わしむね
男が泣いていいのは親の葬式と、それから財布をなくした
時だけ。
それをこの中年と呼ばれてもいい年になってまで、かたくかたく守りながら生きてきたつもりであった、しかし。
このまなじりからぼたぼたと、決して俳優女優のようにぽろぽろするりとはいかぬ醜い熱い、ビショビショとした涙は拭っても拭っても止め様がない。
ただ泣いて、誰にも知られずに声を殺して泣きたかった。
しかしそれを許さぬ、許してくれない男がいるのを富樫は心から何と思ったか。
鍋に大根の細切の味噌汁が余ったので、具だけを引き揚げておく。味噌の色にすっかり染まったそれを細かく刻んで、夜飯を炊くときに混ぜてしまおう、そんな
ささやかな企みと共に、富樫はコトコトと包丁を意外に器用な手付きで慣らす。台所の窓から入り込んでくる五月の日差しはきらきらと新社会人のように張り
切っている、富樫はまぶしさに眼を軽く眇めて、布団を干そうなどと所帯臭い事を考えている。
何かの期待があった、
予感、そんな敏感で繊細に出来ては居ないが、あの時中学校の道徳の授業のあの時ばかりは、
『富樫君、すぐに来なさい』
廊下を走って来た担任の顔、声、仕草、全てに富樫は兄に何かあったのだと察した。虫の報せ、そんなものがあるのだと今なら思える。
何がもたらされるのか富樫は今はわからない、しかし何かがありそうだというそれだけに胸が疼き、包丁の手を誤らせて指を切った。
塾長の秘書見習いから始まった飯の支度、最初こそ指を落とす勢いで切り傷ばかりこしらえていた富樫であったが長年にわたる家事になれた今、指を切るのは久
しぶりである。
「富樫!」
塾長の私室から大声が響き渡った、富樫は飛び上がって包丁を置き、
「はい!」
一声怒鳴り返すと手を素早く洗って前掛けを外し、急ぎ私室へと向かう。胸の高ぶりは収まらないままだったのが気になった。
「先日、とうとう一号生寮の床が抜けてな」
畳をこの間替えたばかりの私室は、青い香りがこもっている。障子を締め切ってあったが、障子紙を透かして差し込む陽光で暗さはない。
腕組みをし、落語家が座るような大座布団にどっかりとあぐらをかいた塾長はそう切り出した。
富樫は正座で聞いていたが、特に心当たりのある話ではない。生半可な古女房などよりも側にいて世話をしてきたのだ、自然と先を読んで話を聞く癖がついてい
た富樫は首を小さく傾げる。
金が無ェとか、そういう話だろうか。
「改築ですか」
「いや、今年の一号生は中中職人が揃っておってな…自分たちで何とかすると言ってきおった」
「そりゃ、頼もしい」
自分たちが一号生であったら、教官達に尻をぶったたかれるまで何もしなかったか、それとも――
ああ、桃が笑って、さあやろうぜとでも言うだろうか。そしたら自分たちもしょうがねえなと言って腰を上げるかもしれねぇ。
富樫が優しい懐かしい空想に眼を伏せたのを制すように、塾長が言葉を続ける。
「そうしたらな、床下から箱が出てきおったと報告があった」
「箱」
「どうやら床下に酒やら何やら、色々と隠しておったそうだ」
「フッ、」
富樫が笑った、学帽を被っていないために笑顔を遮り隠すものは何もない。昔を思い出して富樫は口元と目尻に皺を作って笑った。
「しょうがねぇ奴らだ」
「フッフフ人の事が言えるか富樫、お前とて隠しておったろう」
「そうだったっけか」
トボける富樫の前に、ドサリと紙の束を塾長は置いた。厚さとしては国語辞典ほどの、どうやら手紙の束のようであった。
富樫がためらっていると塾長が太い顎でそれを手にするように促す。
手にした紙の束は日に当たって居なかったはずなのに黄色く端々が変色している、何気なく富樫は一通引き抜いて表を返した。
