愛でもくらえ
目に入れても痛くないほど可愛いのと、
頭っから食べっちまいたいほど可愛いの、
とりあえずお前はどっちもさ。
四月十日が自分の誕生日であることを、級友達にはそれはもう盛大に言っていた。祝ってくれよ祝ってくれよと繰り返していた。
しかしあくまでそれは親しい間柄の話、上級生には言う機会もなければ言う気もない。
春の午前九時は朝のしゃっきりとした寒さが去って、かわりに日差しが地面をぬくめる。おはようと言うには少し遅い時刻であった。
そのちょっと遅いおはようの挨拶のついで、ちょっとした立ち話に何気なくセンクウはそれを聞いたのである。色素の薄い、蒼い血管が透けるような瞼が一度ま
たたく、まつげがつられて羽ばたいた。率直な祝いの言葉がつむがれる。
「そうか、お前は今日誕生日か…すまんな、何も用意していないが…おめでとう」
「い、いや別にその…押忍」
何が押忍なのか、富樫は学帽のつばを引き下げてちょっと照れてしまった顔を隠した。センクウは顎に指をかけながら自分に言わないその水臭さを咎める。
「言ってくれていれば祝えたのだぞ」
「…押忍」
「それとも、祝わせてなどやらんという心積もりか?」
「そんな!いや、そんなんじゃねえ!」
「なら、来年祝わせてもらうぞ」
瞼のふち飾り、日光に金色にちらちら光を吸い込んだ睫毛の奥で青い眼が笑っている。富樫も笑った、兄に対してのわだかまりも次第と変質していく。兄が満足
して自分に男の道を示してから天に昇ったのであれば、戦いの後に残るのは憎しみではない。しかしその気持ちにまだ名前をつけられないでいる。
「そうだ、誕生日だというのにこんなことを頼んで悪いが…煙草を買ってきてもらえないか?俺は野暮用があってな」
「押忍!富樫、センクウ先輩の煙草、買いに行かせていただきます!」
このセンクウという男、先輩と呼ぶと照れるようでそれを富樫は見たくて、わざと先輩に力を入れて復唱する。
センクウは苦笑しながら懐から財布を取り出した、富樫のクーポンや生卵セット券などで膨れた財布と違い、本当に紙幣で厚みを持った財布である。
「すまん、これで……セブンスターをカートンで。二つ買ってきてくれ釣りは手間賃だ」
センクウの白くて粒が揃って形のいい歯を見ていると、とてもヤニとは結びつかない。そして富樫と同じ銘柄を吸っているのだということにも驚かされた。
「毎度、って…こりゃ一万円札じゃねぇか!いけねぇ、いけねぇよセンクウ」
ここでいけねぇと言ってしまうのが富樫の野暮なところである。センクウという男が可愛い弟分である後輩の誕生日を祝えずに、せめて美味いものでも食って欲
しいと言う心遣いを察することが出来ない。鈍くなければ富樫はやっていけないと言うがそれははたして本当かも知れぬ。
「…言わせるな、いいな。これで煙草を買ってこい」
言い含めるようなセンクウの優しい声と、春の日差しを差っぴいてもあたたかい眼差しにとうとう富樫はウンと頷くことになる。
「…いいのかよ、こんな大金」
頷いて尚もそんなことを言う。まったく富樫という男は野暮と根性と多少の愛嬌でできている。
「いい。最近懐が潤っている、…お前のおかげでもあるのだ遠慮はしなくていい」
「?」
ともあれ富樫はうるさいぐらいに大声で礼を言って、せめて全力疾走で煙草屋まで走ることにした。
馬のような、と言うと語弊がある。馬ほど上手に走れもしない、どっからどっかと危なっかしい足取りで煙草屋へと走り、
「バァさん、セッタ!」
とがなった。なじみのバァさんは皺だらけでどこが目だか口だか分からぬ顔で笑ったらしかった。
「おう、一本かえ」
貧乏富樫、一箱のセブンスターを一本単位で買わせてもらえるように頼み込んであったのである。ちっちと富樫は指をキザったらしく見えるように振った、
