晴れた日に傘をさして

見えない人だと思う。
まるで見えない。
見えないというのはわからないということである。
わからないものは恐ろしいと私は思う。

「なあベルリン、俺の後について連続で言ってみろ」
「はあ」

唐突にソファに寝そべっていた上司から声をかけられた。私は窓際の席で請求書のチェックをしていた時のこと。
たいていその気に入りのソファで長長寝そべってぐうぐう寝ているのだから、唐突にかけられた声に少しばかり驚いた。

「俺の言ったことを続けて言えばいい」

上司の顔は私のところからは見えない。どんな顔をしているのか、わからないということである。

「わかりました、どうぞ」
「よし言うぞ。ヤッターマン、コーヒー、ライター。続けて言ってみろ」
「お断りします」


まるで見えない人だと思う。





「ふふ」
笑いが頬からこぼれた。なんだか笑えてしまう、私ときたら最近とても不真面目で上司のからかいをすげなく突っぱねることもあるのだ。
そんな時上司の反応と言えばとても子供のようで、そのくせ子供が到底知りもしないような際どい卑猥な切り返しをしてきたりもする。
寒々とした部屋でそんなやり取りをしていた。陽がよく差し込む部屋ではあったけれど、窓が大きいせいでとても寒かった。
私が寒いと文句を言うと上司は、
『地下倉庫よりゃ暖かいだろうが』
と言った。しかし実はそうでもない、締め切られた倉庫は空気が入りにくいしヒーターを入れてひざ掛けをかければ暖かいのだ。
しかし、私の返答はたった一言、
『そうですね』


「ふふ、」


口を開けて笑った。ぬるりと口の中に油のようなものが入り込んでくる。なんだか甘いもののような気がして舌で舐めてみた。
「うッ」
酷い味だ。目が覚めるような味で、私はぱっちりと目を開けた。開けてはじめて私は今の今まで寝ていたということがわかる。
真っ赤だ。
赤い、見知った赤。
「あ」
頭がくらくらする。視界一杯の赤に酔いそうだ、口の中から鼻へと通り抜ける匂いにも。

急激に幸せな気分は吹っ飛んだ。背中が凍る、私は何をへらへらしていた、この『戦場』で!飛び起きた。視界一杯が真っ赤なのは血液が目に入ったせいだ。起 き上がりながら袖で顔を拭う。濡れていたのは額と目のあたりだけ、ということはそう深くも無い傷だ。確認しろ、私は息を深く吸った。生臭い匂いを吸い込ん だらここが嫌でも戦場だってわかるだろう。

「…気がついたか、」

私は全てを理解した。まだ目の前は赤を晴らせないでいる、けれど声のかかった気配がどのあたりからかを探ることは出来る。身体をそちらへと向けた。眼をご しごしと擦った。瞬きをしても赤は晴れない。