ごちごちとした字で、住所と相手の名前が書いてある。あて先はどうやら女であるようだが、それよりも富樫は字に眼を惹かれた。
その字、この字、もしや、
間違えようもない、富樫が正解にぶつかった瞬間ギッと音がしそうなほど眼を大きく瞠った。
息を一瞬忘れるほどに驚き、言葉もなく紙面から顔を上げると塾長を見つめる。
「………」
「見覚えがあろう」
「こりゃ、……―――あ、」
――あんちゃんの字だ、そう呟いた声は掠れ切っていた。
塾長は顎をさすりながら、無言で富樫を見守っている。
うす雲が空を走り転げ、太陽にひっかかってかぶさっていく、
急に部屋が暗く沈んだようであった。
宛名の女に心当たりがない、富樫は震える指先で封を切る。ビ、封筒が破れた時に立てたごく小さな音にどうしようもないほど狼狽してしまう。
良かったのだろうか、開けた端からそんな迷いが生じてくる。
しかし指先はのろのろと迷いながらも中から便箋を引っ張り出した。
好奇心などと言う下衆なものではないと、そう自分に言い聞かせながら紙面に眼をやる、富樫の胸を酷く突いて止まない兄の字であった。
『最近暑くなりましたが、いかがでしょうか』
そんな切り出しがいかにも野暮ったい、野暮ったく実直で、誠実。気の利いた言葉一つも書けない手紙である。
自分の近況を書こうとしたのか、今日食った飯のことなどと連ねてあった。その下手さも尚、兄らしかった。
『源次は』
源次、富樫の名前もそこかしこに挙がる。しかしそれは本当に弟のことを書きたかったのが半分と、もう半分は会話に詰まったがためのものであると冷静に、し
かし嫉妬らしきものに胸をチリチリさせながら富樫は見ている。
たったの三通程度開けたところで、富樫は手紙を読むのをやめた。本心から言えば、全てつぶさに眼を通したかった、が、
「…これァ、俺んじゃねぇからな」
そう言い置いて富樫は手紙を束へと戻す。塾長はその一部始終を見守っていて、腕組みをしていた袂から腕をヌッと出して顎をさする。
「知り合いか」
「いいや、……いや、……そう、そうです」
「うん?」
「近所の、肉屋のネェちゃんだったと思います」
「ほほう…恋仲だったのか」
富樫は首を横に振った。近所の肉屋の、笑顔が可愛い人だったと覚えている。
「たまにあん、兄貴がそこでシュウマイ買って――それから、」
それからたまに、銭湯に行ったりするとお互い御近所なもので出くわしたりもした。一度だけだったが石鹸を投げて貸し借りした覚えが富樫にもある。
今思えば、もしかしたら――何かが芽生えていたのかもしれない。富樫が気づかなかったのも無理はない、それはあんまり淡くて、富樫も子供だったのだからし
ようがない。
「―――そうか、これはお前に渡るべきものだからと預かったのだ」
「ありがとうございます、その、これから少し―」
外出の許可を得ようとした富樫の言葉尻は塾長の大笑いに遮られる。
「ワッハハハ、よい、良い、とっとと行って来い、その――シュウマイ小町に」
畳に頭を擦りつけんばかりにして、富樫は礼を言った。
再び雲が外れた太陽が張り切っている。
先ほど塾長が言った、シュウマイ小町という言葉にどきりとした。
というのも富樫の知るその人はまさに肉屋小町と呼ばれていたからである、塾長にはなんでもお見通しかと顎が外れる思いであった。
電車を乗り継いで、富樫は昔自分が兄と暮らした町へと向かう。兄が死んで、富樫が男塾に転がり込んでから訪れたのはたったの一度か二度である。
財布と手紙の束だけを抱いて、いや、それよりも学帽である。学帽を胸にしっかりと抱いて富樫は電車に揺られる。