「バァさんしみったれた事言ってんじゃねぇや、箱でくんな!」
「めずらしいねフフフ、あい、二百五十円」
「ますますしみったれてやがらぁ、箱ってンなら箱、カートンじゃ」
「カートンかえ!」
バァさんは本気で驚いたようだった。入れ歯の口がもぐもぐと動いて、
「…二千五百円」
「を、二つ!」
へっへへどうじゃい、富樫は人の使い走りであることをきれいに忘れて得意満面である。
バァさんはといえば、止まった。停止し、
「あ、あんたついにやったんか!」
口の周りの皺がすべてピンと張る程に鳥のような大声を上げた。
「や、ば、バァロォ!!俺がそんなことすっかよ!!」
「ほんとうかえ」
「ホントだよ、皺の隙間っから目ぇおっ広げて見て信じろこの誠実な男前ェ」
「………」
「…………先輩の使いじゃ」
「ああ!そんならナットク!五千円です毎度ォ」
脱力しながらも渡された一万円札をバァさんへと渡した。五千円が帰ってくる。富樫にとって札と言えば千円札である、青くない札は富樫をみょうにどきどきと
させた。
「あいよ、こりゃオマケじゃ」
カートンで煙草を買うと、ライターがついてくる。貧乏学生富樫には知らないことがたくさんあった。
「センクウ先輩、一号生富樫お使いの任を終えました!」
ドアを開けるなり富樫は大声を上げた。センクウは自室の椅子に腰掛けて本を読んでいたが、その大声に顔を上げる。時計をちらりと横目に見ると先ほどわかれ
てからさほど時間が経ってはいなかった、寄り道どころか富樫の顔の汗を見ると全力疾走をかましたらしい。
その汗を隠しもしない富樫に、センクウの笑みはあたたかく深まった。
「ご苦労だったな、なんだ走ってくれたのか」
「ヘッヘヘ俊足だろ」
「そうだな、さっきのサラブレッドのようだ」
「へ?」
なんだ知らないのか―センクウは窓の外を指差した。富樫が見下ろすと何もない、ただ松尾がなんだか分からない踊りを踊っているのが見えるだけである。
「さっきまで、競馬場から脱走したサラブレッドが暴れまわっていたのさ」
「へえ」
「あわや警察沙汰になるところだったがな、五分もせずに片付いた」
「へええ、そりゃどうしてだ」
「剣さ。あの男サッと現れるなりその馬、裸馬に飛び乗りまたがって、毎日乗っているように優しく首を撫でた、それですっかりカタがついたのだ」
「あいつだけは俺も、わからんなぁ…」
「競馬場へ連絡して引き取りに来てもらおうとしたんだが、剣はそれじゃあ二度手間だからってそのままその馬を連れて出て行ったぞ」
「そうか…おっと、忘れてたぜ」
富樫は思い出したように声を上げ、手に提げていたビニル袋を差し出した。中にはカートンが二つとライターである。
「ご苦労だったな、富樫」
「ああその――本当に」
センクウは最後まで言わせなかった。
「くどいぞ、それから」
センクウは一度その煙草を袋ごと受け取ってから、そのまま富樫へと差し出した。富樫の目がマヌケに見開かれて、なんだろうと言いたげである。
「誕生日おめでとう、包装もなにもなくて味気ないがプレゼントだ」
微笑みは決して軽薄なものでなく、包み込むようなもの。袋を渡す時にかすめた指先同士の隙間を男気という稲妻が走り抜けていく。
「せ、センクウ先輩…!!」
富樫はすっかりセンクウの男気に打たれていた。
俗に言う男が男に惚れるという奴である。しかし決してその感情が俗なものでないことを重ねて述べておく。
「富樫!」
窓の外から富樫を呼ぶ声がした。センクウと富樫、互いの目と目の間を行き交う行き路がぱちんとはじける。センクウは指紋一つなしに磨かれたガラス窓を押し
開けて外へと頭を出した、そして富樫を振り返り、
「呼んでるぞ」
「え?……ああ、桃じゃねぇか」