「大変失礼をいたしました、…大豪院長官」
「あまり擦るな」
私は詫びた。深く頭を下げて、しきりに瞬きを繰り返す。
大豪院邪鬼長官の気配というか覇気は目を閉ざしていてもわかる。もし昼寝をしているときに近づいてきたら飛び起きるほどの強い覇気がそのたくましい身体を まとっている。しかしひとたび気配を殺したら私なぞ目の前にあっても気づけずに、喉を縊られてしまうことだろう。
「顔を洗え」
突然手を、というより腕をぐいと引かれた。申し訳ない気分で一杯で本来なら畏れ多いと断るべきだったけれど視界の利かない私のままでは弾除け程度の役にも 立てない。無言で頭を下げてその手に引かれた。ずきずきした頭の痛みは、顔に出さずに堪えることが出来る程度のもので、出所は後頭部であるということが知 れる。頬に当たる空気が冷たくなった、足元に小さな段差があった。ということは今廊下に出たのだろう。そして引かれた手にひんやりとしたものが当たった。 蛇口だと頭が理解するよりも先に指がそれをひねっていた、水が出たのと同時に導きの手が離れていく。握られていた部分が熱かった。
頭を突っ込むようにしてざぶざぶと顔を洗った。スーツの袖口が濡れるのも構わないで洗い、目の中に入った血液を洗い出す。額に指が触れるとちくりとした痛 みが顔を出す、傷口は額の上部生え際のあたりにあった。頭が冷える。
あの時、確か飛んできた石つぶてに当たったんだろう。石ころ一つ避けられなかった私はなんとも無様だ。無様な上、今もこうして迷惑をかけている。新兵達を 侮っていた報いである。私とて一般のOLとそうそう変らないというのを失念していた。
目を開ける。
視界が開けた。私の手はいつものクセで辺りを探る、…無い。
「あれ」
メガネが無い。安物だけれどなくなると困る、メガネがいくら手を伸ばしても手に触れぬ。ずぶ濡れのまま顔を上げた。銀色の色合いからして給湯室、白に手を 伸ばした。白はタオルだ、普段茶碗などを拭く布巾だということはわかっていたけれど構わずに顔を拭く。額の傷も気にせずに、というより強めに拭いた。引き 起こされる痛みに覚醒を促す。
改めて見てもメガネが無い。
と、大豪院邪鬼長官が私へ向かって手を差し伸べた。目を限界まで細めても見えないので、顔を近づける。犬が手のひらから餌を貰うような格好まで近寄ればそ こに見慣れたものがあった。
「貴様はこれで額を切ったのだ」
大豪院邪鬼長官の声に咎めるような響きがあった。
「は、申し訳ありません」
言い訳のしようがない。私はおそるおそる手を伸ばしてその手の上から見慣れたそれ、メガネを摘み上げた。左のレンズが割れている。ツルもぐしゃりと曲がっ ていてどう曲げても伸ばしてもかけることは出来なさそうである。ようやく私の昏倒の理由が知れた、石つぶてをくらい、メガネで額を切り、バランスを崩して 倒れて頭を打ったのだ。間抜けこの上ない。その上先ほど連れ出されたのは本陣の会議室であった。本陣まで大将にご丁寧にも運んでいただいたというわけであ る。
申し訳ない、それ以上に恥ずかしい。顔が熱くなった。
「戻る」
背を向けた大豪院邪鬼長官を追うも、どうにも足元がおぼつかない。しかしまさか帰りもエスコートというわけには絶対に行かない。
私は何食わぬ顔で本陣へと戻った。
開け放たれた会議室の戸を後ろ手に閉ざす。カギもしっかりとかけた。と、
「……卍丸課長?」
一瞬どの名前で呼ぶのかをためらった。今は作戦中だったので、上官と呼ぶべきだったかもしれない。
呼ばれた相手があのソファの上にいないというのはメガネのない私にも分かる。私は自然と大豪院邪鬼長官を見やった。
「貴様の介抱を終えると飛び出して行った」
「え!?」
窓際へとふらふらしながら駆け寄る。メガネの無い私が見下ろしても人は点にしか見えないだろうとはわかっていたが、
「ああ…」
真っ黒な蟻の山のあちこちに金色に光るものが見えた。見えた気がした。眉間に皺を寄せている私へ大豪院邪鬼長官は説明をしてくれる。
「あらかた各々の持ち場を片付けた影慶、それからセンクウも正面で迎撃する羅刹の元へと加わった。相手も小細工が利かぬとわかってか正面に人員を割いたた め総力戦となっている」
「…そこへ課長も」
「ウム、ところでベルリン心臓はいいのか」
私の喉のレパートリーには無いような声が出た。気遣われるとは思ってもみなかった。
言われた胸のあたりを軽く指差して頷くとそうかと短い返事がある。それにしても何故心臓?
「運ばれてきた貴様に、あれが熱心に心臓マッサージをしていたが」
「………心臓はとても無事です」
介抱と先ほど聞いた時に不思議に思うべきであった。額の傷は放置してあったのにと思うと、急に額の傷が痛む。血も出ていたのに。
「そうか」

窓の下では乱戦が繰り広げられている。死天王、上官の皆様は大変楽しげに戦っているようだった。
上司を見つける。目が吸い寄せられたとは思いたくないが自然に私の目が探してきてしまうのだ。上司が分身の術!というような忍者も真っ青な技を使えること は聞いていた、けれどその上限は十人だと思っていた。だが実際私のかすむ視界で暴れまわる上司は最低でも、
「…十二人は、居ますね」
「あれは気まぐれだ。気分で技のキレもなにもかもが違ってくる男よ、今日はよほど機嫌がいいか…悪いか」
「はあ」
正確には十五人だと静かに訂正される。目が疲れてしまった。
楽しげに両腕を広げた姿は聖母に似ている。何故だか上半身を脱ぎあの胴衣に身を包んだ身体で包み込むように敵を受け入れる十五人の聖母。
「来い、来い、もっとだ!!」
叫んだ声が耳に届く。胸が熱くなる。どうしてあんなに楽しげなんだろうか、私の舐めたことの無い蜜がこんなにも甘いんだとでも言うように。喉が鳴る。
影慶上官が隠密行動向きで、羅刹上官が対防御向きで、センクウ上官が奇襲向けで、だとしたら上官は間違いなく乱戦向けだ。
対大人数向けだ。取り囲む敵が何倍もの人数だというなら、それを上回る速さでもって動いてやすやすと倒していく。速く、速く!もっと速く!!いつしか身体 はいくつにも分かれるようで、その身体がまた速さを生んで敵を倒すのだ。
「どうした!ああ?来いよ、来い、さあ!!」
もっと!!
全身でその男は叫んだ。