町並みは随分ときれいになっていて、富樫はそこに兄と自分の面影を見出せないでいた。それでもいい、と富樫は思う。
どうせ町だって人だって、富樫を富樫とわかりはしないのだろうから。
富樫が兄と通った銭湯は既に無かった、遠めにもあの大きな煙突が無かったから予想はしていたが、微かな寂しさは感じる。
もしかしたらあの肉屋もないかもしれない、道中考えないようにしてはいたが、十分考えられることである。
しかし、
「そんでもいい」
それでもいい、それでもいい。これだけたまるまで兄が出そうとしなかった、出せなかった手紙である。富樫がこの手紙を肉屋小町へ渡すのが正しいのか、それ
とも富樫がしまいこんでいたほうが正しいのか、それは富樫にどうしても判断がつかなかった。
だから、肉屋小町が居ようが居まいが、どちらでも良かったのである。
午後になって日差しは更に張り切っている、張り切りすぎてアスファルトに気の早い陽炎が揺らめいていた。
首筋に汗をかきながら、富樫は足を速める。
『肉屋あさひ』
その古臭い看板を眼にしたと同時、富樫は無性にこのまま帰りたくなった。
もし、いなかったら。
もし、その女に旦那が居たら。
もし、その女がブッサイクだったら。
もし、その女が死んでいたら。
もし、
もし、
もし、
もし、
幾通りのもしが富樫の頭に勢いよく涌いた、どの『もし』も富樫がこのまま帰るようにすすめている。それに従いたい気持ちが富樫の胸に強くなる。
しかし富樫は何かに動かされるようにスーツの懐から学帽を、兄の破れ学帽を取り出してきりりと頭に被った。
そして手紙の束を手に、ゆったりと、兄がしていたようにゆったりと、セカセカせずに近づいていく。
特売のノボリがはためいている。黄色がずいぶんあせて、だいぶ取り替えて居ないようだ。
あの頃買うことのかなわなかった牛肉、たまにコマ肉だけ買えたブタ肉、お世話になった鶏肉、それから惣菜が並ぶケースが見えてきた。
レジのところに誰かが居る、女のようだった、それも富樫と同じぐらいか、それとも少し年上の、女がついていた頬杖から顔を上げて―――
「―――ゲンちゃん!?」
少女のような、悲鳴のような、そんな悲鳴が街を矢の様に走って、富樫の耳へと突き刺さった。
急に空が翳った、気まぐれに腹を立てて、どこからともなく分厚い灰色雲が太陽だけでなく空を覆う。
やかましいザンザンと篠突く雨の中、玄関ではなく勝手口が開く音を塾長は聞きつけた。
この家に住んでいるのは主人である塾長と、秘書の富樫のみ。
ならば富樫が帰ってきたと考えるのが自然である、富樫は立場をわきまえてか決して玄関からは帰ってこない。
もし賊だとしても塾長にはあまり関係が無い、
「すまんが、ちっとばかし待っててくれるか」
客人を待たせて塾長は座布団から腰を上げた。
廊下の一番奥、北側の日当たりの悪い部屋。そこまでまっすぐに雨が尾を引いている、後で掃除をきつく言い渡さねばなるまい、と塾長はその雨をよけながら向
かった。
ドアの取っ手にはどうしてだか白いビニル袋がかかっており、常人ならざる嗅覚が嗅ぎつけた中身はシュウマイであった。
む、と男らしく黒々と太い眉が寄る。中からは何か切れ切れ細細と、声が聞こえてくる。
声の主は当然富樫であるのだが、これがどうしてだか何か苦しげであった。
「富樫、帰ったのなら挨拶ぐらいせんか」
別に語気を荒げた訳ではない、しかし普通の人間ならキャッと飛び上がりそうな力強い声である。ざんざんの雨にも決してかき消される事などなさそうな声で
あった。
「……っす、すんま、せん」
返って来た声は間違い無しの涙声であった。
腕組みをして塾長はフフフと太い笑い声を漏らす。
「なんじゃ富樫、お前泣いておるのか」
「泣いてやしねぇよ!」
