びー君とカレー
今日も今日とて暑い暑い。風も無ェ、空は雨雲のカケラも
無ェのにこの湿気はどうなんだ。肌がべたべたと粘る。太陽がうるせぇ。ギタギタしつこい光がうるせぇ。セミは黙ってる、まだ夏じゃねぇとでも言うのか。冗
談じゃねぇ。
一体どうなってんだこの国は、汗が拭いても拭いても止まらねぇ。暑い、暑いって言ったとたんに暑い。
娯楽室のボロテレビ(驚いたことに上にはアンテナが乗ってやがった。更に言えばチャンネルは切り替えるのではなく回すんだ)では、
『冷房病に御注意!膝掛けは手放さないように』とかなんとか。膝掛けだ?ふざけんな。
俺はここまで暑がりだったか。暑がりだったんだな。
冷房か…
家に戻れば確か、クーラーはあったな。つけるとお袋は電気代がかさむと怒るが関係ねぇ。
あんまり暑いんで、こりゃ家に居たときのがマシだったとポッツリ剣の野郎に漏らしたのがそもそもの間違いだった。
青い眼のハチマキ野郎は選手宣誓みてぇに拳を突き上げて、
「ようし、そんなら今日赤石ん家行こうぜ!」
「そんなら、じゃねぇよ」
怒ると余計に暑い気がする。
…だから剣、俺の家に行くのにどうしててめぇが音頭取るんだってオイゴラ、聞けよ。聞けって。信長も、何いそいそ準備してんだよ。
待てや。待て待て。暑い。
「チェッ、いーじゃん、ケチ」
「ケチじゃねぇよ」
「あーあ世知辛いぜ、持ち前の明るさでもってもカバーしきれねぇなぁ」
「ハーフのくせに世知辛いとか言ってんじゃねぇ」
「信長、お前も行きたいよな、楽しみにしてたよな?」
「お、俺ァ、俺ァその、…赤石が良いってんなら、行きたい…けどよ」
「…………フ」
チラッ、剣がこっちを見た。口元フフンとひくひくさせて、どうだと言うように。断れんのか、エエ?そんな顔だった。ぶん殴りてぇ顔してやがった。
「…………」
……チッ、家に連絡すっから、待ってろ。
ケータイ取り出して、お袋へ電話。
あの下膨れ名乗らないと切りやがる。
ケータイ耳に当てっと、べたつく頬が気になってしょうがねぇ。後ろ髪が全部ベッタリ首筋へ張り付いて気分が悪い。後でダセェがタオルでも首に巻きつけるし
かねぇか。
『赤石でございます』
出方は普通なんだよな。オイなんだ剣、信長、近寄るんじゃねぇ、暑い、暑いから側に寄ってくんなってんだろ。
何聞き耳立ててんだよ、変わりゃしねぇよ。
「あー…十蔵だけど」
ケータイすぐ、耳から離す。剣や信長が不思議そうな顔をした。
『十蔵ちゃん!!』
…わかっただろ。
「おう、俺だけど。…今日そっち帰るから、飯食わせてくれ」
『あらちょうど良かったわ、お客様が今日見えられるので買い物に行こうと思っていたのよ。荷物を運んで頂戴』
「は?」
客だ?