窓からセンクウと揃って顔を出すと、校庭の真ん中に一号生筆頭剣桃太郎がいた。センクウの自室は三階にあるというのに、まるで宿舎全体を見下ろすように桃
は校庭に足を開いて立っていた。その腹からの声は窓ガラスを叩き富樫を呼び出す。富樫は窓から身を乗り出して応えた。
「おーう!どうしたんじゃ桃ォー!!」
「そこに居たか富樫!センクウ先輩も、押忍!」
「ああ」
センクウも頷いてみせる。
「富樫ー!!」
「なんじゃー!!」
二人の大声のやり取りを耳にしながら、声に出さずとも気持ちぐらい伝わりそうなものだのだが、とセンクウは思った。二人の視線の間には確かに輝くものが見
えるように思うのである。
「有り金全て、俺に預けてくれ!!」
富樫は一瞬意図を汲み取りかねて沈黙した。
「………」
「富樫!俺を信じろ!」
富樫はセンクウと顔を見合わせた。
富樫はセンクウから貰った大事な大事な新渡戸稲造を学帽の裏にこしらえた隠しポケットへしまいこんでいた。お年玉を母親から隠すような富樫の仕草をセンク
ウは嬉しく見守っていたのであったが。
それがほんのつい、さっきのことである。
「富樫」
「お、おう」
「俺は時折あの剣という男、お前のことなら何でも見透かしているんじゃあないかと、そう思う」
「俺も、そう思います」
そうしてやってきました中山競馬場。春の陽気に馬券も飛ぶ飛ぶ。親父達の怒号も飛び交う、どうやら午前のレースからよほど大荒れ続きだったようである。
「さ、富樫。金を出してくれ」
馬券売り場前で桃はそう富樫へ堂堂と言った。
「て、てめぇ桃!!俺に金出さす気ィかよ!!」
「違う借りるだけさ、なに絶対に当たる、だからすぐに返す」
あくまで桃は真面目も真面目、しかしいくら真面目にそんなことを言われたからといって信じるものはいない。
「ばぁっきゃろうてめぇ、競馬に絶対はねぇってジョーシキもしらんのか!」
「絶対だ、男と男の約束さ」
「何をわけのわからんこと言ってやがる、そんなものてめぇ一人で買ってろや。俺を巻き込むんじゃあねえよ」
「金が無い」
さすがに富樫の額へ青筋が浮かぶ、生来気の長い男ではない。
「いい加減にしろ、桃!!金がなけりゃあ諦めろ!」
こんなにまっとうな事を続けて言う富樫というのも珍しいものである。そして学生服姿の未成年が、いくら買わなければ入場できるからといえ馬券売り場の前で
買う買わないでもめているというのに誰も咎めもしない。いいにしろ悪いにしろ見た目が老けているせいであった。
「諦められねえ、これは退けない」
「なんでじゃい!」
「富樫、今日はなんの日だ」
「ああ!?」
「お前の誕生日だろう」
「だ、だからなんじゃ」
「おめでとう」
富樫の矛先が急に鈍った。振り上げた拳の先を失ってしまい、仕方なく学帽のつばを下げる。
「俺は知っての通りいつも金が無え、それでも別に困ったとは思わなかった。だがお前の誕生日に何も贈らずにいるのは辛い、なんとしてでも何か送ってやり
てぇんだ」
「そ、そりゃありがてぇがな、だが」
だが、の先を桃は言わせなかった。まっすぐに春のうららかさとは無縁の、灼熱の視線でもって富樫を貫いた。きかきかと輝く瞳は冬空に一等星のすがすがし
さ。
「お前の喜ぶ顔が見たい」
「じ、自分の金でやれよ――」
そして振り出しに戻るのであった。
どうしてだか富樫は五千円分の馬券を手にしているのである。
これには桃の説得があった。
「頼む富樫信じてくれ―、これは本当に、男気の約束なんだ」
「信じられっか」
「まあ聞いてくれ」
桃の話はこうであった。
午前に校庭へと乱入した馬は何と、今日の中山最終レースに出走する馬だったそうである。馬にまたがって競馬場へと戻る道すがら話を聞いた。
「おい」
「そこで奴さん俺に言ったのさ、自分は今まで期待されたことなんか無い、レースをするのが恐い―とな」
