帯分数の男

お前は分数の話を覚えているか。
桃がどうしてそんな風に、さみしいような顔を声を自分に向けるのか。
富樫にはとんとわからない。
桜が舞って、その愁いの眼差しを遮るのだ。






「重たかねえか」
分数を睨んでいた富樫はぼけぼけとした顔でこう抜かした。田沢はうーむと顎を突き出して腕組みをし、深く唸る。松尾は書き付けられた分数を見下ろして感心 したようにそうじゃのうと相槌を打った。
二月もはじめ、一年でもっとも寒いといわれるあたりの晴れた午後である。締め切った教室に、窓に貼り付けた新聞紙を透かして差し込む太陽は頼りない。
桃は伊達と隣り合って机にどっさり積み上げた漫画なぞ読みながら田沢の算数教室の光景を横目に見ている。伊達は二巻を読んでいた、とっくのとうに読み終え ている。だというのに桃が三巻を読み進める手を止めてしまっているので伊達は続きを読むことが出来ない。せかすのも子供じみているようで伊達は再び二巻を 最初から読み直すことにしていた。
「なあ伊達」
そうか読み終わったかと思って伊達が顔を上げると、桃の手にある本の未読ページの量はさきほどからいかばかりも減ってはおらず伊達は密かに落胆した。桃は どこか上の空で伊達へ声をかけた。伊達が首をめぐらせたところから見える桃の横顔は子供のようである。
「なんだ」
「割り切れないと分数の割り算は出来ないな」
「…あ?」
桃は手にしていた漫画をぱたりと閉じた。伊達は寄越せと無言で要求しながら右手を差し出した。桃は何か考え込んでいるようで、伊達の手のひらには桃の左手 のひらが乗せられる。肩を並べて手を握り合う趣味は無いと、伊達は軽くその掴まれた右手を振る。桃の指がするりと伊達の指の股へと滑り込んでいって恋人が するように指同士を絡められてしまい、伊達はますます腕をブンと強く振った。
「俺も、説明しろって言われても困る。どうして分数の割り算はひっくり返すのか」
「離せ」
「割り切って、そういうものだって思えば簡単なことさ。けどそれじゃあ田沢や松尾は納得しねえだろう」
「いいから離せ、おい」
「どうしても説明の仕方がみつからねえ…なあ伊達、お前なら」
「離せ!」
「フッフフそう悲鳴みたいな声を出すな、何お前ならあいつらに上手く説明してやれると思ってな」
桃の指にグググと指が込められた。
「おい、桃!」
そんなやり取りの最中、こんな声が上がったのである。

「分数ってな、下の奴が重たかねえか」

思わず伊達と桃、手をつなぎあったまま顔を見合わせた。
さすがの桃も大人しく伊達の手を離して、その肩に身体をもたれかからせながら伊達へ三巻を手渡した。伊達は小さく頷くと、待ちに待った続きを読みふける。
結局わいのわいのと分数について話していた松尾達の結論は、
「上の数字が大きければ多いほど、下が重たい」
というものであった。



夕食後の風呂上りに、脱衣所が湯煙で真っ白くなるのは冬のお約束だ。寒い分大きく膨れ上がった蒸気がまんまんとこもるためである。
桃は目の前に広がる桃色肌色絵巻を何気なく見た後、手ぬぐいを広げてから折りたたみながら不意にある男の不在に気づく。
「…富樫?」
よく考えてみれば、夕食の際にも居なかったように思える。富樫のあの人一倍大きな声やがさつな食事音などが一切思い出せない。
他に楽しみなどない男塾で、夕食もとらずに何かをするとなればなんであろうか。桃は寝巻きを身に着け終えると手ぬぐいを持って脱衣所を後にした。湯上りの 素足がたちまち廊下の床に冷やされて感覚をなくしていく。夜ならば暗いのは当たり前だと開き直って電気などついていない、桃は真っ暗な廊下をすたすたと部 屋へと戻った。部屋のドアを開ける。
なんとも珍しいものを見たぜ、桃は口元に微かな笑みを匂わせた。
同室の富樫が入り口の戸へ背中を向けて正座し、しつらえられた机についてなにやら書き物をしているようである。
フッフフまったく机が似合わねえ、桃は富樫が自分に気づいているかどうかに構わず足音を心なしか殺して背中へと歩み寄る。富樫の背中越し、頭を飛び越えて 覗き下ろした。
「……算数?」
「ゲッ、も、桃!」
机に覆いかぶさるようにして隠そうにも、時既に遅し。富樫は消しゴムのカスにまみれた算数ノートを決まり悪げに閉じた。
「邪魔はしねえさ、続けてくれ」
「う…」
桃は富樫の姿を横から眺められる位置に寝そべると、肘を立てて枕代わりに頭だけをもたげた。続けてくれと言われても見られていては集中は難しい、ただでさ え先ほどからわからなくて鉛筆が止まっていたところなのであった。
「続けないのか?」
「るせえ、静かにしてろい」
ムッと唇を尖らせると男前成分が失われていく、かわりに老け顔だと一般的には評される顔にガキくささが生まれる。それをいい男だという男が何人かいる、そ れは富樫にとって幸せなことかどうかはさっぱりわからない。
桃は言われる通りに口を閉じて、もやもや生まれる風呂上りの眠気にうとうととしながら見守っている。