いつのも右翼っぽいオッサン達なら親父が俺の同席を許さねぇだろうし、親戚ならもっと前もって俺に連絡があってもいいはずだ。
にしても、客が来るんなら俺が誰か連れて行く訳にはいかなそうだな。
「あー…剣や信長も行きてぇって言ってたんだがよ。客が来るなら」
『まあ!それなら尚の事ちょうど良かった、お客様は伊達の親分の所から、こないだいらした…ええと、毘沙門天さんが』
「先輩が!!?」
暑さも何もかも吹っ飛んだ。
「いいかババア!絶対に何も余計な事するんじゃねえぞ!いいな!今から行くからな!!」
『はーい』
お袋の『はーい』に騙されるな。これは親父の教訓だ。電話も切れた。汗が噴出した、首筋がダラダラして気持ちが悪ィ、くそっ。
「オイボサッとしてんじゃねぇ!行くぞ!!」
「オッ、十蔵いいの?おばさんいいって?よし、行こうぜ信長」
「安東や日登はどうすんだ?」
「奴等は呼ぶな」
前回先輩と出会ったときの安東の様子を考えたら、呼ばないほうがいいだろう。かといって日登だけ呼ぶのもなんだか変だ。
「オラ、行くぞ!」
「お――っ!!」
学ラン姿の伊達臣人が、赤石家の和室でくつろいでいる。不思議な光景であった。
窓から夏の金白陽光が差し込んで、いやざくざくと無遠慮に刺し込んできているというのに汗一つかいていない。紺色の座布団の上に気楽に脚を長長と投げ出し
ている、その素足もあくまでさらりと乾いていて湿気を感じさせない。前を大きく開いた学ランの胸元も同様で、学ランの生地もまるで重たそうには見えないで
いる。
若かりし伊達臣人、いや、毘沙門天は窓の外の夏を眺めていた。
無論家の中も夏である、しかし毘沙門天のたたずまいがあまりに涼しげで、室温と季節が外と隔てられているようである。
「………」
まるで世の中を知らぬ眼差しが興味深げに床の間にかけられた掛け軸を眺めていた。
『一刀両断』
くろぐろとした墨が今にも匂いそうな生生しい筆遣い。
「それ、剛次さんが書いたのよ」
家主の妻が茶を盆に載せて入ってきた。毘沙門天が顔を向けると、何がおかしいのかうふふと微笑む。
「お茶にしましょう、毘沙門天さん」
「ああ」
「羊羹はお好き?」
「食った事がねぇ」
「はい、どうぞ」
赤石の妻と言うべきか、十蔵の母と言うべきか。ともあれ女は竹楊枝に厚切りの羊羹を指して手渡す。女は自分の分もきっちりと手にしていた。
どうやらここで食うらしいと理解しつつ、毘沙門天はその楊枝を受け取る。
「ああ」
「おいしいわ。あら、ごめんなさい」
普通こうした場合客人が先に食べるべきだったと思い出して、女は詫びた。
「構わない」
「召し上がれ」
言われるがままに楊枝から厚切りの羊羹を頬張る。毘沙門天の舌には甘いとか、それから小豆であるとか、そういうものが情報として流れた。
「どうかしら」
「甘い」
「そう」
女は既に二切れ目に手を伸ばして頬張っていた。毘沙門天にもすすめる動作を取ったので、彼も楊枝を手にする。
羊羹を頬張って、熱熱の茶を啜ると女は満足そうな声をもらした。
「ああ、美味しい」
「そうか」
「美味しくなかったかしら」
「いや」
あんまりずけずけと女が遠慮なく尋ねるので、毘沙門天も素直に答えた。
「美味いとか、不味いとか、そういうものがわからん」
「そう」
伊達組で明かした時には、見習いや仏頂面は酷く切ないような悲しいような顔をしたのだが、この女はそうと頷いたきりだった。
毘沙門天もさすがに不思議がる。自分の事は自分が一番良くわかるのだ、自分は特殊だろうに。
「そうそう、今日ね、十蔵ちゃんが獅子丸くんや信長くんと泊まりにくるのですって」
「そうか」
今度は毘沙門天が「そうか」の番であった。
女は微笑んで、いいかしらと毘沙門天の分の羊羹まで食った。
「せ、先輩…押忍」
毘沙門天は、この自分を見るたびにグッと胸を詰まらせた声を出す男の先輩ではない。
だのに、毘沙門天に流れるオリジナルの遺伝子情報か、それとも男塾魂とかいうもののせいか、毘沙門天の心拍数も上がる。
「久しぶりだな」
「おークローン久しぶりー、臣人さんのところ居んだって?今度男塾にも遊びに来いよ」
「し、獅子丸お前ちょっと空気読めよ…あ、おばさんこんにちは」
「こんにちは、暑かったでしょう」
信長が獅子丸を引っ張っていくと、十蔵は小さく頷いた。
「ウチ、なんも…ねえーっすけど…今日は何か用があったんすか」