「おい、桃」
「だから俺は言ってやった『俺が信じる』と。だから精一杯やってみろって言ったのさ、そしたらそいつは大層喜んだ」
「なあ、おい、桃」
「そいつは胸張って―正確には首だが、とにかく今日は俺が必ず勝たせるって言ってくれたのさ、お前にもカワイイ子ぐらいいるだろう、その子にいいとこ見せ
てやれとさ」
「桃、桃、なあ、おい」
「俺ははっとした、今日はそうだ富樫の誕生日だ。かねてから俺の真心をとは思っていたんだがここは奴さんの男気に乗っかることにした」
「――もーも、」
「だから最終レース、富樫、頼む」
「帰る、付き合ってられっか」
だがどうしてだか富樫は五千円の馬券を手にしているのである。
そこには桃の説得があった。言葉で口で実力での説得があった。
そうして富樫はブスくれながらも五千円の馬券を、センクウ先輩すんませんと詫びながら手にしているのである。
春らんまん、ビールの入った観客達は好き勝手なヤジを飛ばしたり歌ったりと気ままに楽しんでいた。楽しむどころでないものたちも一部はいたが、春の日差し
も手伝ってか全体的におおらかなムードである。
桃はゴール前の特等席に二人分の尻を落ち着けるなりお祭り価格のジュースを富樫へと手渡した。
「おう、サンキュ」
「タコヤキ食うか」
「ああ」
タコヤキの船を桃が手のひらに乗せて差し出す、熱々のそれはさぞ熱そうだったが桃の顔は涼しいままである。富樫は楊枝にタコヤキを一つ刺して口へと運ん
だ。祭りの気配のためか、安っぽさも美味さへ転じているように思える。
「うめぇな」
「富樫、俺にも」
「おう」
タコヤキを持ってもらっているため、富樫は一つタコヤキを刺すと桃の口元へと運んでやった。うまそうに桃は食っている。
「あーあ、せっかくの五千円がよう…」
ぼやく富樫に、頬をもぐもぐさせながら桃はまるで富樫の気持ちと正反対の事を言う。
「五千円が、百倍なら五十万円だな」
「馬鹿」
「金の事じゃあお前に結構迷惑をかけたな」
いかにも、今までの事のように桃は笑う。富樫は当然唇をとんがらせた。
「今、まさにかけられてんだがよ」
「そんなに俺が信じられないか」
正面きってそう見つめられると富樫は弱い、しかし今日は富樫、五千円もの大金を今にもドブへと投じようとしているのである。気迫が違った。
「桃じゃねえよ、いいか桃ギャンブルってのァ絶対がねぇから楽しいんだぜ?絶対があるんじゃあ誰もこんな、身上潰すくれぇ夢中になったりするもんかよ」
「富樫、」
「いいから聞け、俺ァおめえを信じてるよ。だけどな、俺のじじいだけどな、そりゃあ腕利きの大工だったらしいや、だが博打でバアさんカタに出す寸前までや
りゃあがった。だからな桃、趣味でやるんなら止めやしねえよ、だけど絶対借りてまでやるんじゃねえぞ?」
桃は黙って聞いていた。富樫がじつ、と目を覗き込んでやると桃は顔を近づけた。
「…わかった、だけどどうして」
どうしてを富樫は言わせない、恐い顔で低い声を出す。
「聞くんじゃあねえ、馬鹿」
桃はもう一度、わかった、と言って富樫の肩を自分の肩でとん!と小突いた。わかりゃあいい、と富樫の声が返ってくる。
「いやぁ、ギャンブル最高!」
夕暮れの競馬場、二つの影は一つになっている。
富樫はそれはもう素晴らしい変わり身の早さで桃の肩を抱いていた。足がもう踊っている、酒を飲んでもいないのに酔っ払っている。
「ヘッヘヘ桃おめぇすげぇな、五千円がええと、ええと、」
オッズの計算をしようとしたが、九九もまともに出来ない富樫には少少荷が重い、桃は素早く応えてやった。
「万馬券とはいかなかったが、全部で四十一万円だ」
「よんじゅうっ!まん!」
富樫はウハウハである。もう輪郭から目尻やら口元が滑り落ちて行きそうなほどゆるんでしまっていた。