噛み付くように声が返ってくる。しかし直後にビス、と鼻をすする音。隠しようもなく泣いている。
その気になれば指一本でドアを吹っ飛ばせるだろうに、塾長はドアの前に立ったまま。
「居なかったか」
主語は無い、けれど富樫はきちんと理解をした。
「居ました」
「旦那が居たか」
主語は無い、けれど富樫はきちんと理解をした。
「居ませんでした」
「ならば突っ返されたか」
主語は無い、けれど富樫はきちんと理解をした。
「…受け取りました」
「ならば」
ならば何故、塾長が聞くよりも早く富樫は叫んだ。
「泣かれたんじゃ!あの、あの女、あんちゃんを想って泣いたんじゃ!」
雨音が途切れる。
『ゲンちゃん…ああそうか、君もゲンちゃんだったんだっけ。源吉さんね、…別に源吉さん待ってたわけじゃあないんだけど…なんとなくね』
なんとなくで人が泣いた。
『なんとなく、嫁に行きそびれっちゃった』
なんとなくで、人が泣くのだ。
『そっか、…こんな、出せばいいのにねぇ』
元気でね、君は。あの、ウキエさんに似た優しい顔でそう言って、シュウマイを渡してくれたのだ。兄も富樫も大好きだったシュウマイを。
「すぐ、止めます」
涙のことである。
「何故じゃ」
塾長がいかにも不思議そうに、顎なんぞさすりさすりしながら尋ねるものだから、もうヤケになって富樫は吠えた。
「押忍!男ッたるもの、泣いて、泣いていいのは親の葬式と、それからっ…」
財布、言おうとしてまた涙が喉を突く。
「馬鹿モン!!」
声で衝撃波を生める男を、富樫は他に知らない。腹からの大声にドアは木っ端と吹き飛んだ。薄暗い部屋の中ベソをかいていた富樫と対面、富樫は吹き飛んだド
アに唖然としながらも顔を拭う。
「男が、人を想って流す涙を誰が咎めるか!」
「……じゅ、」
嬉し泣きである。兄を想って涙を流してくれる人への、感謝の涙である。
ざんざんと風を交えて降る雨、その雨が瓦を叩くよりも尚激しい熱い涙である。
「富樫、わしの胸で泣くがいい!!」
ひく、と富樫の喉仏が上下した。のろのろと立ち上がる、塾長が着物から袖を抜いてもろ肌に脱いだ。年を感じさせない張り詰めた肌が薄暗い室内で光を放つよ
うであった。
「お」
「押忍、ごっつぁんです!!」
富樫は言うなり塾長の胸に飛び込んで泣いた、おうおうと、激しい男泣きである。雨がその勢いに押されてか細く萎れていった。
あんちゃん、
あんちゃん、
良かったな、あんちゃん。
あんちゃんを想って泣いてくれる人、俺以外にも居るじゃねえか。
江田島平八邸からは、熱気が轟と空へと立ち上っていく。
そはまるで龍のようだと誰かが評した。
「という訳で俺はほったらかしさ」
「災難だったな桃」
災難だったと言うわりに伊達は嬉しそうである。桃が気落ちしている姿などあまり見られるものではないからだ。
親分って中中子供みてぇなトコあんですね、と家事手伝い見習いが不遜な事を言う。
仏頂面が淹れた茶を啜りながら桃はふてくされている。
「たまに会いに行ったら、まるで俺の事なんか眼中に無い」
「ふふん」
「笑うなよ、」
「ふふふん」
「ちぇっ、友達甲斐が無いったらねぇぜ」
とうとう本音笑いが出てしまった。障子の影で仏頂面がたしなめるように軽い咳払い。
雨降る夕暮れに伊達邸にいきなり現れた桃だったが、どうやら原因は富樫だったかと伊達も得心がいく。
「…次会ったら、俺の胸でも泣けって言ってみるかな」
「間違いなく殴られるな」
「?なんでだ?」
なんででもだ、伊達は訳知り顔で低く笑った。上機嫌な夜である。
「あ、雨上がりましたよ!」
Copyright (c) 2008 1010 All
rights reserved.