「そろそろ出るぞ」
「え?」
今なんと?振り向いた私に大豪院邪鬼長官は言った。
「あれらが正面に集中したせいで、入り込んだネズミ数匹がここを目指している」
「しかし数人であれば」
数人であれば、私とて対処のしようがある。それにいざ私が倒れたとて、大豪院邪鬼長官が倒れるはずもないのだ。
「ベルリン」
呼ばれて私は背筋を正す。呼ばれたのがあだ名、上司言うところのコードネームで本当に良かったと思う。こんな人に本名を呼ばれたら命を掴まれた気持ちにな るに違いないのだ。
「はい」
「俺たちはテロリストだ」
設定上だ。
「はい」
「テロリストは防戦一方、そう思い込んでいような」
「…はい」
それはそうである。立てこもったテロリストに逃げ場は無い。だから待てばそのうち白旗をあげるか、もし宗教テロなら自決でもするかもしれない。人質も無し に脱出などと無理だというのが定説となっている。
「ありえないということはありえん。それを奴等に教えに行け」
行け、と背を押された。行けとおっしゃる、この凡人に。
背後でドンと大きな音がした。私が振り向くよりも速く大豪院邪鬼長官が答えた。
「催涙ガス弾だ。この階へも来たな」
「長官、お先に降りてください」
やはり長官のおっしゃった通りに三階の建物であってよかった。気をつけて飛び降りればさほどな怪我にはなるまい。
大豪院邪鬼長官、長官なぞよりよほどどこかの王者が似合う男は首を横に振る。
「俺は後だ。貴様は行け」
「しかし」
「逃げろと行っているわけではない。討って出ろ」
「しかし、」
窓際へ歩み寄る。窓枠に指をさされたそこには何も無い。
「センクウがここに刃鋼線を張った、門のあたりまである。貴様はこの上を走り、上空より敵陣へ飛び込め」
殲滅だ、楽しげにおっしゃる。凡人の私にそうおっしゃる。綱渡りをして?無理を言う王様だ。
「無理です!」
見えない糸の上を走り、敵陣へ突っ込めと?無理だ。私の声も自然と大きなものになる。
威容を形作る上で大きな要因となる長官の立派な眉がゆるんだ。高い鼻も笑っている。
「無茶は出来ずとも、無理は出来よう」
上司と同じ事を言う――上司が真似たのかもしれない。
「行け」
「しかし、しかし、その…」
その、何だ。私は言っていて自分でおかしさを隠しきれない。胸はこんなに高鳴っているのに。何の理由を探している。
「その、この糸では私の靴が耐え切れません」
探し当てた理由はそんなものだ。笑いが出そうだ。
――行きたいくせに。誰かに笑われた気がする。笑っているのは私か。
「…あれはどうした、先日作ったと聞いたが」
あれ。とは。
聞き返そうとして、視界の端に入った箱に言葉を失う。真っ赤な箱。一度開けたきりのそれ。デスクの一番下にしまいこんでいたあれがどうしてここに、聞くま でも無い。金色のモヒカンが笑う声を聞いた気がした。すべて予測していたのだったらたいした先読みだと思う。
「あそこに、あります」
「そうか、あの靴底であれば刃鋼線の上を走れるだろう」
「…はい」
覚悟を決めろ。視界が利かずとも。胸を押さえる。押さえた胸、そのスーツ胸ポケットに普段さしているペンとは違った堅さがあった。指をポケットへ滑らせて 引き出して見ると、
「………ふ、」
見慣れていない、私の嫌いなものがあった。これまたデスクの引き出しへと押し込んだままにしていたコンタクトレンズのケースがここにある。先ほど長官おっ しゃるところの心臓マッサージの際に入れられたらしい。
私があまりにも嫌そうな顔をしていたからだろうか、大豪院邪鬼長官が尋ねられた。
「嫌か」
「…嫌です」
「何故だ」
廊下に人の気配。催涙ガスの煙が晴れたのを見計らってなだれ込んできたらしい。ガスマスク装備があるのに慎重なことだ。
「見えすぎるからです」
見えすぎる。全てが見えすぎてしまう。私が殴った男の顔が苦痛に呻くのも、ナイフで切断した腕の断面も、見えなくていいところまで見えてしまう。
メガネであればフレームの外までは見えはしない、その中途半端さが好きなのだ。
「そうか」