「こんだけありゃあ当分好き勝手できんな、なあ桃!」
「…そうだな」
浮かれまくって天上まで今にも上っていきそうな富樫とは裏腹に、桃の横顔は夕日に赤くされながらもあまり弾んではいないようである。
「あの馬公に桃、今度礼言っといてくれや」
「そうだな」
その言葉に桃は微笑んだ、富樫はもう四十万で何を買うかの算段で頭が一杯になりつつある。
横顔が遠いな、と桃は目を伏せてしばし考えた。
「富樫」
「あん?」
「この金―――」
その時である。
『ああ困った困ったどうしよう、娘の結婚資金を稼ごうと思って競馬場にやってきてみたけれどやっぱりうまくいかないものだわね。娘は旦那を早くになくして
からというもの私が女手一つで育てて、ようやく人並みの幸せを手に入れようかっていうのに、アタシゃ嫁入り道具の一つも買ってやれない。ああなんてアタシ
はふがいない母親なんだろう、こんなアタシはきっと娘の花嫁姿を見る資格なんてありゃあしないのね』
目に留まった。というより目に留まらされた。中年女はわざわざ換金所のすぐ側でそう切々と訴えている。とてもわかりやすく聞き取りやすい声で、筋道立った
内容で、丁寧に詳しく、訴えている。
「………」
「…………」
二人の視線がかち合う。考えはまるで逆方向を向いていて、お互いが考える事はおおよそ予想がついている。
桃が一歩踏み出した。
富樫が袖を掴む。
桃が振り向く。
富樫が首を左右に振る。
桃が微笑む。
富樫が必死に首を左右に振る。
桃が中年女を示す。
富樫はもう泣きそうになりながら首を左右に振る。
桃が富樫の頬に手を触れる。
富樫は首を動かせなくなったかわりに目で訴える。
桃が顔を近づける。
富樫はとうとう絶叫しようとする。
桃が唇同士をそっと合わせる。
富樫は吐き出しかけた絶叫を飲み込まされる。
「ようオバさん、いくら金に困ったからって競馬なんかに頼ったらいけねえよ。なに、俺の知り合いのじいさんが博打狂いで、ばあさんを質に入れたって聞いた
んだ。だから借金してまで、無理してまで競馬なんかしたらいけねえよ、だけど話はわかった、ほらここに四十万円ある――」
富樫はボタボタと涙を零してあああううううあああうううと苦しい苦しい嗚咽を漏らす。
男は財布を無くした時と親の葬式でしか泣いたらいけないと言われているが、それに該当するだろう。誰も咎めはしなかった、それどころかああスったんだなあ
と優しい視線を注がれている。
「富樫、帰りに何か食って帰ろうぜ」
「ううううう」
「なあ富樫」
「ううっ、ううううう」
「そう泣くなよ、当初の通り俺の真心をやるからさ」
「まごっ、まごころなんかじゃ、俺のよんじゅうまん…!!」
「富樫、こっちを向いてくれ」
「うううううう」
「焼肉なんてどうだ」
「う」
富樫、焼肉との声に思わず振り向いた。桃の右手にある札の色は茶、新渡戸よりも更に渋い茶である。福沢諭吉がむっつりと、夜目にもしっかりとそれは見え
た、富樫の目が金ばかり追いかけていたからこそこかもしれぬ。
「ほら、元金返すぜ。釣りで焼肉食おうぜ」
「桃…」
「富樫、誕生日おめでとう」
「ば、」
なんてタイミングが悪いんじゃ、富樫は唇を結んだ。これじゃあ富樫としても、嬉しそうに焼肉に飛びつくわけにはいかないのである。
「仕方がねえ、焼肉でガマンしてやっか」
「デザートに俺の真心もつけるから」
「…真心じゃ腹ァ膨れねえよ」
そうか?と桃は首を傾げた。
「フッフフ胸焼けしても知らねえよ」
実際その通りになるのを、この時富樫はまだ知らない。
四月十日の、細い路地でのことである。
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