この夏一番の暑さ
2008/8/3 D
手帳を持ち歩くような、上等な仕事につけると富樫自身思ってはいなかった。大工や土方、もしかしたらチンピラ、そうしたほうがよっぽど自分に似合っていた
だろうにとも正直思っている。
しかし富樫は今男塾塾長江田島平八の秘書である。誰かが秘書さん秘書さんと呼ぶと、照れたように、
「俺ァボディガードのつもりだったんだがな、塾長が必要ねぇってんで……ヘッ、片手間に秘書の真似事やってるだけじゃい」
整髪料で撫で付けた髪の毛の上あたり、ちょうど帽子かなにか被っていたのならばそのつばを引き下げるような仕草をとる。
若若しい時期を過ぎて立派な男になってもどこか子供のような態度の抜けない、元教え子を塾長は案外可愛がっていた。
「なーに、見かけばっかりカッコウつけただけじゃ。フッフフまだまだケツの青いヒヨッコでな」
アゴをさすりさすり、それでも瞳はあたたかく。忙しく立ち回る自分の秘書をそう塾長は評したのだった。
虎丸が歩いているのはたんなる道路ではない、真夏の道路である。
灼熱のピークは過ぎて夕暮れ、頭上からの熱波はなけれども、溜め込んだ熱気は足元より這い上がってねばる。
その熱気に誰も彼もが辟易と犬のようにアゴを出して歩いている。
虎丸ももちろんそのうちの一人だ、誰より汗をだくだくとかいてみっともなくヘバッている。
しかしこの歓楽街を歩く誰よりも虎丸が余力を残している男だと知るものはいないだろう。
もうだめ、そんな顔をしたつながりまゆ毛の男。汗ジミをシャツに作った男が実は誰より頑丈だと誰が知るだろう。
もうだめだという顔のウラッかわで、虎丸は道行くオネエチャンの肌を楽しんでいる。
今年流行のふんわりとした長い、リゾート地に似合うようなスカートに残念。
これでもかとのミニスカート、決して自己満足に終わらない、見せてなお可愛らしい下着はフラッシュピンク。
キャミソールの肩にビニルの肩ヒモがもう一つ。
金属質の靴音を立てるミュール。
さりさりと地面に削られるやわらかなビニルサンダル。
人の熱気人の湿気頭上よりの熱気、
真昼の熱気がたゆたって華やぐ街はプールとかわりない。
だから誰もが魚みたいにムダをそぎ落として、ゆらゆらと障害物にぶつからないように泳ぐのだ。
虎丸も魚の一尾になって、けだるい街を泳ぐ。冷房の効いた社内から出ただるさがそのまま遠泳直後の疲労と重なる。
日は落ちて直後で、くすんだ空はまだうすらぼんのりと全体的に明るい。
正面から携帯電話に目をやりっぱなしの女子高生が迫ってくる、若くてもその足取りはしっかりしていた、何か目的を持ってこの街にきたのだろうか。
虎丸が身をかわすまでもなく、女子高生がするりと半身をそらした。
完成品を見ても工程がわからない電化製品のように複雑な頭がゆらりと尾ひれのように揺れて、虎丸の鼻先をかすめていく。見えて居ないようで見えている。
それぐらいできないようでこの街に来る事はできない。
既に退社したサラリーマン達がよぉし飲みに行くぞと声を張り上げた。今日はさぞビールが美味いだろう。
その熱い張り切り方を学生らしき一団が声真似をして笑う、社会人達は怒りもしない。どうせあと数年もしたらわかるのだから、それとも自分たちもああしたこ
とをやった覚えがあるからだろうか。
虎丸の目前に、待ち合わせ地点に指名した犬の銅像が見えてきた。軽薄に若者たちの待ち合わせスポットを指定したらとても嫌な顔をされたのを思い出す。
思い出して、笑った。
「オッ、もう来とったんか」
犬のちょうどすぐ側に黒服が佇んでいる。一人だけ葬式か、いや、ヤクザか。
ヤクザならば納得のご面相、しかし不思議と緊迫した雰囲気はない。その証拠に彼のすぐ隣に飾り立てた女や、ナンパ準備中の男が気にした風もなしに立ってい
られるせいである。
「富樫!」
虎丸が声を張り上げた。酔っていないことはすぐにわかる芯の入った声。誰もが振り向いた、最近素面で大声を出したのはいつだ?人を呼ぶのに大声を出したの
はいつだ?携帯電話が便利すぎて、直に声を届けるのをすっかり忘れてはいないか。
呼ばれて富樫が顔を上げ、左右へ視線を動かした。さまよいかけた視線が人ごみで大きく手を振る、虎丸とぶつかる。
「虎丸!」
富樫も大声を出した、携帯電話をいじっていた隣の女が仰天するほどの声量である。
空はとっぷり暮れて、東京であっても星をまばらに見せていた。
「もう一月か!」
驚いた富樫へ、虎丸が牛筋串に横からかぶりついたまま恨みがましい視線を送る。
