あやまち

一人の間抜けの話をしようか、
桃はどこか翳りのある頬で微笑んだ。



「俺はあいつが好きだった、伊達、お前も知っていただろう」
「あいつ」
「言わせるなよ、知っているくせに」
桃が苦笑した。伊達にはぐらかしのつもりはなかった、ただ桃の言葉を繰り返しての相槌に代えただけの話である。
「俺は富樫が好きだったんだ」
「そうだな…だが桃、過去形なのか」
伊達は着物の膝を割って胡坐をかいた。伊達家の縁側に二人向き合って座っている。
ちょうどいい月夜に、夏特有の湿気が月の輪郭を滲ませているように見えた。桃は張り付いたような、諦めたような苦笑に酒を飲む手を休めて、
「いいや、だけど…だけど、過去形にしちまったのは俺さ、だから間抜けだと言うんだ」
「解せねぇな、俺から見てもてめぇは富樫を大事にしてただろうに。富樫も富樫で阿呆だったが、それなりにてめぇを慕ってたはずだぜ」
「そうとも、俺はあいつを大事にしてたさ。だけどな、富樫はこう言った」

『ああ、お前も驚いたんだなって。あん時、そう思ったんじゃ』
今や塾長秘書、学帽を胸に、長ドスを手帳とボールペンに持ち替えた男は寂しそうにそう言った。
塾生時代から大分経って、どうしても離れていく男へ桃は、
「どうしてだ」
と尋ねたのだった。
どうして、
どうして離れる、
共に闘い、共に生き、共に歩いた俺からどうして離れていく?
その問いかけに対して富樫はこう答えたのであった。
『勝手言うかもしんねぇがよ、お前にだけは信じて欲しかったぜ』


「どういう事だ?」
「武幻城を覚えているだろう」
桃が月へと顔を向けた。伊達は桃の視線の先を、あえて追わなかった。
「あの時富樫が生きていると知って、俺は驚いたんだ」
「そりゃ驚くだろうが」
何が問題なのだと伊達は杯をきつい音を立てて縁側へ置いた。まるで話が見えない、富樫は確かにしっかりと死んだのだと虎丸からも聞いている。ばっちり死ん で、そして武幻城に生きて戻ってきたのだと。
何が間違いなのだろうか、伊達は先を急かした。
人の惚れた腫れたの話ほど聞いていて不毛なものはないと伊達は思っている。

「お前がまだ、男塾に入塾する前…あの驚邏大四凶殺の時さ。あいつは俺に言った、『地球上全部のゴキブリが絶滅しても、俺ゃ死にゃしねぇよ』と」
「奴らしいじゃねぇか」
「俺はだから、あいつの死体を見ようが、決して富樫の死を認めねぇと決めたのさ」
伊達へと視線を戻した桃は微笑んでいた。子供のような顔だと伊達は思う。それも迷子のような。
「死体を見たんなら認めろよ」
まぜっかえされて桃は軽く伊達を上目に睨んだ、桃の指が軽くさまよってから自分の杯を探し当てて、勢い良くあおる。
「そうじゃねぇ、だから、―――とにかく、俺は富樫をそうやって信じるって決めたんだ」
「で、信じるって言っておいて実は信じなかったって話か」
面倒くせぇ、伊達はため息をついた。
「……だから、間抜けの話をしようって言ったんだ」




あの時の富樫の眼差しを、桃は忘れられないでいる。
おそらくそれは富樫も同様だろう、
誇らしげに富樫が学帽を跳ね上げ、どうだと言わんばかりに立っていた。
富樫のその視線が驚く塾生達をからかうように笑いながら、最後の最後に桃へと留まったのだった。
『なぁ、桃、お前はわかってたろ?俺が生きとるって、なぁ』
そんな期待に溢れた眼差しが凍り付く。
桃の目に確かに宿った、その驚きに富樫の表情が最初不思議そうに呆け、それから困惑、

耐え難い喪失、耐え難い悲しさ、たとえようも無い寂しさに塗りつぶされた。


その顔を、桃は一生忘れられないだろう。
しかしそれは富樫も同じ。

『どうしてお前がここにいる?死んだはずじゃなかったのか?』
突き放されたような気がしただろう。ある部分では兄よりも信用し、甘えを見せていた男のその眼、富樫は一気に海原に投げ出されたような心持ちだったに違い が無い。






「それでてめぇは、どうしてぇ」
「うん?別に…何も、どうもしねぇよ」
ごろりと桃が縁側へ寝転んだ。伊達は呆れて物も言えない。今の話の流れから言って、ああ切ないねってそういうことではないのか。
「俺は富樫を好きだった、富樫も俺を好きだった。でも一旦離れた」
「おい」
「俺の失敗さ、間違いだ。だけどな――」

夏のくすんだ夜空の星などより、よほどに輝く瞳が伊達を射抜いた。

「取り戻せない間違いがあるとは、俺は思ってねぇ」

「それを富樫に言ってやれよ」
「まださ」
アーア、と桃は学生時代となんら変わらないあくびをした。腕枕で長長と伸びただらしない友人の姿に伊達は額を押える。

「もうちょっと、富樫もきっと寂しいだろう、そうしたら言うさ」
「算段ばっかりしてんじゃねぇよ、足元すくわれても知らねぇぞ」
どこまでも律儀に伊達は返答をしてやり、桃が飲み散らかした瑠璃杯と、つまみを載せた素焼きの皿を片付ける。
そして、仏頂面へ客用布団を用意するように命ずるのだった。
モクジ
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