二十分ほど経過した。既に風呂釜の火は落とされたし、食堂に用意してあった富樫の分の飯は虎丸がぺろりといただいた。
桃はもう八割がた眠っている。上半身裸だったのでそろそろ何か着込まないと風邪を引きそうであった。寝息が白くはならないのは、狭い部屋に二人詰め込まれ て体温であたためているおかげである。
「ああ、わからん!!」
ドン、と思わず拳で文机を叩いた。チビた鉛筆が机から跳ねて転げ落ちた。衝撃に目を覚まし、ポタリと畳に落ちた音の先を探るように桃がぱちくりと瞬きを繰 り返す。
「……富樫、」
「悪い桃、起こしちまったな。どうしてもこれ終わらせねえとならねえんだが…」
「どれだ」
むくりと起き上がると、富樫の横へ膝をついて座る。富樫のクセのある文字が書かれては消された数学ノートはボロボロだ。筆圧も濃いためにノート全体が薄汚 れてしまっている。
「おう、どーも分数ってのがわかんねえんだ」
「ふうん…五分の三、が五あるうちの三というのはわかるか?」
「うううう」

桃は素直に形を作った眉をひそめた。どうしたものか、何かわかりやすいものでたとえてやろうと思う。

「そうだ、富樫。この下側を入れ物と思ってくれ」
「入れ物?」
桃は胡坐をかきなおした。富樫の前に転がった鉛筆を取り上げ、ノートの空白に大きく丸を描く。
「ああ、下側は男塾だと思え。そして、男塾の大きさは十だとする」
「お、おお」
桃は丸の中に十と書き込む。富樫は口を半開きにしながら身を乗り出した。
「で、ここに入塾するのが上側の奴等だ」
丸の上に横線を引き、その上に小さな丸を描き、中に一を書き入れた。
「おう、入れ物に入る、のっかるわけだ」
富樫は大きく頷いた。桃も頷く。さらにその小さな丸から矢印を引っ張って、横に二を入れた丸を描く。
「入塾した奴も成長すると、数が大きくなる」
「成長すんだな」
「そうさ、で…」
一を含んだ丸、二を含んだ丸から更に矢印を引っ張って、そこに下に書いた十を含む円と同じ程度の大きさの丸を書く。
線を挟んだ丸同士の大きさが大体同じものになる。
「入れ物つまり男塾の大きさに、成長した塾生が入りきらなくなる」
「…う?」
「男塾の大きさを十とすると、塾生が十の大きさに育ったら入りきらねえだろう」
「あ、そ、そうじゃな」
「つまり、卒業だ」
「卒業か」

その分数の右の余白に、一と書き付ける。
「つまり、一人前になったから卒業なのさ」
「おおお!!」
富樫は大声を上げた。桃のように誰かに自分が上手く説明できる自身はなかったが、わかった!というひらめきの喜びは素直に胸を満たす。興奮したように、
「つまり分数ってな、一人前になりきれねえやつだってことだな!」
「………まあ、そう、だな…」
と、思いついたように再び一本の線を引く。下には十、上には十五を書きつける。
「桃これァいけねえや、一人前になってるじゃろが」
「そうさ、中には邪鬼先輩みてえに一人前になっても上に乗っかってるのもいる」
「へえ」
「コレを、仮分数って言うんだ」
「カブンスー…」