ごくんと飲み込んでおいて、
「まったく薄情よの〜、こっちから連絡しねえとテメエ、俺のことなんか忘れてんじゃねぇか?」
「バァカ」
バカ、と反射的にはねつけた富樫に、虎丸はヨヨと手の甲で目を拭って見せる。
「いやん、ワシの事なんかもう、どうでもいいのねぇ!」
「やっかましい!とっとと食え、オラッ」
虎丸の口にボンボチ突っ込んでおいて、富樫はビールをあおる。あんなに苦いものがいつのまに美味いと感じられるようになったのだろうか。
「も゛ー!!」
虎丸は顔を真っ赤にしてじたばたと手探りにコップを探す。水の入ったコップを探り当てると馬のようにぐいぐいと飲んだ。
突っ込んだボンボチの串は富樫の皿のものだった筈。良く見れば皿に何か赤いものがある、さっきまでなかったはずのもの。ヤキトリ屋のうすぐらい明かりに目
をこらすと、豆板醤がどうやらさっきの串にいつの間にかベッタリ塗りたくられていたもよう。
あのまま富樫が気づかずに口に入れていれば、今ここでのたうっているのは虎丸ではなかったろう。
「…自業自得じゃ、ボケ」
あきれ返った富樫に、虎丸が、
「うう…冷たい」
少しばかりかわいい事を言うので、富樫はその店はおごってやったのだった。
その後虎丸がやけに張り切って、ハシゴにつぐハシゴを宣言。宣言通りに歓楽街を駆け巡る。
宵も深まり、
酔いも深まり、
ふらふらと二人は泳ぐ。すっかり沈んだ街は海底で、それでも全体的に生ぬるい。ネオンがけばけばしい分沈み込んだ闇があって、あやしい雰囲気があった。ネ
オンに惹かれて泳ぐ二人もどこか視線が曖昧だ。
「オーシ!も、も一軒行こうぜ!!」
真っ赤な顔で虎丸が声を張り上げた。待ち合わせの時とは違って誰も振り向かない、誰もが酔っている。素面の人間もいるだろうがここは歓楽街、誰も富樫虎丸
など見てはいない。
「オ、オイ虎丸!」
富樫が虎丸の袖を引いた、富樫もまた酔っているが、虎丸と比べるとまだ理性が濃く残っている。
一応自分の限度を考えながら飲んだ結果がこれであった。
「あ〜ん?なんじゃい、もう飲めんのかァ?だらっしがないのォ!」
「バカ、そうじゃねえや!…いや、その」
富樫が言葉を詰まらせる。
虎丸がますます顔を近づけてきた、声が聞き取れなかったと思ったのだろうか。しかし富樫がなにかもぐもぐとためらっているのを見て、面倒くさそうにその腕
を引っ張って路地へと引きこもる。入り組んだ路地、二つ角を曲がっただけで二人は魚群から外れたのだった。
太い通りから一本入り込んだだけで、こうまで暗いものだろうか。音もさっさと絞られて、まるで深海だ。重苦しい気分すらある。
「なんじゃ、富樫」
「いや、てめえと会うの…久しぶりだな?」
「ボケたか富樫、テメエがワシをほっぽらかしておいてよう」
「だぁらそれは悪かったって言ってんじゃねえか!」
やけになって富樫が大声を出すと、虎丸が肩を掴んでビル壁へと押し付けた。さすがに大声はまずい。
「そんで、何が言いてえんじゃ」
「ひ、久しぶりだってのに…てめぇが酒ガンガン飲むからよう」
今はもう富樫に学帽はない。視線の先も、羞じた瞼も、赤らんだ頬も何も隠せないでいる。薄暗いその路地が幸いして色は隠せたが、声に滲む色は隠せない。
「だからなんだってんじゃい、テメエも飲んだろが」
「俺ァセーブしとったんじゃ!!」
いきなり怒鳴った富樫に面食らって、虎丸はぽかんと口を半開きにした。狭い路地での事、近づいていた顔のせいで酒のにおいがつよくただよう。
「きょっ…今日、今日、ヤるんじゃねえかって…」
びっくり。
びっくり。
びっくり。
びっくり…どきん。
どきん、
………むくむく、
にや、
にやにや、
にやにやにやにやにや、
「ニヤついてんじゃねぇ!」
張り手を食らわせようと富樫が腕を振り上げた、虎丸はかわそうともせずに富樫へ身体を寄せる。
子供のように、いや、こんな顔をした子供も減った。こんなにきらきらしい、それでいてあくどい顔をした図太い子供は減った。誰も彼もが繊細に出来ている
中、ずんぐりと図太い笑顔で虎丸は笑う。
「なんじゃ、それであんまり飲まなかったんか」
「う…悪ィかよ…」
いんや、虎丸の膝が持ち上がって富樫の内股を這い上がる。顔を背けようとした富樫へ、虎丸は、
「俺があんまり飲むから、チンコ勃たなくなるんか心配になったんか」
子供から親父へギアを入れ、ニタニタしながら確認した。確認しながらも富樫が脚を閉じようとするのを防ぐように膝を割りいれる。