今時の青年らしい物言いだった。
毘沙門天は羊羹を刺した楊枝をくるくるさせて少し考え込む。髪の毛は真っ黒かと思いきや、夏の陽光に透けてわずかに金茶が混じっているらしい。
「お前が居るかと思ってな。そうしたらお前の母親が上がっていけと」
「俺は今、男塾に行ってるんで、普段はこっちにはいねぇんだ…です」
「構わねぇよ、普通にしゃべれ」
「押忍」
そうか、学校って奴か。毘沙門天は小さく呟いた。
ぱんぱんと手を叩く音。部屋にいた全員が注目した。
「さあ、晩御飯の買い物に行きましょう。男の子がこんなに居て嬉しいわ、手伝って頂戴」
「押忍!」
「毘沙門天くんも、さ、今日は泊まって行くんでしょう。私が後で、伊達親分に電話を入れるわ」
「…ああ、それじゃ遠慮なく」
大人の世界の文句ばかり先に覚えたのだ、十蔵は何故だかそう思った。
大型スーパーで獅子丸が押すカートへ、母親の指示で次次と食材が入れられていく。
「ヨーグルトを持ってきて頂戴、二百グラム位いるかしら」
「押忍!」
信長が駆けていく。
「トリモモ肉、骨がついたの!」
「押忍!」
獅子丸が駆けていく。毘沙門天がカートの運転を代わった。
「…ええと、ジャワカレー辛口とこくまろカレー中辛」
「どっちだよ」
「どっちもよ、十蔵ちゃん」
十蔵が駆けていく。
「びー君は私と野菜売り場よ」
びー君、それはひょっとしなくとも自分のことだろう。
毘沙門天は何と呼ばれようと気にしない。気にはしないが、走って行きかけた十蔵がソレを聞きつけて思わず蒼白になって振り向いたのだからよっぽどおかしな
名前なのだろうかと思ってしまう。
野菜売り場へと向かうと、にんにくやタマネギを次次とカートへ放り込む。
「トマトを取ってもらえるかしら、三つよ」
言われるがまま毘沙門天が一つ一つ手渡す、と、最後の一つを手渡しかけて引っ込めた。
「あら」
「傷がある」
赤石の母は笑って手を差し出した。
「かまやしないわ、どうせ食べるのに。同じトマトですもの」
「……ああ」
毘沙門天は頬を撫でた。
「さあ、好きなお菓子一個ずつもってらっしゃい!一個だけよ」
母親の大声に十蔵が顔を背ける。他人のフリが出来よう筈もない。くすくすとおばちゃま達が笑った。
わーっと獅子丸が先頭を切ってお菓子コーナーへ駆けていった。ふかぶかと一礼して信長、十蔵が渋渋、送り出されて毘沙門天が続いた。
「なあ信長何にする?」
「俺は鈴カステラにする」
「渋いな!俺はー…あ、懐かしい、オレオがある。俺これにしよう」
オレオを手に獅子丸は振り返った。十蔵はポテトチップコーナーの前で立ち止まっている。
「十蔵、オーザックにしようぜ!」
「テメェはもう選んだんだろうが!好きに選ばせろよ」
「ちぇっ、なあ、クローンはオーザックにしねぇ?」
「剣!」
クローンはといえば、好きなお菓子も何もあったものじゃない。どうしたものかと思い、適当にチュッパチャップスを一本取り上げていた。
獅子丸が近寄ってくると、それをチラと見て、
「ソレ、好きなの?」
「別に、そういうわけじゃねえが」
「ならよ、コレにしねえ?これなら皆で食えるだろ」
オーザックの袋を押し付ける獅子丸に、毘沙門天が小さく笑った。
皆で。
「皆で食えるものか」
「そうそう、コレなんていいと思うんだけど」
オーザック、オーザック。獅子丸の青い瞳が輝いた。
「……皆で食える羊羹は、どこにある?」
ちょうど信長が和菓子コーナーの前にいて、毘沙門天に尋ねられたままに柏原の塩羊羹の袋を放る。
「………」
獅子丸がブスー、ととっても可愛くない顔をした。
「ヨーグルトに浸しておいたお肉、どうかしら」
信長がトリモモ肉をヨーグルトから引っ張り上げて、指でヨーグルトをこそぎながら柔らかさを確かめた。
「押忍、十分柔らかいです」
「そこにニンニクと塩コショウを擦り込んで」
おろしたニンニク、それから塩コショウを鳥皮へ軽く擦り込んで下味をつける。その後フライパンで皮目に焼き色をつけてぱりぱりとさせた。
「獅子丸くん、オクラをまな板へお塩を振って、ゴシゴシとこすり付けてちょうだい」
「おーす、うわ、チクチクする…」
不慣れな手付きでざりざりと細かなトゲや毛を取り除き、ヘタを落とす。
「それでいいの、あら、十蔵ちゃん、そんなに力を入れてお米をといだらいけないわ」
「…ちっ、うるせぇな」