コンタクトレンズを目に入れる。不慣れなせいか緊張したせいか何度も失敗してしまう。
クリアになりすぎた視界のせいでただでさえ大豪院邪鬼長官の姿が更に鮮明になってしまった。目をそらす、窓枠にくくりつけられたらしい刃鋼線は目を凝らし ても見えない。見えなければ走れない。
「…見えない」
「見えないほうがいいのではなかったか」
私の呟きを聞きとがめ、腕組みをしてそう言う大豪院邪鬼長官はもしかしたらからかわれているのかもしれない。
無言でしゃがみ震えの止まった指で持ってスニーカーの紐を外して靴を脱ぐ。箱を乱暴に開けてそのピンヒールの靴を取り出した。よく見ればつま先が反り返っ ているようで、また靴先にも厚みがあった。後でこれがプラットフォームかプラットホームだと聞く、プラットフォームかプラットホームと聞いても駅しか出て こない。
恐ろしいヒールの高さである。おそらく十五センチ程はありそうだ、上官はもしかしたら私が二メートルを越えぬように気を使ったのかもしれない。足を突っ込 んで立ち上がる。急に背が高くなったようで違和感があった。しかし思った以上に足に馴染んでいて歩いてみても不便さが無い、重さも無い。これなら駆け回る ことも出来そうに思える。
「よし、行け」
「はい」

窓枠に向かう。と、あのライフルを探す。確かにこのあたりに立てかけておいたのだったけれど見当たらない。
「銃ならあれが持って行ったが」
「え!?」
意味がわからないわからないわからない。私に彼らのように徒手空拳で闘えとでも言うのか!?無理ではないこれは無茶だ。混乱した。
――どうする?やめる?
誰かが聞いた。うるさい、黙れ。
「……長官」

あれ、よろしいでしょうか。私の問いかけにウムと頷く長官は機嫌が良さそうであった。









私は窓枠に立つ。窓枠から発つ。乱戦の坩堝、最中に征く。
しかしどう見ても目を細く細くして凝らしても見えない。触れればどうにか触れるのだけれど、見えない。見えない上を走れるかどうかはなはだ不安だ。
「見えすぎるのは嫌でなかったか」
「……」
大豪院邪鬼長官がぬうと手を伸ばした。刃鋼線の張られたあたりで拳を作った。私が止める間もない、たちまち長官の拳の中で真っ赤な血が噴出してその糸を濡 らした。
何も無かった空間に真っ赤な糸が現れる。糸は血を伝えて空中へと伸びて道を作った。
「長官!!」
私の声は悲鳴となんら変わりない。大豪院邪鬼長官はいまだ刃鋼線を握ったまま手を離さない。私は窓枠に立ったままおやめくださいと叫ぶ。
「部下へ道を示せぬようで、長官は務まらん」
気迫だ。これが誇りというものか、いやそれ以上のものだろう。
「ぬうッ!!」
ブシッ、と噴出した血を最後に手を開いた。長官の手は真っ赤に濡れ、おぞましい傷が口を開いている。私は窓枠から飛び降りると長官の腕をためらいなく掴 み、ハンカチでその傷を塞いだ。包帯があればいいのだがと見渡すとそれらしい一巻きが応接セットの上に並んでいるのが目に入る。一旦手を離し、駆け寄って その包帯を掴んだ。が、
「…黒い?」
何故だかその包帯は真っ黒だ。別に黒いだけで他は普通なようで、ともかくハンカチごと包帯でグルグルと巻いた。まさか長官神経なぞ断ってはいないだとうと 心配になる。とりあえず血はこれで塞がった。
「影慶のものだ。奴の覆面よ」
「覆面?」
覆面で思い出した。今日は正門前にカメラも来ているんだと聞いていたのだ。私は一瞬迷ってからその包帯を自分の顔へと巻き付ける。
「……どうした」
「私も覆面をと思いまして」
「……む?」
意味が分からないとでも言いたそうな顔をされる。顔を隠したくなるという気持ちを多分生まれてから一度も味わったことがないのだろうなあと思ってしまう。
「…一応、私も未婚ですので」
嫁入り前の娘、娘と言ってもけっこうないい年だが大乱闘を放映されたらそれこそ終わりだ。
「いかぬのか」
「行きます」
答えてすぐ違和感のようなものがあった。が、出陣前だと胸に収める。それを両手に掴んだ、酷く重い。確か一本十キロあるとか。
それ、傘だ。
真っ青な傘である。
護身用として開発中の長傘は、企画者の好みが多分に取り入れられ武器としての威力を増すために骨組みに特殊な金属が用いられている。振り回せばスイカでも 砕ける威力があるがそのかわり酷く重い。
あわせて二十キロの傘を手に私は気を吐いた。


「征け」
命令だ。私は頷く。主が示した文字通りの血路を征く。細い赤へ踏み出す。
「征きます!」
血路を駆ける。







「結局見えるのがいいのか悪いのか」
大豪院邪鬼長官の呟きを背に。
晴れた空に傘をさして。
モクジ
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