富樫の顔が明るい。並ぶ分数の問題はどれもそんなに難しくは無い、十あるミカンのうちの三つを食べます、さてヨシオ君はどれだけ食べましたか、分数で書き なさい。そんな程度。
「悪ィな桃、俺頭悪いもんでよう」
「そのうち足し算も教えてやるさ、…良かったな」
「うん」

富樫が兄にするように、うん、と自分に頷いた。それがなんだかとっても桃には嬉しいものに思えるのである。

「早く一人前になって、俺らも卒業しねえとなぁ」
「ああ、塾生から一人前同士になってな」

二人笑って、算数ノートを片付けてそれからすぐに寝た。
布団が冷たいが、体温ですぐにあたたかい。二人は昏々と眠る。








「桃、俺なぁ」
富樫の決意を桃はつるりときれいな笑顔で聞いた。一旦は受け止めて、流す。
強い風が吹く日で、盛りよ盛りよと空を埋めて咲き誇る桜の花びらがざあっと二人の間を走っていく。
ああやっぱり、と桃は呟いた。
やっぱりな、今度は富樫に聞こえるように言ってやる。
「お前ならそうすると思ったぜ」
富樫の卒業後の進路を桃が自分から問いただしたわけではない。富樫のほうから、桃、あのよ、そう言い出すまで待っていた。
そしてその時がいざ来たら、桃はそうかと静かに聞き入れようと決めていたのである。

だが実際そうにはならなかった。
若い頬に笑みを大きく描いて、ワッハハと笑いながら、
「塾長も俺の根性についに降参したぜ、秘書見習い了解させたったわい」
そう報告する富樫に答えた桃の声はかすかに震えている。
桜がさわぐ。
「桃、おめえはどうするんじゃ」
「政治をやるさ、この国をどうにかしてやろうと思ってな」
「そうか、おめえなら出来るだろうぜ」
あっさりとそう言い切る富樫はどこまでも富樫である。学ランのポケットに手を突っ込みながら晴れ晴れと笑って言い切る富樫は桃をどこまでも信じていた。桃 へその期待は心地よい重みである。信じてもかまわないさと富樫を受け入れるだけの自信は持ち合わせている、それに見合うだけの実力もあるし、努力もある。

また、風が強く吹いた。今度は地面に渦を描いて花びらを巻き上げ、唸りを上げて二人の間を過ぎていく。花びらが容赦なく二人の顔に身体に降りかかる。
富樫はペッペと唾と一緒に花びらを吐き出した。桃は黙ってその花びらを払いもせずに立っている。

「お前は一生男塾と行くんだな」
「おうよォ、俺が行く先ゃ後にも先にもここだけじゃい」


桃の顔から笑みがふっつりと途切れた。富樫からは花びらの大群に阻まれて見えぬ。
「お前は分数の話を覚えているか」
桃がどうしてそんな風に、さみしいような顔を声を自分に向けるのか。
富樫にはとんとわからない。
桜が舞って、その愁いの眼差しを遮るのだ。
「なんだ、なんだって?」
「…いいや、なんでもねえ」
そうして富樫はまたな、と去っていく。卒業まで後残りわずか、やるべきことは沢山あるし、それに今生の別れというわけでもない。


桃はまだ桜に渦巻かれながら立ち尽くしている。


「分数の話をしよう、」
誰とも無しに呟いた。答えるのは桜の花びら、それから紺青の空、長く伸びた飛行機雲。
「お前は確かに一人前、つまり一になった。俺も一だ、そうしたら対等だと思ってた」


ウン、と風が唸った。
「普通分数でも仮分数でもない、帯分数になったんだな」


入れ物に収まりきらなくなって、独立するのではない。
あくまで一人前でありながら、後に続くものを見守れるように入れ物のすぐ側にあり続ける。
富樫は帯分数の男になった。


「富樫が立ち止まったか、それとも塾長が引き寄せたか」


どちらにせよ、少しばかりのむず痒い嫉妬らしきものがチラチラと桃の胸へのぼる。
しかし富樫に他にいい居場所があるかと言えば思いつかぬ。仕方が無いと言えば仕方が無い、適材適所と言えばそうである。
なるべく放し飼いにしてもらわなきゃな、と誰にも不穏な事を呟いて桃も去った。
卒業も間近な、ある晴れた午前の話である。
モクジ
Copyright (c) 2008 1010 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-