「そんなに俺のチンコが寂しかったんか」
「てめぇがいっつもそういう事言うから、誘おうにも誘えないんじゃねえか!」
「ヘッヘヘ富樫ィ、……俺なぁー…嬉しいんじゃ」
「何がだよ!」
ぐっと虎丸が腰を富樫へ押し当てた、脚を割りいれているために正面きってというより少し外れ、富樫の右足の付け根のあたりに虎丸の熱源が当たる。
平時とはあきらかに違う熱の持ち方、張り出し方。富樫が息を飲んだのが暗闇にもわかった。
「!」
「心配すんな、あんぐれぇの酒でチンコ勃たねぇ虎丸様じゃねぇからよ」
「そんなら、ヤるんならどっか、場所変えようぜ」
もう後しばらくもすれば膝ががくがくしだすだろう、富樫の声は切迫していた。光源の無い路地裏、目の前の男が虎丸であるということしかわからないが、理性
は残っている。
「んー……無理、こっからホテル探してウロウロしてたら、チンコ萎えちまうし」
「オイ!こら、虎!」
富樫の腕がぬっと伸びて、虎丸の口へぶつかる。それが口だとわかったらしくそのまま腕を上げて前髪を引っつかんだ。
「アイチチ、しゃあないのぉ〜箱入りよのォ〜」
お代官様のような口調ながらも、諦めを見せたか。富樫がホッと胸を撫で下ろす。
「取り合えずイッパツ抜いたら、移動しようぜ」
そうじゃねぇ!富樫の怒鳴り声は虎丸の手のひらへ全て吸い込まれた。
ラブホテルで見るニュースというものは面白い。さんざん本性を現して獣となった後で、世界情勢やら金融やら殺人やら、急に理性という氷をヒヤリ押し当てら
れたようなものである。
一応風呂まで済ませた二人は汚れたシーツを床へと投げ捨て、ベッドに寝転んでビールを飲みながらニュースを見ていた。
ごっごっとビールを飲むたびに虎丸の腹が上下するのを見て、富樫はイタズラッ気を起こしてそのわき腹をくすぐる。
ここが野外なら綺麗な虹ができただろうに、ビールがきらきらと霧状に輝きながら一つ一つニュースを映して虎丸の腹へと落ちた。
「ぶぁッハ!!あにすんじゃい!!」
怒る虎丸は塾生の時のまま、またもやギアを入れた。今度は助平な親父へと。
「せっかく風呂入ったのにまた汚すってこたぁ、もっかいオッケーって事かのう、ヘッヘヘスケベな相棒持つと苦労するぜ」
わっきゃわっきゃと両手を動かした虎丸の股間に、萎えたペニスが揺れている。その揺れ方も間抜けだ、
「バァヤロ!てめえのビールッ腹見てたらみっともなくってしょうがなかったんだ」
じゃれあって、たまに笑って、
唐突に虎丸が言い出した。
「のぉ、富樫朝何チャン?」
「ああ?あー…っと、うちァNHKじゃ」
「日テレにしねぇか」
「何でだよ、別にまあ、理由があるって訳じゃねえがよ」
天井にシミのあるホテル。
宮殿みたいなホテルに二人キバッて乗り込んだ時もあった。その時あんまり立派な内装と、それから値段とに萎縮して二人して役勃たずだった思い出はいまだに
笑い話。
「日テレのな、朝たしか…六時四十分ぐらいに天気予報するんじゃ」
虎丸が首をぐるりと巡らせて、富樫へ向き直った。
「そこでな、今日みてぇに暑い日にな、お天気の人がこう言う」
『今日はきっと、今年一番に暑いでしょう!』
「そうしたら富樫、俺に電話しろや、ナ?」
普段の富樫なら、なんでじゃ、ボケ、調子に乗るんじゃねえ、などとわめくだろう。
だが今日は違う、今だからこそ違う。しばらく会わないで会えないでおいて、そして理性をすべて引ん剥かれた後だから富樫は静かに頷いた。
「……オウ」
虎丸が理由をくれたことを、富樫はわかっている。電話しようにも何か理由が要るだろう、だからこう言ったら、会えるにせよ会えないにせよ必ず電話をするだ
ろう。富樫が案外律儀な以上に、声を聞ける口実があるのだから。
虎丸も知らないだろう。理由がないと悶悶としていた富樫の手帳、今日の日付の横に、『D』と書かれていることを。
逢引、そんな大正で文学なものじゃない。
逢瀬、そんな万苦を乗り越えるものじゃない。
飲み会、そんな健全なものじゃない。
デート。
でえと。
言葉を知らない富樫は、時時誰も気づいてやしねえだろうかと赤くなりながらそう書いた。
「あー、明日も暑いじゃろーなー…」
暑いのは嫌いな方である。
しかし、富樫はこの酷暑の乗り切り方をなんとなく見出したような気がした。
テレビの中で既に汗をふきふき、中年のアナウンサーが言った。
『今日は、きっとこの夏一番の暑さでしょうねぇ!』
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