ってしまった。
虎丸、大きく腕でバッテンサインを出して救出隊の出動を要請。
「あー面白かったな、まあ桃だけは予想外じゃったけどな」
「まぁな、あいつたまにワケわからん野郎だから」
散々人々をからかって楽しんで、そんなこんなですっかり日が暮れてしまった。虎丸はその時の話をさかなに食堂でも大いに盛り上がる。
楽しい一日だったと誰もがそう言って、虎丸は部屋へと戻った。
と、虎丸は同室に最後のターゲットを発見する。生意気に雑誌なんかを読んでいる、天下無双の伊達男がそこにいた。
虎丸はそろそろと膝でにじりながら畳みの上を滑るように近寄っていき、そっと横から雑誌を覗き込む。
「…何だ」
鬱陶しそうに伊達が、虎丸の方を見向きもしないでそう言った。虎丸はめげずに更に擦り寄って、伊達の腕に身体をぴったりと密着させる。
「……………」
伊達の横目が一瞬チラと虎丸を見た。
虎丸は更に胸を押し付けながら、ムフフと内心ほくそえんでいる。
ふぅっ、と伊達の首筋に息をかけながらその腕に自分の腕をからめた。とろりとゆるんだ瞳を向けながら砂糖菓子のような声で、
「……伊達ェ、わしなァー」
「女だとでも言い出すのか?」
食堂から、皿の割れる音が二人の間へ割って入った。
「……エッ?」
既に目を白黒させている虎丸、ずるりと一歩尻で後ろへ下がろうとしたが、サッと伊達の腕が伸びてきて壁へと押さえつけられる。
「…桃から聞いたぜ。大変だな、ええ?男だらけのところに女一人きりで」
一度として虎丸に見せた事のないような酷く優しい笑顔で、伊達はじりじりと虎丸へ覆いかぶさってくる。壁にべったり押さえつけられて、虎丸の呼吸は制限さ
せられていた。喉が鳴る、虎丸はピンチであった。
起死回生、屁をここうとしても尻はウンともスンとも言いやしない。虎丸の額に蒼いカーテンがかかった。
「や、その、その、ええと、その、」
「俺が優しくしてやろうじゃねえか、なあ」
伊達は完全に遊びに入っている。ネズミをいたぶる猫である、その猫の髭が笑った。
「…俺で遊ぼうなんざ、一億年早ェ」
低く凄味のある声はじかに虎丸の耳へと注がれた。
猫の爪がそっと、追い詰められた虎丸の顎にかかる。虎丸はヒィと息を飲んだ。
タッケテー、
春の夜空に悲鳴が響き渡る。何だ何だと伊達と虎丸の部屋の前に集まってみれば、虎丸がべそべそ泣きながら、股間を濡らしている。
勿論タマつぶしの要領で、胸から引きずり出された後ズボンに詰め込まれた水風船が潰されたのであった。
いい年してお漏らしかと囃されて、ますます虎丸は泣きたくなったのである。
一方――
「雷電」
同室のJは浮かない顔である。雷電は布団から身体を起こした。
「どうした、何か心配事か」
「その――」
「いいから言ってみろ、拙者とお前はその、し、親友ではないか」
親友、いい響きだ。願わくばこのJもそう思っていてくれればいい、雷電はそう思う。
「ああ――THANX 雷電。実は――」
「実は?」
「偶然に虎丸が、実は女だったのを知ってしまったんだ」
「!!?」
雷電は少し白くなった。
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