「ベタベタのお米、美味しくないでしょう。信長くん、ナスのヘタにはトゲがあるから気をつけて」
「押忍!」
ナスを薄切りに。軽く塩をふっておく。
「そしたら獅子丸くんはお肉を焼いた脂はもったいないけれど捨てちゃいましょう。脂を拭いたらナスを炒めてね」
「おーす」
「びー君はトマトを切ってくれるかしら。タネはあんまりこぼさないようにね」
「ああ」
鍋に夏野菜が入ったカレーが出来上がっていく。
カレールウを半半ずつ放り込んで軽く味を調え、味見。湯気を立てる鍋を獅子丸が覗き込む。
「腹減ったー…おばさん、味見していい?」
「もうちょっと待ってね、びー君、最後の味付けおまかせするわ」
「エッ」
声を上げたのは獅子丸だった。信長も、十蔵もいくばくかの不安を覗かせている。
「俺がか?」
「そうよ、お願いね」
そう言って赤石の母親は出て行った。
赤石の母親がしたように、毘沙門天はまず更にルウを少しとって口に含む。
「……どう?あんまり余計な事しねぇほうがいいぜ?」
獅子丸が心配そうに鍋と毘沙門天とを見比べる。獅子丸の袖を信長が軽く引いた。
「俺は別に食通とかって訳じゃねえんで、先輩の好きにしたらいいと思うぜ」
「…ああ」
そうして出来上がったのは、甘い甘い甘いカレーであった。毘沙門天が精一杯美味いと信じる、甘いカレーであった。
(羊羹の味は、しねぇな)
そんなことを毘沙門天が思っていたとは、誰も知らない。
「赤石ィ、甘ェよ…あのカレー甘ェよ…」「うるせぇ、てめぇがリンゴとハチミツとか言い出すからだろうが」「赤石どうすんだよ、お袋さん味見したら…」
そんなことを他三名が囁き交わしているとは、誰も知らない。
「お手伝いありがとうね、さ、お風呂屋さん行っていらっしゃい。十蔵ちゃん案内してあげてね」
赤石母に背中を押されて夕暮れ前の商店街を再び歩く。歩いて五分の仲の湯は馴染みで、十蔵の傷面にも驚かない。
客を入れ始めたばっかりだったので焼けるほど熱い湯を使って汗を流し、まさに裸の付き合いを深める。
普段の十蔵ならば言わないだろうが、気がゆるんでいたのかもしれない。
「貰った金の釣りで、牛乳が飲めるな」
「賛成!」
脱衣所で腰にタオルを巻きつけると冷蔵庫を開けて牛乳を物色。零れる冷気に股間がヒヤリとするのを獅子丸は黄色い声を上げて楽しんだ。
「俺フルーツ!」
「信長は?」
「俺ァ…あ、バナナがあるな。俺バナナ」
「てめぇら軟弱だな、牛乳なら牛乳だろ。センパイは?」
「俺は…なんでもいい」
「そんならフルーツにしとけよ、うまいから」
そういうことで、並んでビン牛乳をごくごくと飲む。十蔵と信長は自然と腰に手をやってしまう、獅子丸はそうでないあたり、環境か遺伝しか、何がしかが関
わっているのだろう。
「うめ―っ!」
ぷっはぁ、獅子丸が大声を上げた。
「クローン、どう?うめーよなー風呂上りの牛乳!」
バンバンと背中を叩かれて、毘沙門天は小さく頷いた。
「ああ、美味いな」
「だろー」
たまたま汗をかいて、身体が求めていただけかもしれない。
けれどしっかりと今、毘沙門天は美味いと認識した。それでいいのだと毘沙門天は一人頷く。
夕日がぎりぎり残る道は、行きと違って非常に涼しい。風呂で汗を流したのと、冷え始めた風が火照った肌に心地がよいせいである。
腹を減らして帰り道。
家の外にカレーの、あの甘いカレーの匂いが流れている。甘い甘い甘いのだとわかっていても腹が鳴った。
「腹減ったー、おばさん、ただいまー」
遠慮なく獅子丸がドアを開ける。と、玄関にやたらに大きな靴が並んでいた。
そのうちの一足が赤石の親父のものであるとは十蔵にはわかる。隣には仕立ての良さそうな革靴に、今時珍しい草履。
「…オリジナルのだ」
草履を睨むと毘沙門天が小声で示す。となると残り一足は、
「フッフフ息子がいつも御厄介になってます。伊達のところのも。親父まで夕食にお呼ばれしちまって」
「別に俺のは、息子って訳じゃねえ」
「どうでもいいが、早く飯にしろ」
「そうね、剛次さん。もう少しで皆帰って来るでしょうし、先に始めましょう。うふふ、今日はね、皆が作ったカレーなのよ」
「へえ?息子たちの合作か、フッフフ楽しみだ」
クローンを除く全員がその場で顔を見合わせた。
「た、大変だ!!」
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